水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

2023・24 さくら旅④ ー 根尾谷淡墨桜 ー

2024-05-23 | つれづれ <雑記*神社>

 

2024年桜旅ラストは、
岐阜県の根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市根尾板所)をご紹介。

 

 

 

 

 

 

 

岐阜で桜といえば、2015年に高山市の臥龍桜を見に行った以来だなー。

今回は、名古屋からJRで大垣駅へ。
そこで樽見鉄道に乗り換え、終点「樽見駅」で下車します。

 

 

大垣で降りて樽見鉄道のホームへ移動すると、
チケット売り場で駅員さんが色々案内していました。

たぶん桜シーズンだけだよね。

 

 

乗り換えの時間が少ない割に売り場で結構人が並ぶので、
間に合うかどうか気が気じゃなかった。
乗れないと次発は1時間後だし・・。

 

 

あと、電車が激込み。(私は終点までの1時間以上立ち通し)

揺れる電車内の前方でずっと立っていたので、
前しかみえない。

 

 

スマホでたまに写真を撮るのが精いっぱいでした。

 

 

基本、線路しか映ってない笑

 

 

これは帰りの電車内から。

 

 

谷汲駅だ。

5年ほど前、華厳寺に行くとき降りたっけ。

 

 

 

はじめは少し薄曇りだった空も、
根尾に近づく頃には次第に青空にかわってきました。

 

 

樽見駅とうちゃく。

足を踏ん張りながらの1時間強はキツかったーーー!!

 

 

 

普段は無人の駅も、桜シーズンなので駅員さんがいました。

うすずみふれあいプラザという、
立派な無人観光案内所(待合所)が併設されています。

 

 

 

駅から徒歩5分ほどで、根尾川にかかる赤い橋(桜橋)の袂へ。

 

 

橋の向かいに白髭神社が鎮座していたので、
寄ってみました。

 

 

 

思いがけず素敵な神社。

うん、いいところだ。

 

 

 

御祭神:猿田彦神

 

 

かつては神社のある小山の背後で根尾川の東谷と西谷の川が合流し、
このあたり一面が石河原だったそう。

 


大洪水で上流からお宮が流されてたどり着いた際に、
「この地に住みたい」という神様のお告げによってここに祀られ、
神社のある岩山は「大明神」と呼ばれるようになりました。

明治から人々が住みいて大正10年に川原地区ができると、
地区の氏神様となったのだそうです。

 

 

 

 

車道の横を並走する歩行者用の橋を渡り、
さらに歩くこと10分ほど。

 

 

薄墨公園に着きましたーー♪

 

 

満開の淡墨桜(エドヒガン桜/国の天然記念物)

 

 

樹齢1500余年、
樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張り東西26.90m・南北20.20m。

 

 

幾度もの枯死の危機を乗り越え、天高くそびえています。

 

 

薄ピンクのつぼみが、開花し満開に至ると白い花びらとなり、
散り際に淡い墨色になることからその名が付けられました。

 

 

日本五大桜(大正11年に国天然記念物に指定された5つの桜)
および三大巨桜の1つとなっています。

 

 

 

 

『身の代と遺す桜は薄住よ 千代にその名を 栄盛へ止むる』

 

 

継体天皇お手植えという伝承を持つ薄墨桜。

 

 

昭和初期に、真清田神社(尾張国一之宮)ゆかりの家から見つかった、
古記録『真清探当證』によれば、

弘計王(後の顕宗天皇)が政変を逃れ、尾張国の一宮(愛知県一宮市)に隠棲。

 

 

そこで生まれた男大亦王継体天皇)は、
生後間もなくここ根尾村にうつされひそかに育てられたそう。

 

 

のちに弘計王が大和で即位すると、
根尾を去るにあたり男大迹王は真清田神社に参拝。

 

 

そこで持ち帰った桜の苗木2本のうちの1本を、
次男檜隈高田皇子(のちの宣化天皇)の産殿を壊して植樹。

 

 

これが現在の薄墨桜であり、この時詠まれたのが冒頭の和歌なのだとか。

 

 

『日本書紀』の記述(生まれは近江・育ちは越前)とは大きく異なるため、
『真清探当證』は偽書扱いとなっているようですが、
ここにかつて皇子の産屋があり、
桜は遥々真清田神社からやってきたんだなーなんて、想像するだけで楽しかったり。

 

 

真実は一つ。

・・とは限らない。

 

 

 

それにしても立派な木ですよね。

 

 

1500年前に根付き、
百有余年のあいだ、手厚い保護策のもと生き続けてきた桜の木。

 

 

周囲で花を咲かせているのはその子桜たち。

 

 

一度は完全に枯死したという老木が、
長年に渡る延命治療の末に今こうして見事な桜を咲かせています。

 

 

 

そのまま自然に任せればとっくに終わっている命ですが、
目の前にある瀕死の生きものを何とかして助けたいという気持ちは、
対象が人であれ木であれ、同じなのだろうなぁ。

 

 

 

余談ですが、

もう15年ほど昔の真冬の寒い朝に、
道端に横たわる瀕死の子猫を見つけて思わず保護したことがあります。

 

 

保護といっても当時は動物の飼育不可のマンションに住んでいたため持ち帰って飼うことはできず、
近くの動物病院まで連れて行っただけですが。

病院で栄養剤でも投与してもらってまた野に放てば生きながらえるかな?と単純に思って。
(既に死んでいたら諦めるんですけどね・・)

 

 

ところが獣医さん曰く、
「風邪、気管支炎、疥癬、脱水、栄養失調のうえに凍死寸前。
  片目が見えず、治療したとしても3日ともたない」と。

 

 

さらに「疥癬の治療(注射)を今すぐしないと、ここにいる他の動物たちに感染する」
ということで、
『注射するか、何もせず元の場所に帰すか』の二択状態となり、
ひとまずその治療をお願いすることに。

 

 

すると今度は、『このまま安楽死させるか、引き取って飼うか』の二択となって、
「え、安楽死?私が決めるんですか?」と軽くパニくる私に、
「拾って連れてきた時点で、貴方にその権利と責任が生じるのですよ」と先生。

 

 

注射一本で元気になればいいなくらいの気持ちで連れてきたのに、
まさか、生かすか殺すか決めろと言われることになるとは・・

 

 

 

さすがに即答できるはずもなく、診療台の上に横たわる子猫をしばらく見ていたら、
閉じていた片目をそっと開いて私を見上げて無言でじっと見つめてくる。

 

 

むりむりむり殺せるわけない。

いま目の前で必死に生きようとしているこの子の命を、
私の意思で終わらせるなんてとてもできない。

少しでも可能性があるのなら、たとえ3日の命だろうと助けたい。

 

 

 

その後、そのまま入院し治療を経て療養していた子猫は、
10日間頑張った末に亡くなりました。

 

 

途中で様子を見にいった際は、
それまでケージの奥で寝ていた子猫が私の声で立ち上がり、
近づいてきてニャーニャー鳴いたり、
獣医さんが飼い手を見つけてくれたりと思いがけず良い方向へ進み、
希望が見えていた矢先でした。

 

 

「無理に生かそうなんてせず、
あのまま自然に任せていたほうが子猫にとっては良かったのかな」と言った私に、

「10日も生き延びたのがまず奇跡。
寒空の下、病気で苦しんだまま死んでいくのではなく、
治療で辛さも消え、温かいご飯と寝床を用意されて
安心して眠りにつけたこの子はとても幸せでしたよ。」

と声をかけてもらい、少し救われました。

 

 

 

治療費・入院費もろもろで吹っ飛んだ1か月分のパート代とか、
子猫を抱えて運んだときに下痢の糞尿で再起不能になったコートとバッグとか、
出費面も結構なものでしたが、
大なり小なり生き物の生死に関わるには、相応の責任と覚悟が必要なのだと学びました。

(最後の最後に、『火葬(弔う)か、保健所に渡す(廃棄)か』の二択を迫られた時は、
ええわかってます最後まで面倒見ますよ的な。)

助けると決めたからには中途半端な気持ちではなく、
最後を看取るつもりで引き受けなければいけません。

 

 

余談といいつつ長くなりましたが、

だからやっぱり、
人って、目の前に消えゆく命があったら、
本能的に助けたいと思ってしまうものなんじゃないかな。

そして年月も負担もぜんぶ背負って、全力で支える。

 

 

助けるために尽力してくれる人々と、
自分を見上げる訪問者たちの笑顔を見て、
桜もきっと笑ってくれていると思う。

 

 

忘れ去られるよりはずっといいんじゃないかな。

 

 

桜に関わったすべての人たちと、地元のみなさんの強い想いに敬意を。

 

 

 

 

ということで、2年分のさくら旅はこれにて完了。

 

 

来年はどこに行こうかなー

 

 

高遠の桜なんかもいいなと思ってるんだけど、
シーズン中はたどり着くのさえ困難と聞いていて・・

 

 

結局また京都奈良あたりになる気もするw

 

 

見るべき所はまだまだ沢山あるので、
来春にかけてゆっくり探そうと思います。

 

 

 

 

以上、2023・2024年のさくら旅でした。

 

 

 

 

 

 


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