水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

特別展『古代メキシコ-マヤ・アステカ・テオティワカン-』-2

2024-05-29 | つれづれ <雑記>


(チチェンイツァ 戦士の神殿にて)

 

古代メキシコ展つづき。

 

 

 

 

 

 

 

第三章:マヤ  都市国家の興亡

 

第3パートはマヤ。

マヤ文明は、マヤ地域(メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスなど)一帯を中心として、
紀元前1200年頃から16世紀まで栄えた文明です。

紀元前900年頃のティカルやカラクムル(マヤ低地の南部(チアパス州、グアテマラ、ベリーズ周辺))、
800年頃のウシュマルチチェンイッツァ(マヤ低地の北部(ユカタン半島北部))など、
時代とともに各地には無数の宗教的都市国家が分立しました。

マヤ人は数学(二十進法、ゼロの概念)や天体観測に長け、
発達したマヤ文字や10数種類もの緻密な暦を使用するなど高度な知識を有する一方で、
交易と戦争による盛衰を繰り返したと言います。

 

左:(58)吹き矢を使う狩人の土器
右:(59)セイバの土器
 --- マヤ文明/600~830年/出土:不明

 

(61)星の記号の土器
 --- マヤ文明/700~830年/出土:不明

 

(62)金星周期と太陽暦を表す石彫
 --- マヤ文明/800~1000年/出土:チチェン・イツァ(金星の基壇)

 

(63)トニナ石彫159
 --- マヤ文明/799年頃/出土:トニナ

 

(64)支配者層の土偶
 --- マヤ文明/600~950年/出土:ハイナ

 

右:(66)戦士の土偶
左:(65)貴婦人の土偶
 --- マヤ文明/600~950年/出土:ハイナ

 

(67)捕虜かシャーマンの土偶
 --- マヤ文明/600~950年/出土:チアパス州シモホベル

 

(68)書記とみられる女性の土偶
 --- マヤ文明/600~950年/出土:ハイナ

 

(71)織物をする女性の土偶
 --- マヤ文明/600~950年/出土:ハイナ

 

(82)首飾り
 --- マヤ文明/250~1100年/出土:不明

 

(83)神の顔型エキセントリック(両面加工石器)
 --- マヤ文明/711年頃/出土:エル・パルマール

 

(85)猿の神とカカオの土器蓋
 --- マヤ文明/600~950年/出土:トニナ

 

(87)トニナ石彫171
 --- マヤ文明/708~721年/出土:トニナ

 

(89)96文字の石板
 --- マヤ文明/783年/出土:パレンケ(王宮の塔付近)

 

(90)パカル王とみられる男性頭像(※複製)
 --- マヤ文明/620~683年頃/出土:パレンケ(碑文の神殿、パカル王墓)

 

(92)葉の十字の神殿の南わき柱
 --- マヤ文明/692年/出土:パレンケ(葉の十字の神殿)

 

(94)香炉台
 --- マヤ文明/680~800年/出土:パレンケ(15号 A 神殿)

 

(95)香炉台
 --- マヤ文明/680~800年/出土:パレンケ(十字の神殿)

 

(96)香炉台
 --- マヤ文明/680~800年/出土:パレンケ(太陽の神殿)

 

赤の女王(reina Roja)
 --- マヤ文明/7世紀後半/出土:パレンケ(13号神殿)

パカル王墓の隣にある神殿から、真っ赤な辰砂(水銀朱)に覆われて出土し、
「赤の女王」と名づけられました。

小マスク
 ベルト飾りとして、手斧の形の3枚の石灰岩の板とともにを飾られていたものが、
 何らかの理由で左手の下に置かれたと考えられています。

 

 

ここからはチチェンイツァ遺跡から出土した遺物が展示してあるということで、
再びメキシコ旅での写真を。

チチェンイツァとは、マヤ語で「聖なる泉のほとりの水の魔法使い」を意味します。

 

 

エル カスティージョ(ククルカンのピラミッド)

基底55.3メートル四方、高さ24メートル。(当時は登頂OK)

かなり急な階段で手すりも柵もないため、恐る恐る昇降したのを覚えていますが、
2006年の転落死亡事故から登れなくなったそうですね。

ピラミッドの上に座って眺めた、360度見渡す限りのジャングル。
今でもはっきり覚えています。

大好きな遺跡に触れて、はるか昔に思いを馳せながら
長い時間ずっと緑の海を眺めていました。

あんな光景はもう二度と見られないんだなあ。

 


(絵葉書)

戦士の神殿

戦士を称え神に生贄を捧げる神殿。
上部では人の心臓が捧げられました。(※後述)

 

 

戦士の神殿の上から撮った千本柱の間 (当時は登頂OK)

(パノラマ2段組)

 

 

 

 

 

天文台(エル カラコル)

906年に建設された天文台で、高さ約13メートル。(当時は登頂OK)

 

 

(115)モザイク円盤
 --- マヤ文明/900~1000年/出土:チチェン・イツァ(エル・カスティーヨ)

 

(116)チャクモール像
 --- マヤ文明/900~1100年/出土:チチェン・イツァ(ツォンパントリ)

 

 

これは戦士の神殿の頂上で撮った写真。(当時は登頂OK)
こちらもチャクモール像です。

像の上で人身御供の儀式を行い、
心臓を腹部の皿へを置いて太陽へ捧げたとされます。

 

 

チャクモールはメソアメリカ全域にわたる広範囲の遺跡で確認されており、
どこのチャクモールもだいたいこんな形態。

像は死んだ戦士を表すらしいので、まさに「心臓どうぞ」な姿勢です。

大昔の宗教儀式ってそんなかんじ多いですよね。

 

 

儀式という言葉でふんわり語りましたが、実際は

「チャクモールの上で生きたまま心臓を取り出して皿に置き、
  はねた首は祭壇(ツォンパントリ)へ串刺し状に並べ、
  神殿の上から蹴り落とされた体で階段が血に染まる。

までがセットらしいので、結構ハードな内容です。

アステカ帝国の首都テノチティトラン(現メキシコシティ)にある
フエイ・ツォンパントリからは、
これまでに800体近い頭蓋骨が見つかっているようです。

 

 

ツォンパントリ

(当時は登頂OK)

 

 

 

 

 

 

 

球戯場

(当時は登頂OK)

 

 

壁に取り付けられた石の輪にゴムボールを通す競技が行われた場所。
競技といってもスポーツではなく豊作祈願のための神事だったので、
試合が白熱すればするほど雨が降り豊作になると信じられていました。

ちなみに、試合の末に生贄として神に捧げられたのは勝者とも敗者とも言われており、
正確なことはわからないそうです。

 

 

ジャガーの神殿

(当時は登頂OK)

 

 

 

場所かわって、
首都メキシコシティの街並みを車内から。

メキシコというと、サボテンの群生するのんびりした光景をイメージしますが、
メキシコシティはスペイン風のコロニアルな外観の建物が点在する都会です。

 

 

ここにはかつてアステカ帝国の首都テノチティトランがありました。

中米を侵略したスペイン人がアステカの都市を破壊して潰し、
文字通り〝その上に町を作った〟ので、
メキシコシティの下にはアステカの遺跡が埋まっています。

 

 

 

国立芸術院

 

 

アステカの人々は自らの上に築かれた美しい街並みをどんな思いで眺めているんだろう。
なんて思いつつ、
古代メキシコ展の最後の展示室へ。

 

 

第四章アステカ  テノチティトランの大神殿

 

アステカ文明は、14世紀~16世紀にメキシコ中央部に築かれました。

湖上都市だった首都テノチティトランの中央には、
テンプロ・マヨール(大神殿)が建てられ、
アステカの最高神であり、太陽神・軍神・狩猟神の性質をもつウィツィロポチトリと、
創造神である雨神トラロックが祀られていました。

〔テンプロ・マヨール〕
 1390年頃に創建して以来拡張を続けた、7層に及ぶ大神殿。
 最終的には底辺100×80m、高さ50mに達したそうです。

 

(123)鷲の戦士像
 --- アステカ文明/1469~1486年/出土:テンプロ・マヨール(鷲の家)

 

(124)トラルテクトリ神のレリーフ
 --- アステカ文明/1325~1521年/出土:テンプロ・マヨール

 

(127)トラロク神の壺
 --- アステカ文明/1440~1469年/出土:テンプロ・マヨール(埋納石室56)

 

(130)サウマドール(香炉)
 --- アステカ文明/1325~1521年/出土:メキシコシティ

 

(134)テスカトリポカ神の骨壺
 --- アステカ文明/1469~1481年/出土:テンプロ・マヨール(埋納石室14)

 

(140)テスカトリポカ神とウィツィロポチトリ神の笏形飾り
 --- アステカ文明/1486~1502年/出土:テンプロ・マヨール(埋納石室174)

 

 

閉館は17時。
好きなことしてるとあっという間に時間が過ぎちゃうね。

最後の3分で土産コーナーを駆け抜け、なんとかギリ17時で退館したんですが、
入れ替わりになぜか入館してくる人なんかもいて、
おかしいなーと思って調べてみると、訪れた土曜日はなんと20時までOKだっという・・涙

まぁ出ちゃったものはしょうがないんで、駅まで写真とりながら少しふらふらして、
無事、帰宅の途につきました。

 

では最後にメキシコ旅の写真を連投していきまーす。

 

 

メリダの街並み

 

 

 

 

ウシュマル遺跡

ジャングルに埋もれた遺物・・・ではなく、
きれいな遺跡公園といった感はありましたが、
その素晴らしさにはやはり圧倒されました。

 

 

魔法使いのピラミッド

(当時は登頂OK)

 

 

 

尼僧院

 

 

 

カバー遺跡(パノラマ2段組み)

あまりメジャーではない小さな遺跡でしたが、
これぞ古代遺跡という感じで、とてもよかったところ。(ここは今でも近づけるっぽい)

 

 

 

トゥルム遺跡

最後に私のマヤ遺跡好きの原点を。

青いカリブ海を背に建つ白亜の遺跡の写真をみた時から、
古代遺跡好きがはじまりました。

これを見るためにメキシコへ行ったと言っても過言ではありません。

 

 

エル カスティージョ (当時は登頂OK)

グーグルマップで投稿写真を見ると、
今のトゥルムはこんな草っ原じゃなくて、きれいに整備してある。

立ち入り禁止の閉鎖エリアも多く、
人は見学用の通路から出られない仕様のようで、
建造物の近くにすら行けない様子・・。
もしかしたら下のビーチにも気軽に行けないんだろうか。

昔とちがって、ここも遠巻きに遺跡を眺める場所になったんだね。

 

あの海の冷たさ、下から眺めた遺跡の白さ、石柱の感触。

遠くから眺めるのではなく、
近づいて手に触れ、その存在を肌で感じられる事で、
そこに在る偉大なものとはじめて繋がれる気がするんで、
個人的にはとてもとても残念・・。

 

 

だけど
事故防止や文化財保護の観点からそれは必要なのだろうし、

遺された大切なものを守り後世へ引き継ぐ使命をもつ側の人たちの想いもまた、
尊重されるべきであり。

観光とかビジネスとか別にして、あくまで私は「見せてもらう側」で、
今この時代に、自分さえ満足に見れたらそれで終わりって訳じゃない。
何十年、何百年先の観光客がこの素晴らしい光景を今と変わらず見ることができるよう、
後世の訪問者たちのことも頭に入れておかなければ。

たくさんの人たちに、大好きなこの遺跡を見てほしいからね。

触れられなくなったのは本当に残念だけど、
遺跡の中に飛び込むことができた自分を、幸運だったと思おう。

 

 

常に心の中にありつつも、遠くなったメキシコの地。

今回の古代メキシコ展でまた再び身近に感じられることができ、
大阪まで来てよかったと改めて思いました。

 

 

またいつか行けるといいな。 

 

 


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