くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し

2016年09月29日 19時30分49秒 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 前回までの話の流れの中で、江戸時代の中川(なかがわ)にあった「逆井の渡し(さかさいのわたし)」と「平井の渡し(ひらいのわたし)」について話をしましてきました。今回は、「逆井の渡し」から先に続いていく元佐倉道(もとさくらみち)の先にある「小岩・市川の渡し」について、話を進めてみます。
 まず、下の絵は、広重の名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」(夏景)です。

 「逆井の渡し」は、江戸から東にある千葉県の佐倉城(さくらじょう)へと続く元佐倉街道の渡し場でした。現在は旧千葉街道と呼ばれてます。「元」がついているのは、前回の話にできてきた水戸街道の「新宿の渡し」から分岐して、佐倉城(さくらじょう)まで続く道を、江戸幕府が公認の佐倉街道としていたためです。佐倉街道は小岩(こいわ)で元佐倉街道と合流しています。

 下は、江戸川区にあった元佐倉道の説明板の地図です。小さいと地図の文字が見えないので切り取りました。

 江戸時代の元佐倉街道は、現在の江東区内において、東西に流れる竪川(たてかわ、現在の首都高速7号線の下)の北岸につづく道路でした。
 逆井の渡しを渡ると、元佐倉街道は東から北東に向きを緩やかに変えて行きます。現在の江戸川区内でも荒川放水路西側の小松川地区は、首都高速7号線沿いに元佐倉街道が続いていたようです。
 江戸時代に成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ、成田不動)へ向かう成田参詣が盛んになると、江戸の町から逆井の渡しまで、舟で行くことができ、旅行の距離もショートカット(短縮)できる為、この元佐倉街道のルートに多くの人が行き交う時代となりました。

 次に説明板全体を表示します。


 前回も載せました明治時代・後半頃の地図を、再度載せます。(北が上です)
 地図の下にある緑の○印が「逆井の渡し」のあった所です。明治時代になると、逆井橋が架けられます。

 「佐倉道」は、地図の街道沿いに書かれているように「千葉街道」と名前を変えています。逆井橋の西側(江東区側)が竪川(たてかわ)沿いの東西(横水平)に街道筋があるのに対して、逆井橋の東側(江戸川区側)は右上(北東)向きを変えて、小岩(こいわ)方面に向かいます。

 昔の佐倉道は、荒川放水路の開削(かいさく)により分断されていますが、現在でも江戸川区役所の北側にある交差点から北東方向の小岩の市川橋方向へ続く道が「旧千葉街道」と呼ばれています。逆に西側へ荒川放水路へと続く道は「五分一街道」と呼ばれ、江戸時代の佐倉道の名残が所々に見る事が出来ます。
 下の写真は、佐倉道に江戸時代から架っていたされる五分一橋(ごぶいちばし)の跡です。現在では川が埋め立てられ、橋そのものがなく、昭和に造られた鉄橋のコンクリート柱の史跡を残すのみですが。

 たまたま、祭りの撮影の移動中に偶然見つけた「小松川・五分一町会」の山車(だし)です。この地の大正時代の地名が残る山車です。(現在のこの場所の町名は「松島」です。)


 佐倉道は、江戸川区内を北東へ進み、江戸川の「小岩市川の渡し」の手前で南東に向きを変えます。
 下の絵は、江戸時代の「江戸名所図会(えどめいしょずえ、地誌紀行図鑑)に描かれた「小岩市川の渡し」を風景を小岩方面から、江戸川(江戸時代の利根川)を超えて市川方面を俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)した絵です。
 真中に大きな利根川(現在の江戸川)の流れが大きく流れています。手前に小岩の関所があり、右の対岸に「市川宿」と書かれています。

 絵の右上には「市川渡口(わたしば) 根本橋 利根川」と書かれています。
 さらに名所図絵には、「根本橋」の説明が書かれていますので、抜粋します。
 「市河(いちかわ)の渡し口より総寧寺(そうねいじ)に行く間の川に架す。この地を根本村(ねもとむら)といふより、号とする。橋下(きょうか)を流るるは、真間(まま)の入り江の旧跡より発するところの水流なり。」
 絵の真中に文字がはっきり読めないのですが、根本橋があります。その左側の人家に「根本村」の表記があります。そして、橋の下を流れて、利根川に合流する川の流れが、現在の真間川(ままがわ)です。根本村を通過した脇道は坂上で二つに分かれ、一つは、絵の左奥にある「国府台(こうのだい)へと続き、もう一つの道は、絵の真間川源流の上にある「真間山」の文字が見える小高い場所へと続きます。真間山は、弘法寺(ぐほうじ)のある所です。

 下の地図の街道には、右の江戸川の川岸に「小岩の関所」が描かれていて、対岸に「市川」「真間」などの地名が見えます。

 左の中川には、水戸街道の「新宿の渡し」があり、途中で上に折れて、松戸方面に向かいます。

 下は明治後半頃の地図です。紫色の○印が「小岩・市川の渡し」付近であることが分かります。

 「小岩・市川の渡し」の左に「千葉街道」の文字が見え、その先の交差点で、「千葉街道」は左下(南西)に折れ、「佐倉街道」が上(北)に分岐しています。地図には、市川橋(旧・江戸川橋)がありませんが、明治38年(西暦1905年)には、渡し場の近くに木造ですが、江戸川に初めての木橋(江戸川橋)が架けられています。現在の市川橋は、当時の橋より、少し南(下)にあります。小岩停車場(現在のJR小岩駅)が明治32年開業ですが、亀戸停車場(現在のJR亀戸駅、明治37年開業)も地図上にありますので、この地図の作成年代が、おおよそ見当がつくかと思います。

 下の写真は、市川市のアイリンクタウンいちかわ(I-linkタウンいちかわ)の展望室から見た「小岩市川の渡し」の眺めです。対岸が、江戸川区・葛飾区方面です。名所江戸百景「くまドン版」の撮影をしていた頃の写真ですが、この日は遠くの関東の山並みも良く見える日でした。

 江戸川を渡る橋が3つありますが、左からJR総武線(そうぶせん)、市川橋(国道14号)、京成電鉄(けいせいでんてつ)です。真中の市川橋と右の京成電鉄の橋の中間付近に「小岩の関所跡」とありますので、「小岩市川の渡し」の位置が大体分かるかと思います。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第94景 真間の紅葉手古那の社継はし」(秋景)です。

 絵を見ると、あまり、きれいな紅葉ではありませんが、元々は赤い紅葉が描かれていたそうです。色の原料が酸化して、黒く変色したのが原因だそうです。

 11月頃の写真ですが、現在の「真間の継ぎ橋」の史跡です。


 「アイリンクタウンいちかわ」からの眺める現代の「真間の紅葉手古那の社継はし」の風景です。

 地平線には、双耳峰(そうじほう、山の頂上が二つ並んでいる形状の山)の特徴を持つ筑波山(つくばさん、標高877m)も見えますが、広重の絵と比べてみると、左右逆に見えたりもします。
 正面のこんもりとした森の所が、弘法寺(真間山)です。伝説の「真間の継橋」は、その手前にあります。
 その場所を、さらに拡大していみます。

 写真の右側に緑色の屋根の手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)が見えます。

 弘法寺のイチョウ(銀杏)の黄葉も入れておきます。


 今回も時間がなくなりました。次回は、「平井の渡し」から続く行徳街道(ぎょうとくかいどう)の先にある「今井の渡し」です。このブログを9月中に作りたかったのですが、残念ながら間に合いそうもありません・・(汗)

(1)「小岩市川の渡し」の付近の市川市の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景112 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 真間の紅葉と手古那伝説」
 「名所江戸百景110 第95景 鴻の台とね川風景(1) 国府台と朝の富士山」
 「名所江戸百景111 第95景 鴻の台とね川風景(2) 国府台と朝の富士山」
(2)「逆井の渡し」の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景078 第67景 逆井のわたし 白サギ(4) 献灯」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

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