くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史

2016年09月26日 20時00分59秒 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 前回は、旧中川沿いにある「逆井の渡し」から北十間川(きたじっけんがわ)までの間にある江東区・墨田区の神社について話しましたので、北十間川から、中川(なかがわ)の流れに話を移していきます。

 下の写真は、雪の日にスカイツリーから東の方を撮影した写真です。名所江戸百景の最後に使う予定でしたが、いつまで続くか?「くまドン」本人にも分かりませんので、使用する事にしました。
(絵画調)

 スカイツリーは北十間川(きたじっけんがわ)の川岸にあります。北十間川は江戸時代に元の地形を利用して造られた運河ですから、写真のようにスカイツリーの真下(西)から上(東)に直線的に掘られています。
 北十間川の曲がり具合から判断して、一番手前の橋が、前回の話にでてきた福神橋です。右側に江東区の亀戸香取神社(かめいどかとりじんじゃ)が、左側に墨田区の吾嬬神社(あづまじんじゃ)のある所です。
 横十間川の行きつく先に、旧中川が横(北南)に蛇行して流れています。
 その向こうに、洪水対策として大正・昭和の時代になって開削された荒川放水路(あらかわほうすいろ)と中川放水路が並行して流れています。遠くには千葉県の東京湾の海岸線が見えます。

 下の地図は、前回も使用しました江東区の親水公園にあった室町時代の江東区周辺の推定地図(北が上)です。
 この地図の下部に見える亀島(現在の江東区・亀戸)や柳島(現在の墨田区・業平~錦糸)の地名から分かるように当時の海岸線は、上のスカイツリーから見た風景にある北十間川より左(北)側にあったことが分かります。河口部には、小村江(現在の小村井)や下平井の文字が見えます。

(1)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐後に、徳川家康(とくがわいえやす)が関東(関八州)に移封になった頃は、地図の真中を蛇行(だこう=曲がりくねって)して流れる中川(なかがわ)が、利根川(とねがわ)・荒川(あらかわ)の水を集めて流れる大河の本流となっていました。現在の江戸川区・墨田区・江東区の3区境界付近が、その河口付近になっていました。
 当時の利根川や荒川は、関東平野の低地部を網の目のように蛇行して流れ、氾濫する度(たび)に、川の流路を変えていきます。さらに、その流路は、現在の隅田川や江戸川にも流れ込んでいたと言われています。関東低地部全体が氾濫原(はんらんげん)ですから、農耕に適している土地ではありませんでした。

 下の写真は、北十間川と旧中川の合流部で、江東区・亀戸(南西側)から撮影しました。江戸川区・墨田区・江東区の3区境界付になります。左が北十間川で、右奥から流れる旧中川に合流しています。当時はこの付近が、江戸時代初期の頃までは、利根川・荒川の河口部だったわけです。

 利根川と荒川の流れを合わせた水量は相当な量ですから、その本流の河口部であるこの周辺の当時は、相当に大きな川幅のある大河となります。今よりも大きな川幅で大量の水が正面の中川上流から流れていたことになります。

 上の写真を超望遠でズームすると、棒杭の所にカワウ(川鵜)が羽を休め、シラサギ(白鷺)がエサを狙っています。
(絵画調)

 この付近は野鳥が生息し易いように離れ小島やワンドがありますので、野鳥撮影者の多い所です。

(2)関東移封後の徳川家康は、領内整備(農地拡大=国力増加)の為に、利根川・荒川の治水を家臣の伊奈忠次(いなただつぐ)に命じ、3代にわたって、河川の付け替え・開削により、利根川の東遷(利根川を江戸川・現在の銚子(ちょうし)方面へ流す)、荒川の西遷(荒川を入間川・隅田川方面に流す)を完成させます。
 この河川改修工事により、利根川と荒川の間にある埼玉・東京東部の広大な低地部は、洪水の危険性が減少し、新田の開発進んでいくことになります。
 利根川(現在の江戸川)と荒川(現在の隅田川)の間に流れる川となったので、中川と呼ばれるようになりました。
 伊奈一族の治水(ちすい)対策は、不連続堤により洪水の勢いを弱め、低地に遊水させることにより、洪水の被害を減少させる「関東流(伊奈流)」と呼ばれます。

 野鳥のいた墨田区・立花側に移動して、旧中川の下流部を眺めた風景です。手前の緑の橋が江東新橋です。

 上の写真を撮影していると、川岸の草むらからコサギがいました。

 しばらく見ていると、距離があった為か、人を恐れず、草むらから歩いてでてきました。後から写真を見てみると、足全体が黄色です・・・・???

 色々調べてみると、今年生まれて、巣立ちしたばかりのコサギの幼鳥のようです。幼鳥の頃は足全体が黄色ですが、成鳥になるに従って、足の指だけが黄色で、その他の足の部分は黒にそうです。地元で育ったのか?ほとんど人がいても無頓着(むとんちゃく=気にしない)です。
 一応、もう少し下流側にいたコサギの成鳥の写真です。見ての通り、足の指のみ黄色です。


 下の写真は、墨田区・立花六丁目付近で撮影した山車(だし)です。昔の地名である「吾嬬・葛西川町会」の文字が見えます。立花白髭神社は昔の吾嬬地区・葛西川の鎮守社(ちんじゅしゃ=土地を守る神の社)でした。
(絵画調)


(3)利根川・荒川の河川改修により、洪水の氾濫原から解放され、農地の広がった中川流域一帯ですが、それでも洪水の多い土地でした。江戸幕府・8代将軍・徳川吉宗の時代になると、中川の洪水対策の為、河川の大改修が行われます。
 吉宗の時代は、「紀州流」と呼ばれる治水方法で、連続堤を直線的に引いて、農地を増やす方法ですが、
 中川下流部の工事に関しては、川幅を広げるのが主な目的で、その際に点在していた池や沼を利用した為、「九十九曲り」と呼ばれる屈曲の激しい川となったそうです。
 冷静に考えてみれば、中川下流部は、潮の干満の影響を受け、海水が逆流する領域であり、中川の水は農業用水に向きません。上流からの農業用水で堤防内側の水を確保でき、地域の小河川から下流側の中川や新川(しんかわ)に放流していた現状に合わせた柔軟な治水対策がおこなわれたと考えます。
 下の明治時代の地図を見ると、中川の屈曲部の河川敷を広く取り、かなり内側に堤防が造られています。

 前々回に載せました明治時代・後半頃の地図を、再度載せます。(北が上です)
 真中を上下(北南)に蛇行して流れるのが、当時の中川の流れです。荒川放水路開削前ですので、現在の旧中川まで流れが続いています。真ん中の左側から中川に合流しているのが、北十間川です。
 「平井の渡し」のあった青い○印の左上に「葛西川」の文字(黄色の線)が見えます。この地区は、現在の墨田区・立花(たちばな)地区に当たります。

 赤い■印が当時の鉄道の駅ですが、真中付近に「平井停車場(現在の平井駅から少し東側付近、明治32年開業)」、左下に「亀戸(かめいど)停車場(現在の亀戸駅、明治37年開業)」、亀戸駅の上(北)側に東武鉄道(とうぶてつどう)と赤い■印の天神停車場(明治37年開業、現在の小村井駅の西側にあった)から、現在の位置との対比が可能と思います。

 前々回話したように黄色の線の部分に明治時代の地名が見えます。
 中川の左岸沿いには、墨田区の「上木下川」、「下木下川」(現在の東墨田)、「葛西川(現在の立花)」、江東区の亀戸と続きます。中川の右岸沿いには、現在の葛飾区と江戸川区にあたる「奥戸」、「上平井」、「中平井」、「下平井」、「逆井」と続き、その右側には「上小松」、「下小松」、「西小松川」の地名が続きます。

 比較用に前回も使用した江戸時代の古地図の中川沿いの地図を載せます。 江戸時代の地図ですから、位置関係が大雑把です。右が北になります。真ん中を右→左(北→南)に流れるのが中川(現在の旧中川と中川)です。左端に「逆井(さかさい)」の文字があり、逆井の渡しがあった所です。

 この地図では、「下平井」は「平井」と書かれており、燈明寺(とうみょうじ、平井聖天)の文字が書かれています。
 対岸には、「小村井(おむらい)」の地名が書かれています。現在も交差点や香取神社に「小村井」の文字が使用されています。「木下川」には、木下川薬師(きねがわやくし)も描かれています。

(4)江戸時代から明治時代に変わっても、荒川の洪水は4年に一度の割合で頻発(ひんぱつ)し、明治43年(西暦1910年)の大洪水をきっかけに、荒川放水路が計画され、翌・明治44年に着手され、大正13年(西暦1924年)に上流から下流まで通水に成功します。関連工事を含め、昭和5年に荒川放水路は完成しました。
 荒川放水路は、中川と上流にある綾瀬川(あやせがわ)の流路を分断する事になるので、荒川放水路に並行して、綾瀬川放水路をを流し、中川との合流点から両河川を合わせて、中川放水路として、下流部の河口まで流すことになりました。この結果、平井・小松川領域を流れていた中川は「旧中川」として、独立した河川になります。

 先頭のスカイツリーからの写真を左に向けて、旧中川の最上流部(中川と荒川放水路との交差部)に目を向けてみます。中間に左右(北→南)に並行して流れる荒川放水路と中川放水路に分断されなから、左奥に蛇行する中川が続いて行きます。
(絵画調)


 上の写真では遠いので、望遠で切り取った荒川放水路の向こうに続く蛇行する中川の流れです。

 中川の右(南)岸は、葛飾区の西新小岩と東新小岩(明治時代の上平井)、奥戸と続きます。
 中川の左(北)岸は、葛飾区の東四つ木、東立石、立石と続きます。昔から立石と呼ばれてた地区ですが、東四つ木の荒川放水路・綾瀬川(あやせがわ)放水路の付近は、放水路開削により移転となった浄光寺(じょうこうじ、木下川薬師)など、上木下川(かみきねがわ)地区の地名が多く残る場所です。なお、時代が変わると、「木下川(きねがわ)」→「木根川(きねがわ)」と地名が変わっていきます。

 現代の中川と荒川放水路の交差が、はっきり見える地形図です。上の明治時代の地図と比較すると、荒川放水路による地形の分断が良く分かるかと思います。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」


(5)昭和13年(西暦1938年)の東京東部の洪水被害を教訓から、中川流域の治水が見直されることになりましたが、戦争により一時中断となります。昭和22年(西暦1947年)のカスリーン台風による大洪水により、中川の河川改修が行われましたが、下流部では新中川の開削がおこなわれ、多数の人家の立ち退きという問題を抱えながら、昭和24年(西暦1949年)~昭和38年(西暦1963年)の大工事の末に新中川の7.9kmもある放水路は完成しました。
 新中川の分流点より上流部では、河川を湾曲を緩やかにする流路変更などが行われましたが、分流点の下流側の中川屈曲部は現在まで、その地形を残す事になりました。

 下の写真は、洪水対策として造られた新中川(しんなかがわ)が中川から分岐する地点を、スカイツリーから眺めた風景です。写真中央が分岐点になり、左側に見える白い高砂橋(たかさごばし)から中川が流れてきています。
 この分岐点から上流部は、明治以降の河川改修もあり、河川の蛇行も緩やか(ゆるやか)に流れています。

 新しくできた新中川は、そのまま直線的に南(右)に流れ、江戸川区・今井水門(いまいすいもん)近くで、旧江戸川に合流します。そして、元からの中川の流れは緑の青砥橋(あおとばし)の方向に大きく流れの向きを変え、大きく蛇行をしながら今も流れを残しています。
 奥に見える雪に覆われた白い場所は、江戸川の土手と千葉県側に続く農地です。下総台地の崖(がけ)付近は緑地が多く残っています。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第93景 にい宿のわたし」です。

 広重の絵に描かれた「にい宿の渡し」は水戸街道にある渡し場であり、上の写真の新中川分岐点より、1.5km程上流にありました。現在の水戸街道(国道6号線)の中川大橋の少し上流(湾曲部)付近です。東岸には現在でも新宿(にいじゅく)という地名が残っています。

 今回も時間がなくなりましたので、続きは次回とさせていただきます。

(1)北十間川沿いの以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景001 スカイツリーの真下から」
 「名所江戸百景083 第32景 柳しま スカイツリーの夕景」
 「名所江戸百景269 第66景 五百羅漢さゞゐ堂 亀戸香取神社神幸大祭」
 「名所江戸百景102 第31景 吾嬬の森連理の梓 シャンパンツリー(逆さツリー)」
 「名所江戸百景278 第31景 吾嬬の森連理の梓 亀戸浅間神社と亀戸水神」
(2)平井周辺の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景276 平井諏訪神社の例大祭」
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 今年・平成28年の例大祭は、雨で残念でした。翌週の9/25(日)は天気が良く、駅まで、歌自慢を開いているのを見て、少しほっとしました。
 「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭(9/14~9/16)」
 「名所江戸百景049 第67景 逆井のわたし 旧中川の白サギ(1)」
(3)浄光寺(木下川薬師)については、以下のブログです。
 「名所江戸百景051 第70景 中川口 勝海舟と西郷隆盛」
(4)にい宿の渡しの時の話は以下のブログです。(「くまドン版」では、江戸川沿いの柴又・矢切の渡しに移しました)
 「名所江戸百景030 第93景 にい宿のわたし 矢切の渡し」
 「名所江戸百景031 第93景 にい宿のわたし 柴又帝釈天」
(5)地域が少し異なりますが、先週・平成28年9月16日の少年ジャンプ42号発売で、マンガの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が連載40周年を迎え、コミック200巻(発行巻数が多い単一マンガシリーズでギネス世界記録)になったのきっかけに連載終了となりました。両津勘吉(りょうつ かんきち=両さん)の銅像が載っているは以下の(1)のブログです。
 「名所江戸百景074 第33景 四ツ木通用水引ふね(1) 曳舟川親水公園」
 「名所江戸百景075 第33景 四ツ木通用水引ふね(2) 葛西用水」
 作者の秋元治(あきもと おさむ)氏は、「あの不真面目でいい加減な両さんが40年間休まず勤務したので、この辺で有給休暇を与え、休ませてあげようと思います」とコメントしていました。
 「くまドン」が子供の頃から読んでいたマンガが、また一つ終わっていく事に、過ぎて行った時代の流れを感じずにいられませんでした・・・・・
 しかし、最終回は、週刊ジャンプとコミックと200巻を同時発売し、途中までは同じて、オチの展開が週刊誌と単行本とでは異なるという構成になっており、マンガの中で「両方買わせるいやらしい商法」と自虐ネタになっていました。
 コミック200巻は、本屋で登場人物辞典付きで1冊900円という値段でしたので、大丈夫か?・・・と不安を感じましたが、一週間後には3冊ともに売り切りていたようです。
 インターネット上では偽物の最終回の話が出回ったり、最終回の載っている少年ジャンプをオークションで高値で転売しているような話も聞いたりです。商魂たくましいと言うか、何と言うか・・・・・(汗)

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

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