くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景003 第11景/第12景/第13景/第89景 上野公園と桜①

2013年03月24日 23時45分20秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。
 今回の江戸百景は、上野の桜を題材に江戸百景プログを作ります。


上野は江戸時代の代表的観光地で、名所江戸百景でも4景が描かれています。その内3景は桜が題材です。
 現代の上野のイメージといえば、上野動物園と西郷さんの銅像でしょう。

 今回も、くまドンのカメラで写真を絵画調に変換するフィルタ機能を使用した映像を並べてみますが、元が銅像の写真の為、余り変化がありません。


 しかし、江戸時代には動物園もありませんし、幕末の西郷さんも鹿児島藩の武士に過ぎませんでした。
 江戸時代に上野が有名であったのは、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺である東叡山・寛永寺(とうえいざん・かんえいじ)があったからです。徳川歴代将軍15人中6人(4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定)が寛永寺に眠っています。
 当初、徳川将軍家の菩提寺は芝にある増上寺(ぞうじょうじ)がだったのですが、3代家光が祖父家康を尊敬し、天海上人に大いに帰依した為、家光自身葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した結果、4代目以後の徳川家の廟が寛永寺側に移り、寛永寺が徳川家の菩提寺となってしまいました。当然、増上寺側は反発しますので、最終的には歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺が交替で造営することになったそうです。
 寛永寺は上野公園の外側にあります。これは、寛永寺にある4代家綱の家綱霊廟への門(水盤舎、重要文化財)です。右奥にスカイツリーが見えたので、入れてみました。


 寛永年間に始まったので、「寛永寺」が寺号となり、江戸城の鬼門(北東)を守るという意味で山号が「東の比叡山」=「東叡山」となりました。(比叡山は、京都の鬼門(北東)を守るという役割がありました。) 
 徳川家康の頃から重用されていた天台宗の天海上人が、2代秀忠の時に現在の上野公園に当たる土地を貰い受け、3代家光の時に寛永寺の本坊を建てたことから始まります。この為、現在も上野公園には、寛永寺の建物が数多くあります。

 まず、最初は上野の山の急斜面にある清水観音堂(重要文化財)です。京都にある清水寺(きよみずでら)に倣って作られた為、清水の舞台と同じ懸造り(かけづくり)作られています。この作りは斜面の柱の長さを調節して、建物の床面を揃える工法であり、そこから景色を眺められるようになっており、江戸時代も人気がありました。上野戦争により伽藍の大半は焼けてしましましたが、清水堂は残ったので重要文化財に指定されてます。


 下の絵は名所江戸百景「第11景 上野清水堂不忍の池」です。
この絵は、清水堂から清水堂舞台越しに不忍池を望んだ構図です。


 なるべく絵の雰囲気に近づけようとして撮ってみました。




 現在も不忍池は近くにあるのですが、写真のように木が茂っているので、清水堂から不忍池を見る事は不可能となっています。


 絵の左側にある松の枝が円形に曲がっていますが、月の松と呼ばれ、
名所江戸百景「第89景 上野山内月のまつ」にも描かれています。
2013年からは、月の松と同じ形をした松が清水堂の前に植えられ、当時の雰囲気を再現しています。


 清水堂からの階段を下りていくと、正面に不忍池の中にある弁天堂(辯天堂、べんてんどう)が見えてきます。

 
 天海上人が琵琶湖に浮かぶ竹生島に見たてて、不忍池に中之島を築き、寛永年間に弁天堂が作られたそうです。(昭和33年に再建。)
 池には、ユリカモメが羽を休めていました。ユリカモメは冬鳥で繁殖期になると、顔が黒に変わります。(なんだか覆面レスラーみたいな顔ですが・・・・)

 くまドンが撮影した時には、まだ「月の松」が植えられていなかったので、上の写真を「第89景 上野山内月のまつ」に対応する「くまドン版」の景(確定)として選択しました。選択理由は不忍池と桜と北への渡り前のユリカモメが映っているので、季節感があるからという理由です。

 弁天堂のすぐ隣にある大黒天堂も桜が満開となっています。


 再び、上野山に戻り、左側にある緩い坂を登っていくと、五条天神があります。
 五条天神は、江戸百景「第12景 上野山した」に描かれています。


 手前の店は上野寛永寺の門前にある紫蘇飯(しそめし)屋「伊勢屋」です。後ろに五條天神と、上野寛永寺の石垣、上野のお山と配置されています。左端の傘をさした行列は上野寛永寺に花見に出掛ける江戸城の奥女中の花見御一行らしいです。上野寛永寺の門前町の風景です。
 この絵の内容からすると、江戸時代において、五条天神は今と異なり上野山の下の方にあったらしいです。現在の上野公園の南の入口付近の低い所です。

 現在の五条天神は上野公園の西側の斜面に置かれています。

 絵画調してみましたが、白い空と白い桜の組み合わせでは今一つメリハリが無い感じがします。


すぐ隣に花園稲荷神社があります。

神社の横から鳥居が連続して並んでいる階段があり、通り抜けると上野公園に出ます。


 さらに、歩いて行くと周りより小高くなった所にパタゴ(仏塔)があります。大仏山パゴダ(昭和42年建設)と呼ばれるものです。


 その脇に「上野大仏」の顔があります。
 上野に大仏があるとは知りませんでした。この大仏は最初は寛永年間に造られ、地震や火災等で何度も再興を繰り返し、最後は関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には鉄・銅の不足により軍に胴体を徴用されて、顔のみが残されたそうです。現在のパゴタはその大仏殿の跡地には建てられました。


 江戸時代は徳川幕府が一番偉く、幕府の作った所が一番偉いという考えになりますから、江戸時代の間は、東叡山・寛永寺は天台宗の総本山となってしまい、比叡山や日光山を管轄する立場になってしまいました。(現在は天台宗の関東総本山)

 日光山と言えば東照宮(とうしょうぐう)であり、東照宮は東照大権現(徳川家康のこと)を祭る神社です。当然、上野公園にも東照宮はあります。他の東照宮と区別する為に「上野東照宮」(重要文化財)と呼ばれます。ただ、管理しているのは寛永寺ではありません。

 この東照宮は完成時に各大名から灯篭が多数寄進されました。2013年まで修理中であり、くまドンが行った時は工事中でした。本殿側は撮影不可能でした。銅灯篭を撮影しました。


 東照宮の隣に五重塔(重要文化財)があります。寛永年間に建立され、上野東照宮の建物でしたが、寛永寺の所有を経て、現在は東京都所有になっています。その為、名称は「旧寛永寺五重塔」となっています。付近は桜の木が多く雰囲気の良い所です。
 五重塔の前に柵があるので近寄れませんが、何とか構図を考えて作画してみました。なお、五重塔は上野動物園の敷地内にある為、五重塔の下に行きたい場合は、上野動物園に入園する必要があります。

 上の写真を江戸百景「第12景 上野山した」に対応する景(確定)とさせていただきます。選択理由は、東京では珍しく残る五重塔と、石灯篭、桜の組み合わせが江戸時代からの風景らしく感じたからです。下の方に屋台の店も少し映っていますが、「伊勢屋」の代わりともいえます。

 当然、天海は寛永寺の初代貫主(かんしゅ、天台宗総本山の住職を貫主と呼ぶそうです。比叡山にも貫主がいますので、混同され易い。)です。
 下の写真は埼玉県川越市にある天海の像です。

 幕府は徳川幕府の権威を上げる為、寛永寺の3代目住職からは皇族を付かせて宗教的権威を上げていきます。
 こうして、繁栄した寛永寺ですが、幕末の上野戦争(新政府軍vs旧幕府軍の彰義隊)で主要伽藍を焼失し、一帯は焼け野原と化したそうです。


 この時、新政府軍に対抗する為に彰義隊に皇族として祭り上げられたのが、最後の寛永寺の座主であった北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)です。
 元々、寛永寺に皇族を置いたのは、朝廷を徳川幕府側に取り込み、いざとなった場合には、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の用心深い戦略から来ています。江戸時代初期に建てた方針が200年後に働いているというのも、何か少し怖い感じがします。
 上野公園にあるこの軍人風の銅像がありましたが、誰でしょうか?


 歴史の知識が乏しいくまドンは戦前の軍人と言っても乃木将軍ぐらいしか名前を知らないのです。(戦後生まれの人が知らないの無理はないのですが・・・・) 説明板を見たら親王と書いてあったので、北白川宮能久親王と思ったら、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)と書いてありました。
 皇居北の丸公園にあるこちらの銅像が、北白川宮能久親王銅像(北の丸公園)でした。


上野公園には野口英世の銅像もありました。

 その他にも上野公園には「ボードワン」という人の銅像もあるらいしです。くまドンが行った時は工事中でその場所にはいけませんでした。(この人は誰だ・・・・?????という認識レベルですが)

 長くなりましたので、上野の桜の夜景撮影は、次回のプログでやります。
ありがとうございました。

 日本プログ村に参加してみました。今一つ「くまドン」プログがどの分類に当てはまるのか判りませんが、時間のある方はどれか「ポチ」と押してください。
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村