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くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)

2014年02月22日 21時50分23秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県(ならけん)・高取町(たかとりちょう)にある高取城(たかとりじょう)を訪城した話の最終回です。

 下の写真は、高取城下町にあるビールのアルミ缶で作られた高取城天守閣の巨大オブジェです。江戸時代の天守閣と比較して、約100分の1の規模(高さ4.1m、横幅3.6m)ですが、
 なんと!日本一どころか、世界一の天守閣オブジェです。

 アルミ缶を使用した個数では世界一のオブジェとして、ギネス世界記録に認定されました。
 制作したのは高取町の60歳~83歳の方々で、使用した缶は3万5679個、103日かけて平成24年10月に完成したそうです。「世界一のものを作り、地域活性化の起爆剤にしよう」と話しあって作られたそうです。
 (ここまでは、ほのぼのしています)
 最近は、平成25年5月にサウジアラビアが6万6400個の作品をつくり、同年9月に愛知県豊橋市の吉田城の隅櫓(すみやぐら)の作品が10万4840個(数は「とよはし」の語呂合わせで決めたそうです。)で追い抜き、競争が激化してしまいました・・・・・・

 前回は高取城の「大手門跡」の所まで話が進みました。
 大手門はL字型に右に折れたクランク状の虎口になっていて、ここに大手門がありました。

 大手門を突破するまで、周辺の石垣にある建物にいる守備側から攻撃を受ける事になります。

 前回も載せました土佐街道の児童公園にあった城の見取り図です。大手門は二ノ丸と三ノ丸の間にありました。


 そして、大手門跡を通り過ぎると、再び、前方に城壁が立ちふさがります。この城壁の上には「十三間多聞(たもん)」と呼ばれる長屋型の建物がありました。大手門を突破した攻め手は、次の門に近づくまでに正面の石垣の上に建てられた多聞にいる防御側からの攻撃を受ける事になります。
 攻めてくる敵の勢いをそいで、防御しやすい様に、敵を直進させないように造られている分けですが、・・・・・・・

 少し左側に次の入り口があります。ここを進むと、「十三間多聞跡」の立て札がります。大手門と同じようなクランク状の虎口をもう一度通過する形で右に曲がった所に十三間多聞の門があります。

 上の写真の左上の石垣から「十三間多聞跡」の虎口を眺めたのが、下の写真です。右奥が大手門を通過してきた道です。十三間多聞は正面の石垣からL字型に曲がって、石垣の左に立ちふさがる門の上に乗った状態で伸びて、写真左外にある石垣まで伸びていました。
 攻め手としては、簡単に突破できないですから被害ばかりが増えていく事になります。

 (冷静に考えると、兵力差で圧倒して、守備兵の数が足りない場合以外では、ここまで到達することすら不可能ですが・・・・・・・・・)

 十三間多聞を通過すると、広さのある二ノ丸ですが、本丸に進むには、左手の石垣を回りこむように狭い所を進む事になります。そして、進む右手の石垣には「十五間多聞」が控えています。
 下の写真は、「十五間多聞跡」ですが、ここも門の上に長屋型の建物が横たわっていました。しかも「コ」の字状に城壁沿いに伸びていて、石垣の角部には隅櫓(すみやぐら)が2基もありました。

 下の写真は、大手門の所にあった説明板です。奈良産業大学が作成したCG(左)と昔の写真(右)がありました

 左上が天守群(大天守と小天守がありました)、右下が大手門です。真ん中の建物が十五間多聞ですが、長屋(横長)状の建物があり、角の部分に櫓(やぐら)が2基見えます。多聞と手前の石垣の間には門が見えています。

(1)前回、江戸時代の途中から高取藩(たかとりはん)は、徳川家・譜代(ふだい)の植村家政(うえむらいえまさ)が初代藩主となったことをお話ししました。植村氏は、徳川(松平)・普代の中でも最古参七家の一つです。
 その祖父(そふ)である植村家存(うえむらいえさだ、当初は家政)は、戦国時代の天文10年(西暦1541年)生まれで、天文18年の9歳の時から徳川家康に仕えることになります。家康は天文11年生まれですから、家康は8歳の頃でしょうか、ちょうど、捕虜交換で織田家の人質から今川家の人質になった頃ですね。

 十五間多聞を抜けて、やっと天守台が見えますが、江戸時代は、天守台の前にも門が2棟と虎口があったのです。

 天守台となりますと、石垣の隅(角)は、きれいに成形されています。

 天守台の石垣は「打込みハギ」で、隅部は「算木積み」で反りのない工法です。高さは8mもあります。


(2)その11年後、有名な桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で、織田信長(おだのぶなが)が今川義元(よしもと)を討ち取ったことにより、状況が一変します。城代が駿河に退散して空城となった岡崎城(おかざきじょう)に入城した家康は、今川家から独立して、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)を結ぶことになります。
 この時、清洲城に行く徳川家康の護衛を務めたのが植村家存です。同盟の会見場に向かう家康一行の中で、植村家存が家康の刀を持ったまま入室した時の逸話(いつわ)が伝わります。
 織田方の護衛役に何者かと咎められますが、家存の方は動じません。
  「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」
と豪快に言ってのけます。豪胆(ごうたん)な性格だったようです。
 この事を聞いて対応した織田信長も、護衛役の家存を称賛して、二振りの太刀を与えたとの事です。信長の性格の一端を垣間見ることができます。

 下の写真は、天守のあった台から天守台の登り口を見た景色です。
 天守台へ登るのも当然真っ直ぐには進めません。天守台を大きく回り込んだ上に、最後は「コ」の字型の虎口です。

 高取城は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟である秀長(ひでなが)の領地で、重臣の本多利久に与えられ、支城として整備した山城にも関わらず、思い切り豪勢な造りです。
 天守台の隅に大天守1基と小天守1基、櫓3基が配置され、横長の多聞櫓で接続して囲んだ「連立式天守」と呼ばれる構造になっています。
 通路の両側には天守や櫓があり、通路は多聞櫓が上にある門で防御されています。
 (本丸まで攻め込まれたら、防御側は負け戦でしょうが、簡単には勝たせてはもらえないようです。)

(3)植村家存は、酒井忠次(さかいただつぐ)、石川家成(いしかわいえなり)、石川数正(いしかわかずまさ)らと共に家康・前半期の家老として家康を支えていきます。
 元亀3年(1572年)には織田信長と上杉謙信(うえすぎけんしん)との同盟の仲介を行い、謙信からも刀と山伏具足を贈られたりしています。謙信の性格からすると、家存の豪胆さが気に入られたのでしょうか。
 しかし、家存は天正5年(西暦1577年)に37歳の若さで死去しました。
 天正5年は、信長が松永久秀(まつながひさひで)のいる奈良県・信貴山城(しぎさんじょう)の攻め落としたり、織田軍が上杉謙信に手取川の戦い(てとりがわのたたかい)に敗れた年です。まだ戦国時代です。

 天守台(本丸)に登ると下の町が見える展望ポイントがあります。朝のうちは晴れていたのですが、高取城を登っている間に曇ってしまい、なんとか見える景色を見ていると、だんだん遠くの景色が霞み、見えなくなりました。


(4)植村家次(うえむら いえつぐ)が、家存の後を家を継ぎますが、まだ11歳だったので、家康の長男・松平信康(まつだいらのぶやす)の小姓(こしょう)となります。
 ところが、わずか2年後、同盟国の織田信長から信康に嫌疑をかけられ、信康が切腹となると、流浪の身となります。(この頃になると、織田信長の勢力が強大になり、織田・徳川同盟は、対等同盟から従属同盟の関係に変化しています。)

 天気予報は晴れでしたが、「何か雪が降ってきそうだな~」と思っていると、案の定、雪が降ってきました。
 正面奥に見える石垣は天守のあった所です。下は本丸に登る道です。

 風も強くなってきて、吹雪いてきたので、高取城を下山しようと思ったら、今度は雪の降る中、日が差してきました。


(5)その後、再び、植村家次は家康の家臣(500石)となります。その子・家政は徳川秀忠(2代将軍)の小姓として仕え、家政の代になると幾度かの加増を経て、3代・家光(いえみつ)の寛永年間には9千石の旗本となっています。
 そして、寛永17年(西暦1640年)には高取藩・2万5千石の普代大名となりました。
 家次が松平信康の切腹後に流浪の身になってから61年の月日が流れていました・・・・・・・

 さらに、しばらくすると、青空が広がり晴れてしまいました。雪が降ってから晴れるまでの時間は10分程度でした!
 再び、天守台で撮影再開です。まずは本丸の撮影です。右奥が大天守、左奥が小天守、撮影している所が櫓のあった所です。この本丸を取り囲むように長屋状の多聞櫓で接続されていました。

 天守台の縁のみですが、このラインに沿って、手前から多聞櫓、櫓、大天守と続いていました。

 天守台から十五間多聞跡を眺めた風景です。

 左には「七つ井戸」に続く道があります。車で登れる時はここから登る事になります。
 天気も青空となり、雪もしっかりしているので、天守台の周りを一周して帰る事にしました。

 下の写真の石垣は角部分(隅石)ですが、自然石を使用した「野面積み(のづらづみ)」から、方形に成形した「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」への発展過程にある「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」の状態がわかるかと思います。
【打込み接ぎ(うちこみはぎ)】
 石垣に使用する石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法です。
 野面積みより高く、急な勾配が可能になります。


(6)高取藩の植村氏は、戦国時代から松平氏に仕えた最古参の一族の譜代大名であり、家康の代の植村家政の功績があることから、何度も改易(廃絶)の危機があったにも関わらず、藩の存続が認められて、幕末まで存続する事になります。

 最後に、高取城の帰り道に宗泉寺(天台宗)に立ち寄りました。1回目に載せた宗泉寺の写真です。

 平和の時代になると、高取城は山城のであるため不便となり、藩主・家臣は現在の山麓の土佐街道付近に移住して、城には城番が置かれるようになりました。
 ここは、元々は初代藩主・植村家政の下屋敷でした。元禄11年(1698年)に寺として創設されました。
 高取藩主・植村氏の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌を収めてある寺)として、植村氏の先祖の墓碑があります。

 高取城下の最も奥まった地にあり、静寂と幽玄(ゆうげん)を感じさせるお寺でした。

 高取城の見学も終わり、残った問題は、年末で町の店が休業中という事でした。
 お昼すぎていたので、「くまドン」は腹ペコで、途中で食堂を探しながら、次の奈良県の訪問地へ向かうのでした。

 一応、高取城の簡単な情報を再度載せておきます。
【高取城(たかとりじょう)】 百名城61番(スタンプは観光案内所の「夢創舘」、年末年始は町役場)、国指定史跡
 別名:高取山城
 分類:山城
 場所:奈良県高取町
 特徴: 三大山城の一つ(他の二つは岩村城(岐阜県)、備中松山城(岡山県))
     城内の面積は約1万平方m、城郭全域の総面積約6万平方mと、日本国内で最大規模の山城。
     高取山(583・3m)の山頂に築かれた、曲輪(くるわ)の連なった連郭式の山城ですが、
     当時の天守台には、三重天守だけでなく三重小天守もあり、天守を含めて城には櫓(ろ)が多くあり、
     山城とは思えない程の建物と広い敷地を持っていました。
     現代は山上の建造物はありませんが、大規模な石垣や石塁が往時をしのばせています。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 これで、高取城の訪城時の話は終わりです。とりあえず、一城分ですが、奈良県の「ごまさん」との約束の奈良県の城ブログができました。(予想より手こずりましたが・・・・)
 年末に訪問した奈良県の城の話は続くのですが、名所江戸百景(2月分はまだ2景のみ)の話が進まないので、
 奈良県の城の話の続きは、時間のある時に五月雨式に作らせていただきます。

 次回は、名所江戸百景の話になると思います。

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城004 雪の高取城(2) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)

2014年02月20日 12時25分07秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県(ならけん)・高取町(たかとりちょう)にある高取城(たかとりじょう)を訪城した話の続きです。
 高取城は、日本三大山城に数えられるだけでなく、展望に優れた場所もあり、その広大さを感じる事ができる城です。
 下の写真は、大手道コース入り口の近くにある宗泉寺(天台宗)の境内です。
 宗泉寺は江戸時代の高取藩主の植村氏の菩提寺(ぼたいじ)です。現在も植村氏の墓碑があります。


 高取城へ登城する雪の残る大手道を登っていくと、最初にあるのが「七曲り」です。

 曲がりくねった坂道で、敵が攻めてくると坂道の樹や竹を切って攻撃を防いだと伝えられています。

(1)高取城は山城ですから、歴史は古いです。
 鎌倉時代と室町時代の間にある後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による建武の新政(けんむのしんせいい)が始まる直前の鎌倉時代末期に、大和国(やまとのくに、現在の奈良県)で勢力を持っていた越智氏(おちし、南北朝時代は南朝側)が、支城として築城したのが始まりと伝えられています。当然ながら、この時代の高取城は、小さな山城だったでしょう。

 登り坂は続きます。登るにつれて、道や周囲の雪の量が増えていきます。


(2)戦国時代になると、越智氏は、奈良県北部の筒井氏(つついし)との勢力争いに敗れ、筒井順昭(つついじゅんしょう)が大和一国を統一します。戦国時代ですから戦乱は終わらず、今度は筒井氏と三好一族の家臣・松永久秀(まつながひさひで)の間で争いが続きます。

 二ノ門に到着する前の最後の登り坂の途中に一升坂の文字が見えます。

 城を造る時に石材などの運搬に役夫は急坂と重荷の苦しさにへたってしまうので、米一升(1.5kg程度)を加給して激励したという言い伝えが残っています。

(3)続く、筒井順慶(つついじゅんけい)の時代になると、織田信長(おだのぶなが)の家臣となり、信長の命令により、大和国内の城は大和郡山城(やまとこおりやまじょう)のみとなり、高取城は、一度、廃城となります。
 ところが、天正10年6月、本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)の謀反により織田信長が自害すると、高取城は支城の一つとして復活することになります。

 二ノ門まで残りわずか・・・・最後の登り坂です。ほとんど道も雪に覆われてきました。


(4)その後、信長の後継者争いで、羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀吉)が勝つことになります。
 秀吉は、近隣大名との関係が落ち着いた後、畿内は一門・近臣で固める事にします。
 天正13年には、筒井氏が伊賀国上野に転封となり、大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府の一部)の3カ国64万石は、秀吉の弟である秀長(ひでなが)の領地となり、大和郡山城に居城を構えました。

 二ノ門の手前に猿石と呼ばれる石があります。

 高取城を建築の際、石垣に転用するのに飛鳥(あすか)から石材などとともに運ばれてきた物らしいのですが、
 隣の明日香村にある吉備姫王墓(キビヒメノミコのはか)ににある石像物と同類の物があるそうです。

(5)高取城は支城の一つですから、秀長の重臣の本多利久が、1万5千石として高取城に入ります。
 天正17年(西暦1589年)になると、城の縄張りが新しくなり、現在の近世的な城郭が造られます。
  本丸は多聞櫓で連結された3重の大小天守が立てられ、三重櫓が17基も建ち並び、多聞櫓もありました。
  場内には大名屋敷や侍屋敷も整備されて、山城としては、他に例の無い壮大な山城となっていきます。

 猿石の後ろを振り返れば、「二ノ門跡」はすぐ近くです。

 写真を見ても良く分かりませんが、二ノ門の前は木の橋があったらしく、左側には山城では珍しい水掘があります。
 下の写真が、城下の土佐街道(とさかいどう)沿いにある子嶋寺(こじまでら)に移築された二ノ門です。

 門の裏側から見た写真ですが、門の向こうに奈良県西部の山も見えます。
 下の写真は、前回も載せた二ノ門を正面からみた写真です。

 「三ノ門跡」を過ぎると、途中に国見櫓跡への分岐があります。名前の通り、奈良盆地を遠望できる展望の良い所です。「くまドン」が着いた時は天候が曇りとなったので、スルーして通過しましたが、高取場では最大の展望スポットで、朝早く出発したのも、ここからの景色が目的でした。お勧めです。

(6)本多利久が亡くなると、その子の本多俊政(ほんだとしまさ)が継ぎます。その後、秀長とその養子である豊臣秀保(ひでやす)が亡くなると、秀吉の直轄領となり、本多俊政は、秀吉の家臣となります。

 高取城は門の数も多く、江戸時代の植村氏(うえむらし)の時代には33棟を数えました。
 「矢場門跡」を通り、「松ノ門跡」に着きます。

 門のあった所に、石垣に大木の根が張り出す所は、時代の流れを感じさせます。

 城下の土佐街道沿いにあった児童公園の入り口に、松ノ門の一部が置かれています。

 同じく、児童公園にあった説明板に松ノ門が移築された経緯があります。

 城の見取り図もあり、松ノ門の位置も赤で記されていますが、櫓(やぐら)だけでなく、門や屋敷の数も多いです。

 登城路の左右には、屋敷跡の低い石垣もありますが、植物と雪に覆われています。
 松ノ門を過ぎて、「宇陀門跡」になると、石垣は高く、大きくなっていきます。石垣の角は、算木積み(さんぎづみ)と呼ばれる方法で積まれています。冬なので、植物が枯れている分だけ石垣が分かりやすいかもしれません。

 門のある所は敵の侵入を防ぐ為に、L字型に曲がった虎口(こぐち)となっています。
 現代に残る城閣が造られたのが、豊臣秀吉の時代ですから、石垣は野面積み(のづらづみ)です。
 加工されていない自然石をそのまま積み上げる方法です。石の形に統一性がないので、石垣職人の職人芸です。


(7)慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、本多俊政は、東軍として会津征伐に従った為、東軍として参加。
 高取城は西軍に攻められたが、堅城のため、家臣だけで守りきり、高取城は遂に落ちることはありませんでした。
 関ヶ原の戦後、1万石を加増されて、2万5千石の高取藩主となりました。
 この先に続く、石垣と門や櫓の跡を見ると、守備側の人数が揃えば、この城を落とすのは無理と感じました。

 続いて、「千早門跡」です。雪が厚くなり、石垣の石の形も分からなくなりました。この辺は完全に雪道です。

 千早門跡を過ぎると、三の丸です。やっと、正面に大手門が見えてきました。右からは、壺坂寺(つぼさかでら、南法華寺(みなみほっけじ))からの登城ロである壺坂口門からの道が合流しています。このコースは、途中で五百羅漢(ごひゃくらかん)を見ながら登っていくルートです。帰りに1名登って来られた方がいましたお疲れ様でした。

 大手門の石垣は高さがあり、見応えがあります。やっと着いた・・・・と思ったのは早かったようです。


(8)江戸時代の3代・家光(いえみつ)の寛永年間に、本多家は2代で跡継ぎが無く廃絶・幕府の天領となります。
 3年後に普代(ふだい)の植村家政(うえむらいえまさ)が高取藩2万5千石の藩主として封じられ、明治維新まで14代続く事になります。

 長くなりすぎたので、一度、ここで区切ります。

 高取城(地図の下)や明日香(あすか)の郷(地図の上)周辺には、巨大なハイキングコースもあります。


 一応、高取城の簡単な情報を再度載せておきます。
【高取城(たかとりじょう)】 百名城61番(スタンプは観光案内所の「夢創舘」、年末年始は町役場)、国指定史跡
 別名:高取山城
 分類:山城
 場所:奈良県高取町
 特徴: 三大山城の一つ(他の二つは岩村城(岐阜県)、備中松山城(岡山県))
     城内の面積は約1万平方m、城郭全域の総面積約6万平方mと、日本国内で最大規模の山城。
     高取山(583・3m)の山頂に築かれた、曲輪(くるわ)の連なった連郭式の山城ですが、
     当時の天守台には、三重天守だけでなく三重小天守もあり、天守を含めて城には櫓(ろ)が多くあり、
     山城とは思えない程の建物と広い敷地を持っていました。
     現代は山上の建造物はありませんが、大規模な石垣や石塁が往時をしのばせています。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回も、高取城の続きです。


城004 雪の高取城(1) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)

2014年02月19日 12時25分40秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県(ならけん)・高取町(たかとりちょう)にある高取城(たかとりじょう)を年末に訪城した時の話です。
 下の写真は、高取城下の土佐街道(とさかいどう)沿いにある子嶋寺(こじまでら、高野山真言宗の寺)です。
 高取城の二ノ門が移築されたもので、高取城で唯一の現存する建造物です。


 一応、高取城の簡単な情報です。
【高取城(たかとりじょう)】 百名城61番(スタンプは観光案内所の「夢創舘」、年末年始は町役場)、国指定史跡
 別名:高取山城
 分類:山城
 場所:奈良県高取町
 特徴: 三大山城の一つ(他の二つは岩村城(岐阜県)、備中松山城(岡山県))
     城内の面積は約1万平方m、城郭全域の総面積約6万平方mと、日本国内で最大規模の山城。
     高取山(583m)の山頂に築かれた曲輪(くるわ)の連なった連郭式の山城ですが、
     当時の天守台には、三重天守だけでなく三重小天守もあり、天守を含めて城には櫓(ろ)が多くあり、
     山城とは思えない程の建物と広い敷地を持っていました。
     現代は山上の建造物はありませんが、大規模な石垣や石塁が往時をしのばせています。

 下のMAP(地図)のように、MAP右下の高取城へ登城するコースがいくつかあります。

 車の場合はMAP下の壺坂寺(つぼさかでら、南法華寺(みなみほっけじ))経由の車道で登ると、高取城の近くまで行くことができます。
 壺坂寺(つぼさかでら、南法華寺(みなみほっけじ))は、真言宗(しんごんしゅう、空海(弘法大師)が開祖)の単立寺院で、高取町では高取城と並んで有名なお寺です。

 さて、奈良県の宿を朝早く出発して、勇んで高取城に向います。
 途中の壺坂寺まで到着すると、突然、山上までの路面に雪があります!カチカチに凍結しています!!
 壺坂寺から高取城の駐車場まで標高にして100mほど登ることになります。
 「くまドン」の車はノーマルタイヤですから、当然のことながら立ち往生・・・・・・・(チェーンはあるが、雪道経験なし)

 車を置いて車道を歩いて登るのは味気なく、考えた結果、高取藩の下屋敷からの登城路である七曲がり大手道コースに、あっさり変更します(上のMAPの左上から登城ルートです)。

 下の写真は、高取城下町にある小嶋寺から奈良県西部の山並みを眺めた風景です。年末の雪で真白です。
 右下に見える屋根は光永寺(浄土真宗本願寺派の寺)です。人頭石と呼ばれる人の横顔をした石があります。
 高取市の隣にある明日香村(あすかむら)は飛鳥時代(あすかじだい)の都で、高松塚古墳(たかまつづかこふん)やキトラ古墳で有名です。

 高取城は山城ですから、日常生活には不便な為、藩主をはじめ家臣の屋敷は山下の街道筋に移され、城下町が造られていきます。高取藩の城下町のある街道筋は「土佐海道」と呼ばれ、昔の街並みの雰囲気が残されています。
 下の写真は土佐海道にある武家屋敷です。

 建築から300年も経過していて、窓の格子が横向きの与力窓(よりきまど、写真左)を2つある長屋門(ながやもん、上級武士宅の表門)を当時の姿で残しています。

 なぜ「土佐海道」と呼ばれているのか?不思議に思ったのですが、その理由は、6世紀、大和朝廷の時代にまで遡る事になります。朝廷の労役で土佐の国(現在の高知県)から来て、任務が終わっても帰郷できなかった者が住み着いたことから、土佐街道とういう名前になったそうです。「土佐」は「高取」の旧名です。

 児童公園にある「松ノ門」を見ながら進んでいきます。江戸時代は土佐海道の上の方に藩主の下屋敷がありました。現在は下屋敷跡は残っておらず、そこには田畑があるだけした。
 ただし、下屋敷の門は、明治時代に土佐海道の中間にある石川医院の玄関・待合室として移築されています。年末なので、休診日でした。

 地元の方から教えてもらったのですが、難しい漢字がありますが、昔の「医」の字だそうです。
 下の写真は、瓦(かわら)の家紋の部分ですが、左下の小さな屋根瓦にも家紋があるのは貴重だそうです。

 江戸時代の大半は、徳川・譜代(ふだい)家臣の植村(うえむら)家が藩主でした。

 下屋敷があった付近に総門(そうもん)と呼ばれる城の外郭の正門がありました。こちらは人家の空き地に小さな石碑(左下)と往時をしのばせる古い写真を載せた説明板(右下、昭和57年の撮影とのこと)が置かれていました。

 総門は、江戸中期に高取藩・上村家の家老であった林家の屋敷の後に建てられました。写真を見ての通り、装飾的要素は無く、左に続く土塀(どべい)と共に、小窓を配置した簡素な造りの二階建ての門だったようです。

 総門の近くには、高取藩の筆頭家老屋敷(かろうやしき)である華麗な長屋門(奈良県の重要文化財)があります。

 文政(ぶんせい)9年(西暦1826年)建立で、間口39.1m、奥行4m、むね高さ5mもあります。
 一重入母屋瓦葺き造り、腰板張りの部分は海鼠(なまこ)壁が特徴で、近代武家屋敷の特徴を残す建物です。
 現在は、旧藩主植村氏の居宅だそうです。

 その他に、昭和の俳人・阿波野青畝(あわの せいほ)の生家もあり、中庭には句碑があります。

 そのまま車道を進んでいくと、黒門跡を通り過ぎ、高取藩主の植村氏の菩提寺(ぼたいじ)である宗泉寺(天台宗) が終点となります。初代藩主・植村家政(うえむらいえまさ)の下屋敷のあった所です。

 その少し手前に地元で「聖天(しょうてん)さん」と呼ばれる小さな祠(ほこら)があり、ここに車を駐車(2~3台程度)して、大手道を登っていくことになりました。

 この付近になると、二日前に降った雪が残っています。

 長くなりましたので、この続きは次回とさせていただきます。
 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 奈良県の「ごまさん」と約束していた奈良県のお城ブログです。遅くなったけど、続き作成中です。

 次回も、高取城の話の続きです。


城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)

2014年02月17日 12時25分48秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、「天空の城」として人気が急上昇している竹田城(たけだじょう、兵庫県)を年末に再訪問の続きです。

 今回も、竹田城の写真のみです。
(絵画調)

 絵画調の奥に見えるのが天守台です。下の写真は天守台の正面から見た写真です。
 冬は転落事故の危険があるので天守台は立入禁止です。

 天気も良かったので、次から次へと人が訪れる日でした。

 遠くの山並みも、澄んで見えます。

 山は一面雪化粧です。

 まさに、絶景です!

 北の方向は日本海側ですから、どうしても雲が多くあります。



 石垣の向こうに見える円山川も、きれいな雪化粧です。

 こちらは西の藤和峠のある方向です。



 雪の付いた石垣も、また雰囲気があります。

 午後も遅くなってきました。当日の夜には奈良県の宿に到着しなければならないので、ここで撮影終了です。

 年末(12月末)頃ですから、竹田城を下る頃には、登ってきた車道や田んぼの雪も溶けていて、歩くのは楽でした。最後は、竹田の町にある神社と立雲峡方面の山をバックに終わります。

 「くまドン」は、次の目的地の奈良県に車で向かうのでした。次回の放城記は奈良県の城です。

 一応、安全と史跡保護の為、前回の最後の部分は再度載せておきます。
 竹田城跡は雲海に浮かぶ「天空の城」として人気があり、今年度の観光客は43万人を突破し、過去最高を記録しています。
 最近は、冬でも一般の方が訪れる事が多くなりましたが、雪の多い冬山だという事を忘れないでください。
 「くまドン」が訪れた12月とは比べようの無いぐらいの雪だそうです。春になってからの方が安全かもしれません。
 また、訪問者の増大と共に、11月からは転落事故による骨折事故が発生しています。
 12月以降は降雪後は城や道路が凍結して滑りやすくなっていて、転落・転倒して骨折事故が発生したりしています。

 「彩」の「kainaka-2」様より頂いた情報によりますと、平成26年に関しては、
 「但馬地方(兵庫県北部)は暖冬(少雪)で、今年はほとんど雪が積もっていないそうです。」
 ありがとうございました。
 しかし、突然、天候が悪化して吹雪く可能性もありますので、防寒・路面凍結等にはお気を付けください。

 事故だけでなく、観光客の急増により石積みが緩んだりして、危険個所が発生している為、補修工事も始まっています。
 城壁は危険なので近づかないようにロープが張ってありますが、くれぐれも皆様の安全と文化財保護の為、立入禁止領域には入らないようにお願いします。


 最後に、竹田城への再訪のきっかけを作っていただいた「彩」の「kainaka-2」様(竹田城の素晴らしい写真が載っているブログです)に、再度コメントをいただきました。
 ブログを見ていただいたのには驚きましたが、本当にありがとうございました。
 竹田城が、以前のように修復される事を願います。

 前回、竹田城の歴史は話ましたので、今回は写真のみでした。前回の竹田城のブログは以下をご覧ください。
 「城001 天空の城 竹田城(1)~(3) (兵庫県・百名城56番)」
 (ブログ右欄の「カテゴリアーカイブ」で「訪城記」を選択すると、過去のお城ブログ一覧が表示されます。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 今回の東日本を襲った大雪では、大変な事になりました。
 「くまドン」も、昨日の日曜日は、東京都内を回りましたが、夕方には、かなり雪は溶けてしまいましたが、日比谷公園の大木の太い枝が、風と雪で大量に折れていたり、夕方は東北・関越新幹線が全く動かないなど、大雪の影響が出ていました。

 次回は、奈良県の城の前に、名所江戸百景の葛西臨海公園の話を間に入れて、先に百景の確定を済ませます。

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城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)

2014年02月16日 09時30分26秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、「天空の城」として人気が急上昇している竹田城(たけだじょう、兵庫県)を年末に再訪問の続きです。

 今回の竹田城は写真のみです。

 年末(12月末)頃ですから、まだ雪の下の地面が見えます。

 転落して骨折された方もいますので、安全の為、張ってあるロープよりは前に出ないでくださいね。



 日本海側の気候なので、晴れていても雲は結構あります。冬は吹雪の日もあります。

(絵画調)





 今の城跡は、地面がむき出しですが、有名になる前の昔を知る方にとっては、夏は青々とした草が生い茂る「つわものどもが夢の跡」の場所だったのです。その意味でも竹田城保護に、ご理解をください。

 竹田城の石垣は穴太積(あのうづみ)ですから、自然にある加工していない石を組み合わせて造られています。

竹田城の写真が残っていますので、次回にもう一回続きがあります。
 (ブログ右欄の「カテゴリアーカイブ」で「訪城記」を選択すると、過去のお城ブログ一覧が表示されます。)

 一応、安全と史跡保護の為、前回の最後の部分は再度載せておきます。
 竹田城跡は雲海に浮かぶ「天空の城」として人気があり、今年度の観光客は43万人を突破し、過去最高を記録しています。
 最近は、冬でも一般の方が訪れる事が多くなりましたが、雪の多い冬山だという事を忘れないでください。
 「くまドン」が訪れた12月とは比べようの無いぐらいの雪だそうです。春になってからの方が安全かもしれません。
 また、訪問者の増大と共に、11月からは転落事故による骨折事故が発生しています。
 12月以降は降雪後は城や道路が凍結して滑りやすくなっていて、転落・転倒して骨折事故が発生したりしています。

 「彩」の「kainaka-2」様より頂いた情報によりますと、平成26年に関しては、
 「但馬地方(兵庫県北部)は暖冬(少雪)で、今年はほとんど雪が積もっていないそうです。」
 ありがとうございました。
 しかし、突然、天候が悪化して吹雪く可能性もありますので、防寒・路面凍結等にはお気を付けください。

 事故だけでなく、観光客の急増により石積みが緩んだりして、危険個所が発生している為、補修工事も始まっています。
 城壁は危険なので近づかないようにロープが張ってありますが、くれぐれも皆様の安全と文化財保護の為、立入禁止領域には入らないようにお願いします。


 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 東京の大雪は先週と同じ27cmも積り、他の地域は大雪で大変な事になっています。早めに回復すればよいのですが・・・
 山梨・甲府で114cm、群馬・前橋で73cm、埼玉・熊谷で62cm、栃木・宇都宮で32cmと、
 100年以上の観測で、一番の積雪を記録しています。驚きました。

 次回は、竹田城・再訪問の最終回となります。

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