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くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)

2014年02月15日 15時00分11秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、「天空の城」として人気が急上昇している竹田城(たけだじょう、兵庫県)を年末に再訪問した時の話です。
 年末に行った城は、兵庫県(ひょうごけん)と奈良県(ならけん)の城となります。

 「城001 天空の城 竹田城(1)~(3) (兵庫県・百名城56番)」の続きになりますが、竹田城の歴史は前回しましたので、今回は写真のみです。
 (ブログ右欄の「カテゴリアーカイブ」で「訪城記」を選択すると、過去のお城ブログ一覧が表示されます。)
 竹田城の素晴らしい写真を撮影されている「彩」の「kainaka-2」様に、「雪の竹田城の時もどうぞ」と書いていただいたので、最初に竹田城に再訪問することにしました。ありがとうございました。

 下の写真は新名神自動車道の甲南PA(滋賀県)で撮影した写真です。北の空に雪雲が見えます。

 さて、「くまドン」が勇んで東京都心を夜間に出発して、途中までは良いペースで移動できたのですが、
 何しろ年末・年始休暇の先頭の日ですから、夜間でも浜名湖で2時間もの事故渋滞が発生・・・・・・・
 「くまドン」も寝不足になると危険なので、SA(サービスエリア)で仮眠をとることにしました。
 渋滞を抜けても、さらに、年末は厳しい寒波で、関ヶ原や琵琶湖(びわこ)方面は高速も雪道規制です。
 そこで、伊勢湾岸道から東名阪自動車道に進んだのですが、ここでも年末ですから、名古屋からの車が合流して、ここでも3時間におよぶ大渋滞・・・・・・・
 下の甲南PAに到着した時は、お昼になってしまいました。

 この時の近畿地方は寒波により、雪が降る所も多く、東を振り返れば、鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)が雪化粧でした。上空には雪雲が流れてきて、高速にも雪をちらつかせます。

 京都を横目に高速で走ると、京都は晴れていましたが、山並みは雪化粧となっていました。雰囲気ありましたね。
 京都・大阪付近は無難に抜けましたが、1日目の目的地である姫路(ひめじ)に到着する手前のインターチェンジ付近では、トンネルを抜けると急に雪が大量に降り出し、あたりは雪景色です!ノーマルタイヤの「くまドン」は、一気に焦りモードです!
 結局、何事も無く、姫路市内に着いたら雪もなく晴れていました。
 しかし、天守が修理中の姫路城に到着したのは、沈む夕日が当る時間帯となり、1日目は何も見れないで終わりました。

 2日目は晴天でした。12月頃のこの地方の雪は、日が差すと、道路の雪は、1日で無くなると教えていただいたので、とりあえず、車で行けそうな所まで行って、残りは電車で移動する予定でした。
 ところが、この日の太陽は明るく・強く、道路の雪が全て溶けてしまい、そのまま車で竹田の町に到着します・・・・・
 下の写真は、竹田の町で撮影したJR幡但線(ばんたんせん)の電車です。

 雪景色の中を走る列車の車窓からの風景も期待していたのですが、ここでも計画が狂いました。

 さて、竹田の町の横を流れる円山川の有名なお城型欄干(らんかん)です。後方に見える山上に竹田城が見えます。


 近くの山は雪を被り、川は青々した水が流れています。

 北を望むと、丹後山地(たんごさんち)の山並みも雪化粧となっています。

 下の写真は、竹田城の近くにある駐車場にある門ですが、冬季は登山道を歩いて登る事になります。
 竹田の町中の駐車場に車を停めて、山を登る事になりました。ここまで、やっと着いたという所です。

 前回、訪城した時に雲海に浮かぶ竹田城を撮影した立雲峡の山も深雪で、簡単には登れません。

 登城路を登るに従って、視界は広がり、すぐ下の竹田の町が見下ろせるようになります。

 そして、再び、竹田城に登ることができました。城壁には人が見えます。

 長くなりましたので、この続きは次回とさせていただきます。

 竹田城跡は雲海に浮かぶ「天空の城」として人気があり、今年度の観光客は43万人を突破し、過去最高を記録しています。
 最近は、冬でも一般の方が訪れる事が多くなりましたが、雪の多い冬山だという事を忘れないでください。
 「くまドン」が訪れた12月とは比べようの無いぐらいの雪だそうです。春になってからの方が安全かもしれません。
 また、訪問者の増大と共に、11月からは転落事故による骨折事故が発生しています。
 12月以降は降雪後は城や道路が凍結して滑りやすくなっていて、転落・転倒して骨折事故が発生したりしています。

 「彩」の「kainaka-2」様より頂いた情報によりますと、平成26年に関しては、
 「但馬地方(兵庫県北部)は暖冬(少雪)で、今年はほとんど雪が積もっていないそうです。」
 ありがとうございました。
 しかし、突然、天候が悪化して吹雪く可能性もありますので、防寒・路面凍結等にはお気を付けください。

 事故だけでなく、観光客の急増により石積みが緩んだりして、危険個所が発生している為、補修工事も始まっています。
 城壁は危険なので近づかないようにロープが張ってありますが、くれぐれも皆様の安全と文化財保護の為、立入禁止領域には入らないようにお願いします。


 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 やっと、まとまった時間ができたので、訪城時の写真が準備できました。

 次回も、竹田城・再訪問の続きです。

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城002 鳥取神社 (北海道・釧路市、模擬天守)

2014年01月16日 07時55分42秒 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、鳥取城の番外編です。

 下の写真は鳥取神社(とっとりじんじゃ)の鳥取百年館です。

 場所は、なんと、北海道(ほっかいどう)釧路市(くしろし)鳥取大通(とっとりおおどおり)です。

 釧路の鳥取村は、明治17年に鳥取県からの士族(しぞく、明治維新後の武士)移住者によって作られた村でした。
 村の鎮守(ちんじゅ、土地を守護するために祀られた神)の神社として、出雲大社(いずもたいしゃ、島根県)に願い出て、明治24年に鳥取神社が建てられました。祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ、スサノオの子)となります。
 写真を撮影したのは7月です。現在は1月ですから雪が降っています。

 昭和24年に鳥取村は、釧路市に編入されて、現在に至っています。
 開村100年にあたる昭和59年に、この城型建築物が、境内に資料館・鳥取百年館が造られました。

 鳥取県から取り寄せた鳥取城の資料から造られているので、コンクリート製のミニチュア版とはいえ、鯱鉾(しゃちほこ)もある真面目な資料館です。
 会館時間を確認していなかったので、見学しようとした時には、開館時間を過ぎていましたので、中は見れませんでしたが、鳥取から移住した開拓の歴史が展示されています。

 前回の鳥取城ブログは、以下の通りです。
 「城002 鳥取城と鳥取砂丘(1) (鳥取県・百名城63番)」
 「城002 鳥取城と鳥取砂丘(2) (鳥取県・百名城63番)」

 今回の訪城記の話は終わりです。
 名所江戸百景の話の中で、他の話と前後関係のある正月2日に作成した「浜離宮の放鷹術」のブログを作りなおしているのですが、思うように作れません。
 気分転換に、時間のある時に作るつもりでいた鳥取神社の話を作りました。本来は、夏の北海道旅行の時に撮影した写真です。年末に近畿地方2県のお城を見に行きましたので、2月頃には作りたいと思っています。

 次回は、名所江戸百景の話に戻ります。

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城002 鳥取城と鳥取砂丘(2) (鳥取県・百名城63番)

2013年10月30日 07時55分53秒 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、鳥取砂丘(とっとりさきゅう)と鳥取城の撮影の話です。

 前回の竹田城(たけだじょう)の2日目からの続きです。

 一応、鳥取城の簡単な情報です。
【鳥取城(とっとりじょう)】 百名城63番(スタンプは鳥取城内の「重要文化財 仁風閣」内)、国指定史跡
 別名:久松山城
 分類:山城 →平山城
 場所:鳥取県鳥取市東町
 特徴:山の上にある戦国事態からの山城部分と、江戸時代に整備された麓(ふもと)の近代城郭部分に分かれる。
     関ヶ原の戦いの後、池田長吉(いけだながよし、池田輝政の弟、鳥取藩6万石)が治めることになり、
     麓(ふもと)に近世城郭の二の丸・三の丸などを造る大改修を行う。
     天球丸の石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣が有名です。
     昭和の半ばから、石垣の修復が進み、往時の姿がよみがえりつつあります。

 下の写真が、鳥取城です。天守台は、後方に見える久松山(きゅうしょうざん)の「山上の丸」にあります。
 織田信長軍の命により行われた羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで、毛利家の吉川経家(きっかわつねいえ)が守る鳥取城を、兵糧攻めで降伏させた時は、まだ、山の上丸を中心とした山城でした。
 その後、秀吉配下の宮部 継潤(みやべけいじゅん、五奉行の一人)が城主となります。
 
 写真の下半分の城らしい石垣が見える所は、「山下の丸」と呼ばれてます。
 江戸時代の鳥取藩6万石の藩主・池田長吉によって、近代城郭に改修された所です。
 2代将軍・徳川秀忠の時に、池田光政(いけだ みつまさ、姫路城藩主・池田輝政の孫、池田家・宗家)が幼少との理由で、姫路藩から移封となり、32万石の大藩となったため、石高に見合う城の改築を行い、現在の石垣が出来上がっています。
 3代将軍・徳川家光の時に、今度は岡山藩(31万5千石)の池田家の藩主の跡継ぎ・池田 光仲(いけだ みつなか池田輝政の孫、池田家・分家)が幼少との理由で、岡山藩と鳥取藩の藩主が交代となり、幕末まで続きました。
 結果的には、江戸時代の鳥取藩は、池田家が交代で治めていた事になります。

 真ん中の右側に見える小高い石垣の見える所が、鳥取城の「二の丸」の御三階櫓台です。
 その右にある建物が仁風閣(明治40年建造)です。
 仁風閣のある手前の内掘の向こう側は「丸の内」と呼ばれた所です。

 二の丸に登って行くところにある復元された城門(昭和50年再建)です。


 下の写真は、算木積み(さんぎづみ)です。石垣の角部分に使用される積み方で、長方体の石の長辺と短辺を、交互に重ね合わせることで、強度を増しています。石垣の石を見ると、大きさと形にばらつきがあります。

 鳥取城の改築は江戸初期の慶長年間から、幕末期の嘉永年間まで行われています。
 この為、鳥取城の石垣は、野面積みから、打ち込みハギを経て、切り込みハギに進化していた歴史を見る事が出来ます。
 下の写真は二の丸の御三階櫓台の石垣です。
 隅石(角部分)を比べると、上の写真と同じ算木積ですが、奇麗に成形された石を使用しています。


 二の丸から「天球丸(てんきゅうまる)」への登り口には、お稲荷さんがあります。
 時折、雲の隙間から夕日も差してきます。

 天球丸には、池田長吉の姉の「天球院」が居住していたことで知られています。
 天球丸にも三階櫓があったそうで、二の丸の御三階櫓と並んで立っていたそうです。

 天球丸の石垣は、復元に伴う発掘調査の結果、宮部時代にあった石垣を元に、池田長吉の時代に多段の石垣に拡張され、さらに池田光政の時代に現在のような凸型の石垣に拡張されていきました。

 この天球丸の下の石垣には、鳥取城の代名詞となっている「巻石垣(まきいしがき)」があります。
 下の写真にある亀の甲羅(こうら)状の石垣です。角を持たない形状から巻石垣と呼ばれています。

 文化4年(1807年)頃に、石垣が崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれています。
 川の護岸(ごがん)や港の突堤(とってい)に関わりのある職人が築いたとされています。
 この形の石垣は、鳥取城以外にはないそうで、絵図を元に復元した石垣です。

 天球丸の下は整備中の為、巻石垣を下から見る事はできませんでした。

 すでに、日没までの時間も少なくなり、日も西の雲の中に沈みましたので、吉川経家が指揮を執った天守台のある山上の丸は、あきらめることにしました。

 二の丸から見た仁風閣(重要文化財、観覧料150円)と鳥取の町です。
 仁風閣は、明治40年の大正天皇(当時は皇太子)の宿泊施設として建てられた旧鳥取藩主(明治時代は侯爵)の別邸です。フレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白色塗装の木造瓦葺二階建てです。

 仁風閣の先にある掘は、内堀ですから、江戸時代には、その先の鳥取市街まで城が広がっていたのです。

 明治時代の洋風の部屋の中にある照明器具が、レトロ調で凝っています。

 仁風閣から二の丸を眺めた景色です。

 建物の正面は、櫛形(くしがた)破風の棟飾りを主要モチーフとして造られています。

 今回の訪城記の話は終わりです。

 次回からは、再び、名所江戸百景の続きになります。大分、期間が空いてしまいましたので、急がなければ(汗)

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城002 鳥取城と鳥取砂丘(1) (鳥取県・百名城63番)

2013年10月29日 07時55分41秒 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、鳥取砂丘(とっとりさきゅう)と鳥取城の撮影の話です。

 前回の竹田城(たけだじょう)の2日目からの続きです。
 竹田城を見学していると、晴れた空に薄雲が広がり始め、曇りになってしまいました。
 あまり、風景撮影に向かなくなってきましたので、鳥取城に向かう事にしました。

 竹田城からは近いと思って行ったので、車で1時間程で着くかと思ったのですが、片道2時間かかりました。
 鳥取県の境まで来ると、国道は、日本海のすぐ側を通ります。
 せっかくですから、鳥取砂丘に向かう海岸通りに出ると、なんと、鳥取砂丘の付近だけ晴れています!

 日本海の青い海が見れて、鳥取まで来ただけありました。竹田城の雲海といい、今日はラッキーです(笑)!
 東の浦富海岸(うらどめかいがん)の方を見た写真ですが、
 陸地側にも、海の上にも雲があるのに、何故か、鳥取県の海岸線だけ晴れていました?

 西の鳥取砂丘の方を見た景色です。波が結構あるみたいです。奥に見えるの鳥取港です。

 鳥取砂丘の駐車場に着きました。

 「くまドン」が鳥取砂丘に来たのも、10年ぶり、2回目の撮影となります。
 懐かしい風景ですが、平日にも関わらず、観光客も結構多いです。

 鳥取砂丘には、砂丘列が3つあり、正面に見える小高い砂丘が第2砂丘列、その下の大きく窪んだ水のある所が「すりばち」と呼ばれる所です。「くまドン」が撮影している所(入り口)は、第3砂丘列です。

 砂丘の上を見ると、おっ!パラグライダーがいます。
(絵画調)

 望遠で、思い切り拡大してみました。今は、パラグライダーのスクールがあるのですね。

 さて、砂丘の上まで登ってみることにしました。

 砂丘の上まで行くと・・・?。何かの撮影をしていました。

 TV撮影か?それとも、宣伝用の撮影か?
 良く分かりませんが、鳥取砂丘の風景と外人さん3名を撮影していました?

 砂丘の下の海岸線を見ると、先ほどのパラグライダーの人がいました。

 左奥に見える少し小高い所が、第一砂丘列です。

 時間も遅く、午後3:00頃だったので、足跡が多かったのですが、東の方を見た風景です。

 風が弱かったのですが、風紋(ふうもん)が少しありましたので、手前に入れて撮影です。
 風が強いと、カメラの隙間に飛砂が入り、カメラの故障の原因になるので、痛しかゆしですが・・・・・

 手前の足跡が邪魔だったかな・・・・・?

 観光馬車も、今日は帰り仕度を始めました。観光用のラクダ(駱駝)もいました。


 竹田城から鳥取に行く途中で、お昼になったので、「道の駅 ようか但馬蔵」に寄りました。
 ちょうど、「兵庫・但馬(たじま)の道の駅を巡る 駅丼スタンプラリー」をやっていましたので、注文してみました。
 「八鹿(ようか)豚のかつ丼」です。

 八鹿豚は、自然豊かな山々に囲まれて育つ為、ストレスを感じず、のびのび育つことから、肉質が柔らかく、脂身が上品で甘いのが特徴です。

 一応、鳥取城の簡単な情報です。
【鳥取城(とっとりじょう)】 百名城63番(スタンプは鳥取城内の「重要文化財 仁風閣」内)、国指定史跡
 別名:久松山城
 分類:山城 →平山城
 場所:鳥取県鳥取市東町
 特徴:羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで、毛利家の吉川経家(きっかわつねいえ)を兵糧攻めで降伏させた時は、
     まだ、山城(山の上丸と呼ばれる所)でした。
     その後、秀吉配下の宮部 継潤(みやべけいじゅん、五奉行の一人)が城主となる。
     関ヶ原の戦いの後、池田長吉(いけだながよし、池田輝政の弟、鳥取藩6万石)が治める事になり、
     麓(ふもと)に近世城郭の二の丸・三の丸などを造る大改修を行う。
     天球丸の石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣が有名です。
     昭和の半ばから、石垣の修復が進み、往時の姿がよみがえりつつあります。

 長くなりましたので、この続きは、次回にいたします。

 次回は、鳥取城に訪城です。

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城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)

2013年10月28日 07時55分55秒 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、「天空の城」として人気が急上昇している竹田城(たけだじょう、兵庫県)の3日目です。

 前日の「くまドン」は、朝4:00起きて、目が覚めると、残念ながら、外は雨の音です。
 雨では気が進みませんが、ともかく状況を確認するために、昨日と同じ立雲峡の駐車場に5:00に到着しました。
 今日は土曜日なので混んでいるかと思いきや、雨なので、20台程度でした。土日・祝日は地元の方が駐車場の整理をいるので、お尋ねした所、いつもなら、この時間は、すでに満車との事でした。
 駐車場から竹田城も見えませんし、竹田城の駐車場も満車ですので、藤和峠(ふじわとうげ)に行ってみる事にしました。

 藤和峠に到着したら、何故か竹田城が見えました。城の奥の立雲峡側には雲海があります。見えないわけです。

 だんだん、明るくなってきますと、雲海も動き出します。
 立雲峡側からも雲海が切れて、竹田城が見えるようになってきました。
 竹田城の石垣の上は、雨にも関わらず、城と雲海の撮影者が沢山(たくさん)います。

 右の一番高い所が天守台です。西から竹田城を見ているので、左側が北千畳です。

 一応、藤和峠からの雲海は撮影できたので、天守台に向かう為、シャトルバスが発着している竹田の城下町の駐車場に向かいました。
 しかし、シャトルバスは最終便しかなく、戻りのバスは無いとの事でした。さらに、8時からは車で上の駐車場に上がれるとの事でしたので、1時間程の待ち時間で、竹田の城下町を散策してみることにしました。
 竹田の城下町の真ん中には、竹田まちなか観光駐車場(無料)があります。
 下の絵地図にあるように、真ん中のJR竹田駅西側の竹田城の麓(ふもと)には、お寺と神社が並ぶ寺町通りがあります。

 撮影しようとすると、雨も止み、最後には晴れ間も見える展開になりました。

 【法樹寺(ほうじゅじ)、古城山麓の4ヶ寺の一つ見星山法樹寺 】 浄土宗知恩院の末寺。
 安土桃山時代の1578年(天正6年)僧勝誉が曜萬院を河原町に開創した。
 竹田城が廃城した後、生野代官中野吉兵衛から旧城主赤松広秀の所有地及び陣屋・土蔵等の寄進を受け、
 江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)現在地に移る。


 左の石仏の並ぶ階段を登っていくと、竹田城の城主・赤松広秀(あかまつひろひで)の墓があります。

 竹田城の城主・赤松広秀(あかまつひろひで)の墓です。

【赤松広秀(あかまつひろひで、斎村 政広)】
 羽柴秀吉の中国攻めにより降伏。その後、秀吉に従う。賤ヶ岳の戦いや、小牧・長久手の戦いなどに参戦。
 その功により、播磨・龍野城主から但馬・竹田城主(2万2千石)となる。
 慶長5年(16000年)の関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、細川幽斎の居城である丹後・田辺城を攻撃する。
 関ヶ原で東軍の家康が勝利すると、東軍に寝返って、西軍・宮部長房の居城・因幡・鳥取城を攻めるが、
 家康に許されず、鳥取の真教寺にて切腹。
 その後、徳川幕府の方針により、竹田城は廃城となるが、石垣の破壊などは受けかったようです。
 結果的には、現代でも戦国時代の石垣が残る史跡となっています。

 さらに、常光寺(じょうこうじ)、勝賢寺(しょうけんじ)、善證寺(ぜんしょうじ)と続き、4つのお寺の白壁が並ぶ中を小川が流れ、風情があります。初夏の川岸には、約3000株もの菖蒲の花が咲きます。
(絵画調)

 お寺を結ぶ石橋は、全て江戸時代のものです。常光寺(じょうこうじ)の石橋が最も古く、宝永年間(1707年)の文字が刻まれています。

 4つのお寺の向こうには、表米神社があります。
【表米神社(ひょうまいじんじゃ)】
 丹後(たんご)・白井の浜に来襲した新羅(しらぎ)の賊(ぞく)を討伐した武人・表米宿彌命(ひょうまいすくねのみこと)を祀る神社です。

 赤淵(あかぶち)神社(和田山枚田)も同じく表米宿彌命が祭神です。

 山門(さんもん)の彫刻も凝っています。

 建物の後ろにある本殿は、三間社流造(ながれづくり、三間は柱が4本)で、千鳥破風(ちどりはふ)を有してます。


 この神社の境内には、全国的にも珍しい「相撲桟敷(すもうさじき)」があります。
 相撲の土俵(どひょう、写真左の緑のシートの所)を囲んで、半円形に六段の石積みが観客席です。
 土俵の反対側には、舞台(写真左奥)があります。歌舞伎(かぶき)見物に使用されたと考えられています。

 このような、半円形石積段型桟敷は、山口県長門市の赤崎神社(あかざきじんじゃ)・楽桟敷(らくさじき、国指定)の他は、類例が少なく、珍しいものだそうです。

 竹田の町中には、所々にお地蔵さんが祀られていました。


 のんびり撮影していたら、8:30になってしまいました。山の上の駐車場まで行くと、かなり空いていました。
 今日も竹田城に向かって登っていく時にすれ違った方に「今日はどうでした?」とお尋ねすると、雨の中で待っていたにも関わらず、「良かったですよ」と皆さん喜んでいました。
 竹田城にたどり着くと、霧はわずかにしか残っておらず、この1枚を撮影して、すぐ無くなってしまいました。

 後は、前回の竹田城(2)の写真と同じ様な写真になるので、割愛します。

 竹田城のお祭り情報を見つけましたので、一応、情報として、載せておきます。
【朝来市「わだやま竹田」お城まつり】
 日時: 平成25年11月10日 10:00~16:00
 場所: 兵庫県朝来市 JR竹田駅周辺
 内容: 手作りの鎧兜を身に着けた総勢100人が練り歩く武者行列などが行われます。
 (平成25年10月時点の情報です。変更になる可能性もありますので、インターネット等でご確認ください。)

 福知山(ふくちやま)への帰り道に、「道の駅 農匠(のうしょう)の郷やくの」に蕎麦(そば)屋さんがありました。
 竹田城の滞在時間が長かったので、お昼近くになっていました。
 残念ながら、福知山城の見学時間は無く、またの機会にして、そばを食べて帰ることにしました。

 夜久野産のそば粉を使用した十割そばです。
 その他に竹田城の北にある出石城(いずしじょう、兵庫県豊岡市出石町)は、出石そば(いずしそば)で有名です。

 長くなりましたので、今回はこれで終わりとさせていただきます。

 次回は、前回の2日目の続きで、鳥取城撮影です。

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