goo blog サービス終了のお知らせ 

くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城006 兵庫県の織田家(2) 丹波柏原藩・信雄系の織田家

2014年08月21日 07時55分32秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県丹波市の柏原藩(たんばかいばらはん)の続きです。前回話しましたように、信包系・織田家が途絶えてからは、幕府領となっていましたが、5代将軍・綱吉(つなよし)の時代に、大和(現在の奈良県)の宇陀松山藩(うだまつやまはん)の宇陀崩れ(うだくずれ)と呼ばれるお家騒動により、改易寸前となります。しかし、織田信休(おだのぶやす)が織田家の子孫ということで、丹波柏原藩に減移封(2万9000石→2万石)となります。ここにおいて、丹波柏原藩が信雄系・織田家として、再立藩される事になります。
 前々回の放城記「奈良県の織田家」の続きにもなります。
 柏原藩は2万石で、城ではなく、陣屋(じんや)となります。それでも、江戸時代の陣屋が、そのまま残っている所は少なく、貴重なものです。

 藩財政の窮乏と不作の為、柏原陣屋(織田家の居館)は、20年後の正徳4年(7代将軍・家継(いえつぐ)の時代)に完成します。

【柏原陣屋】
 下の写真は、柏原陣屋(左手前は長屋門、右奥が御殿)で、丹波市立柏原歴史民俗資料館の正面にあります。

 長屋門は表門で、正徳4年(西暦1714年)の居館創建の頃から残る唯一の建物です。内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫となります。

 御殿は、11代将軍・家斉(いえなり)の文政年間に焼失した2年後(’西暦1818年)に再建された建物ですが、
 明治以降に解体されて、建物の1/5面積分が現存しています。

 陣屋の所にあった説明板の一部ですが、現存しているのは、建物の右側の一部です。

 建物正面の玄関にある唐破風も見事です。

 下の写真は玄関を入った所です。

 上段の間です。

 右の部屋が、書紀の間です。


 陣屋から、大手通りを歩いて行くと、

 右手に健勲神社があります。

【健勲神社】
 信雄系・織田家の初代藩主・信休が柏原藩を再興した元禄8年(5代将軍・綱吉の時代)に、藩邸内に祠(ほこら)を建て、信長を祀ったのが始まりです。

 明治になってから、「健勲神社」に改名となり、明治13年に現在の場所に移転して、一般の人にも参拝可能になったとこのことです。
 昭和9年に火災で焼失後、そのままとなり、平成18年に再建されました。
 最初に、この神社を見た時、余りに新しいので、???となっていました。

 長くなりましたので、この続きは、次回とさせていただきます。

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
 「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、兵庫県の織田家の続きです。
 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)

2014年06月10日 07時55分20秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県の織田(おだ)家の続きで、宇陀松山藩(うだまつやまはん)です。今までは、織田信長の弟・織田有楽斎(うらくさい、長益)の家系の藩でしたが、今回は信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)の家系になります。
 前回のブログが3月末でしたので、かなり日数が空いてしまいました。
 高取城の訪城が雪でお昼までかかったので、柳本藩・芝村藩の史跡の見学が終了したのは、大分遅い時間になりました。そこから東南の方向にある宇陀松山藩の陣屋のあった松山地区(奈良県宇陀市大宇陀)に向かいました。到着したのは、夕日が西の山に沈みかけている時間帯でした。

 下の写真は、光明寺です。この地区でも古いお寺です。

【光明寺(こうみょうじ、融通念仏宗)】
 第59代・宇多天皇(うだてんのう、平安時代中期の天皇)の頃の創建と伝わります。宇多天皇は、天神様で有名な菅原道真(すがわらみちざね)を登用したことで知られています。
 門の上に梵鐘(ぼんしょう)のある鐘楼門(しょうろうもん)は、この地区の最古の建造物で、江戸時代の慶安年間(3代・家光の時代)から寛文年間(4代・家綱の時代)の間に造られた門です。
 本堂も寛政年間(11代・家斉の時代)に建造と古いです。


 この宇陀松山は、山沿いを通り、奈良盆地(ならぼんち)に出た所が、古代・奈良の飛鳥(あすか、明日香)の都ということもあり、歴史が古いです。国や県の指定文化財が結構あります。
 ただ、写真を並べるだけよりも、城に向かう途中の話として入れておきます。(最も、宇陀松山の町の一部が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているので、町自体が史跡みたいなものですが・・・・・・)
 下の写真のような、時代を感じさせる建物が残っています。


(1)現在の宇陀市と呼ばれる場所は、古代においては阿騎野(あきの)や莵田野(うだの)と呼ばれていました。
 飛鳥(あすか)時代の宮廷から近かったこともあり、その歴史は古く、大和朝廷(やまとちょうてい)の狩り場でした。
 33代・推古天皇(すいこてんのう)が聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより、莵田野の地で薬猟(くすりがり、薬草採取)を行った事が、「日本書紀(にほんしょき)」に記録されています。

 町を歩いて行くと、古民家の中に、小さな祠(ほこら)があったりもします。


(2)大化の改新(たいかのかいしん)後の41代・持統天皇(じとうてんのう、40代・天武天の皇后)の時代に
 有名な飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が、阿騎野の狩りにおいて、軽王子(後の42代・文武天皇(もんむてんのう))を
 「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」
 詠んだ歌が残っています。
 同じ宇陀市には、この時代に創建されたという慶恩寺というお寺もあります。

 この宇陀松山の地は谷沿いに宇陀川が流れていて、この川が城(陣屋)の堀の役割をしています。


(3)戦国時代においては、現在の松山地区は、「宇陀三将」の一つ・秋山氏の本拠地である秋山城がありました。上の地図の真中にある「宇陀松山城」の★印がある様に山城でした。戦国時代の名の様に混乱の多い時代でした。
 織田信長(おだのぶなが)の時代には、秋山氏は大和の筒井氏(つついし)の配下の国人領主となっていました。

 この川を渡った所にあるのが、下の写真の松山西口関門(黒門)です。

 城の門らしく、枡形(ますがた)のある構造になっています。進入路もクランク型に曲がっていて、橋を渡ると壁に囲まれて、左手に下の写真の門があります。門の左側に川が流れています。そして門を抜けると、右に進入路が曲がっていて、敵の進入を阻む為の構造になっています。

(4)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代になると、近畿周辺は秀吉に近い家臣で固めるように領地替えが始まります。
 天正13年には筒井氏が伊賀(いが)の地に移封となり、松山地区は豊臣家の直轄地になります。
 秋山城には、秀吉配下の代官(だいかん)が入るようになりました。この頃に秋山城の改修と城下町の拡大整備が行われています。町名も阿貴町から松山町へと変わり、このときの城下町の町割りが現在の松山地区の町並みの元になっています。
 上の写真にある西口関門も、この頃に造られました。

 下の家は、江戸時代後期頃に建てられた植田家「かぎや」だそうです。

 材木・油・米・穀物を取り扱う家です。壁の連格子・駒寄せ(犬矢来)や二階の白壁の窓の形と言い、特徴のある建物です。駒寄せ(こまよせ)、は、下に置かれている柵で、表の格子や塀に車や、動物がぶつからないように保護する為に使用したそうです。犬矢来(いぬやらい))も同様な役割で京都では犬のマーキングよけ・泥はねよけとして使用されています。

(5)慶長年間の関ヶ原の戦いの功績により、福島高晴(ふくしまたかはる、福島正則の弟)が3万石余で伊勢国(現在の三重県)・長島から加増転封されてきます。これが宇陀松山藩の始まりとなります。
 その後、大坂夏の陣で高晴は豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、宇陀松山城も廃城となります。

 宇陀松山城の麓には春日神社があります。神社の入口が春日門(かすがもん)の跡で、石垣が往時をしのばせます。この場所も道は真っ直ぐ進めず、クランク状の形状をしています。

 下の写真にある説明板によると、宇陀町教育委員会の調査の結果、春日門は16世紀末から17世紀初期(安土桃山時代~江戸時代初期)に造られ、城下町形成時に町人地と武家屋敷・城館を分ける虎口(こぐち)として造られたそうです。

 なお、春日門の櫓台は、続く織田家の時代に屋敷を造営する際に改修されて再構築されているそうです。

(6)続いて、織田信雄(おだのぶかつ)が大和国と上野国(現在の群馬県)の両方を合わせて約5万石で入ります。織田信長の子のため、国主格も与えられたそうです。

 春日神社入り口の虎口を抜けると下の写真のような坂になりますが、廃城となった宇陀松山城は写真の右側で、この付近は武家屋敷でしたが、江戸時代の織田家の上屋敷は、写真の左奥の方にありました。


 春日神社に入る右手の折れ口付近の石垣も年代の感じさせる石垣です。

 参道を右に折れると、春日神社があります。


 右手には、宇陀松山城への登城口がありますが、すでに夕方となっていましたので、ここまでとなります。


(7)その後、信雄は上野の所領を四男の信良(のぶよし)に与え、上野小幡藩(おばたはん、2万石)となります。
 残った大和2万8千石が信雄の隠居領としていましたが、大和の所領は五男の高長(たかなが)が継ぐことになります。宇陀松山藩となります。

 歴史が古いだけあって、江戸時代の元禄年間(5代・綱吉の時代)に作られた水鉢(みずはち)がありました。


(8)宇陀松山藩は、4代藩主・織田信武(おだのぶたけ、信雄のひ孫)の時代に「宇陀崩れ」と呼ばれるお家騒動が発生します。5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の元禄年間の時代です。
 他の大名であれば、お家取りつぶし(=改易)となりますが、綱吉=(3代・家光(いえみつ)の四男)=(2代・秀忠(ひでただ)と江(ごう)の孫)となり、遠い親戚になります。
 その結果、跡継ぎの5代目藩主・織田信休(おだのぶやす)は、丹波柏原藩(たんばかいばらはん、現在の兵庫県)2万石に減封のうえ国替となりました。以後、宇陀松山藩は廃藩となり、天領(徳川幕府の直轄地)として明治維新を迎える事になります。

 せっかく、ここまで来たのですから、春日神社に参拝です。年末だったので、正月の門松(かどまつ)があります。


(9)四男・信良が継いだ上野小幡藩も、騒動に巻き込まれながらも、出羽(でわ、現在の山形県)・天童藩(てんどうはん)に転封となり、明治維新まで存続することになります。

 春日神社から後ろを振り返れば、西の山に夕日が静かに落ちて行きました。


 最後は、織田家の墓です。
 徳源寺は宇陀松山藩の2代藩主織田高長が初代藩主の父・信雄の菩提を弔うために建てた寺です。


 道を歩いて行くと、信雄の墓との立て札がありました。


(10)驚いたことに、奈良県の織田家で前に話した織田家の織田有楽斎(織田長益)系統がありますが、
 柳本藩(やなぎもとはん)は、6代藩主・織田秀行(おだ ひでゆき)が嫡子が無く断絶となる所を、末期養子が認められ、宇陀松山藩織田家の分家にあたる旗本・織田信方(おだのぶかた)が7代藩主となり、その系統が明治維新まで存続します。

 この場所にいた時は、似たような石塔が建っていて、どれが信雄の墓なのか不明・・・・・?


(12)もう一つの芝村藩(しばむらはん、戒重藩)も、3代藩主・織田長明(おだながあき)の養子となった織田長清(おだながきよ、宇陀松山藩の3代藩主織田長頼の三男)が4代藩主となり、これまた明治維新まで存続。ただし、最後の11代目は婿養子(むこようし)。
 結局、織田家の諸藩が織田信雄の血筋になってしまうという展開。しかも、しっかり、明治維新まで存続・・・!

 どうやら、この4基が宇陀松山藩の織田家4代の墓のようです。


 生きていた時は、豊臣秀吉に負けて、天下を取ることができず、小藩の藩主として終わった織田信雄ですが、最終目的が「家名と血筋」の存続とすれば、これほどの強運の持ち主はなかなかいないのでは・・・?
 最も、織田信勝本人が亡くなった後の事ですから、信雄本人の知る所ではありませんが・・・・・・・

 現代では、織田信雄の墓は宇陀松山の林間に静かに眠っています。

 「奈良県の織田家」は、これで終わりです。

 実は年末に訪れた奈良県の城に、もう一城・大和郡山城(やまとこおりやまじょう)があるのですが、話の流れで、次の訪城記は、兵庫県と鳥取県になります。

【その他の見どころ】
 同じ、宇陀松山市には、風景写真では有名な「又兵衛桜(またべえざくら)」という樹齢300年と伝わる桜の古木があります。その枝振りから瀧桜(たきざくら)の異名もついています。
 この「又兵衛」という名前は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の配下の猛将だった後藤基次(ごとうもとつぐ、後藤又兵衛)の名前にちなんだものです。黒田官兵衛は、又兵衛の性格を喜びましたが、子の黒田長政とは折り合いが悪く、黒田家から飛び出してしまいます。
 その後、色々ありまして、大阪の陣では、大阪の豊臣方に参加して「大坂城五人衆」の一人として数えられます。
 そして、夏の陣で奮戦・討死となりますが、生存説も各地にありまして、後藤又兵衛が大宇陀の地で暮らし、再興の時期を待ったと伝わっています。又兵衛桜は、その屋敷跡にあると伝わっています。

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。(無料ブログですから、中間にヤプログのCMが入ります。)
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 「ごまさん」へ、コメントありがとうございました。お言葉に甘えて、訪城記の続きを作らせていただきました。
 もうすぐ、「ごまさん」のお父様の四十九日法要かと思います。
 色々と大変で、お忙しいかと思いますが、お体にお気を付けください。
 「ごまさん」のブログお友達は、ご葬儀に参列されるような素晴らしい方でした。
 何もできませんが、改めて、お父様のご冥福をお祈り申し上げます。

 次回は、名所江戸百景の話に戻ります。


城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺

2014年03月26日 12時25分43秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県(ならけん)・桜井市・芝の芝村藩(しばむらはん)陣屋です。
 下の写真は、芝村陣屋の南門を移築した慶田寺山門です。

 前回からの話の繰り返しになりますが、織田信長(おだのぶなが)の弟にあたる織田有楽斎(うらくさい、長益)は、関ヶ原の戦いで東軍に味方した為、徳川家康(とくがわいえやす)から大和国(現在の奈良県)の一部を加増され、3万石の大名となりましたが、3万石の所領のうち、1万石を有楽斎の隠居料に、残りの1万石ずつをそれぞれ四男の長政(ながまさ)と五男の尚長(なおなが)に分与して相続させました。
 四男・長政の系統が今回の芝村藩、五男・尚長の系統が前回まで話をした柳本藩として幕末まで存続しています。
 柴村藩は、最初は戒重村(現在の桜井市・戒重)に陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれます。
 第7代藩主・織田輔宜(すけよし)の延享2年(西暦1745年、8代将軍・吉宗が9代将軍・家重に将軍を譲った年)に陣屋を芝村(現在の市立織田小学校)に移しました。
 下の写真が、市立織田小学校ですが、随分凝った校門や塀(へい)の造りです!・・・

 年末なので、学校は休みなので気にせず撮影できました。
 陣屋跡は小学校の敷地ですが、下の石垣は、陣屋時代の石垣が現存しています。

 また、陣屋の南門が慶田寺山門として移築されているので、こちらにも寄ってみました。

【慶田寺(けいでんじ)】 住所:奈良県桜井市芝753、曹洞宗(そうとうしゅう、禅宗の一派)の寺
 芝村藩・織田家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌(いはい)を納めてある寺)で、織田有楽斎の分骨塔と、芝村藩の歴代藩主の墓があります。
 本堂です。開創は室町時代の長禄年間(西暦1460年、8代将軍・足利義政の時代)の古いお寺です。

 墓地に「織田公墓所」があるのですが、年末で訪問客が多く、墓参りの人と勘違いして、墓地に入るのを遠慮したので、写真がありません・・・・・・・・・
 下の写真は、境内の鐘楼です。

 本尊は「十一面観音」(平安時代の作)ですが、お寺内なので、境内にあった仏像を代わりに撮影しました。

 有楽斎の系統の織田家の話はこれが最後です。

前回までのブログは、
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 (ブログ上部のバーに直近前後のブログが表示されていますので、そちらをクリックしても、移動できます。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 実は、奈良県の織田家は、まだ続きがあるのですが、
 東京都心で桜の開花が平年より1日早く宣言されましたので、この続きは4月以降にさせてください。

 次回は、名所江戸百景の話に戻ります。スカイツリー(作るのが行き詰っています)か?桜の景か?


城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳

2014年03月25日 12時25分16秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県(ならけん)・天理市(てんりし)・柳本町にある黒塚古墳(くろつかこふん)です。江戸時代には、織田家の柳本藩(やなぎもとはん)の陣屋(じんや、藩庁)のあった所です。
 下の写真は、黒塚古墳の後円墳と周囲の周濠(水濠)です。

 前回の「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」からの続きになりますが、
 話の流れから、前回と今回の間に立ち寄った訪問先は、順番を次回とさせていただきます。

 黒塚古墳に到着して案内板を見ると、見ての通り全長130mの前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)です。

 古墳時代前期(3世紀末頃)前方後円墳で、平成9年の発掘調査で33面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と画文帯神獣鏡1面が出土したことで有名です。

 下は、前の方墳側から後円墳側を見た写真ですが、前方後円墳らしいラインが出ています。

 護岸はコンクリートに覆われて味気ないですが、現代では、カルガモの休憩場となっているようです。
 後方に見える水濠の石垣は陣屋の石垣らしいですが、いつの時代に造られたものなのでしょうか・・・・・??

(1)この柳本の地は興福寺(こうふくじ)の荘園として、荘官の楊本氏が治めていました。
 室町時代の大和国(現在の奈良県)は、南北朝時代や戦国時代以外の時も戦乱が多く、黒塚古墳南側にある柳本小学校付近の伊射奈岐(いざなぎ)神社西北付近が城跡で、柳本城の一部に黒塚古墳を含んでいた可能性もあります。
 後円墳部分の小高さや、周囲を囲む環濠(かんごう)の水濠は、中世の城の形状としては便利です。
 下の写真の手前は前方部ですが、長さが48m程あります。

 中世の頃には古墳の存在自体が忘れ去られていたのか、下の写真のように前方部と後円部の間を分断する掘割が発掘されたそうです。その他にも、城として活用する目的で古墳の形に改修が加えられているようです。

(2)室町時代から戦国時代にかけて、柳本城の城主はたびたび変わり、松永一族の支配下になりますが、安土桃山時代の天正5年に、織田信長に松永久秀(まつながひさひで、松永弾正)が滅ぼされると、一時廃城となります。

 後円墳の上部に登って行きます。前方部が高さ6m、後円部が高さ11mですから高低差があります。

(3)慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦い後は、前回も話しましたように、東軍についた織田有楽斎(おだうらくさい、織田長益)は大和国の一部を加増されて、柳本周辺はの織田有楽斎の所領となります。
 さらに大阪夏の陣があった元和元年(西暦1615年)には、織田有楽斎は所領3万石の内、1万石を隠居領として残し、1万石を四男長政(ながまさ、戒重藩)に、残りの1万石を五男尚長(なおなが、柳本藩)に与え、柳本の周辺は柳本藩領となりました。

 後円墳頂上部の写真です。土中の石棺が崩れた事もあり、盗掘を逃れ、副葬品もそのままで保存されていました。

 後円部は径約72m、高さ約11mあり、古墳自体が台地の端にあるので、見晴らしが良い場所です。
 濠の向こうに奈良盆地の町並みと山並みを遠望できます。

(4)柳本藩の初代藩主・織田尚長は、当初は大泉村(現桜井市)に在住しましたが、3代将軍・家光の寛永年間になると、柳本城の跡地に柳本陣屋を構え、柳本が明治になるまでの藩庁となりました。黒塚古墳も陣屋の一部となり、古墳の周りにある水濠も西側に続けて掘られていったそうです。
 武家屋敷のあった柳本町の旧上街道筋には、昔の雰囲気を残す町並が残っています。
 陣屋の西門もどこかに移築されているそうですが、見つけることができませんでした・・・・・・・・

 下の写真は、古墳の東側の濠です。

 この先の古墳の東側に隣接して、竪穴式石室と副葬品を配列した実物大模型(レプリカ)などを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」があるのですが、年末年始は休館と思い、時間も無かったので行っておりません。
 (写真なしです。)

 最後に、柳本の村民が立てた石碑です。

 「くまドン」には全く詠めませんが・・・、「文政6年(西暦1822年)に黒塚を整地して稲荷神の祠と碑を建てた。藩中の平安と、穀物の豊穣を神に祈り、鎮守の森になるように」と書かれているそうです。

 なお、黒塚古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群の一つで、台地の縁辺部に立地しています。
 「くまドン」見学する時間はありませんでしたが、近くには、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう、第10代天皇)や景行天皇陵(けいこうてんのうりょう、第12代天皇)と、巨大な前方後円墳が並んでおり、古代ロマンの「山の辺の道」コースとなっています。
 奈良県は古代遺跡がゴロゴロしていますので、戦国・江戸時代の遺跡は陰(穴場)に隠れがちです・・・・・・・・・

 長くなりましたので、この続きは次回とさせていただきます。

前回までのブログは、
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 (ブログ上部のバーに直近前後のブログが表示されていますので、そちらをクリックしても、移動できます。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回も、奈良県のお城ブログが続きます。


城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿

2014年03月24日 19時30分11秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県(ならけん)・橿原神宮(かしはらじんぐう)から始まります。
 下の写真は参道から入り口方向を眺めた写真です。

 お城を訪問した時期は、昨年・平成25年の年末です。鳥居の先に見える奈良県東部の山も雪化粧です。
 前回のお城ブログ「城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」からの続きにもなります。

 実は東京に住んでいる「くまドン」、この神社のことは全く知りませんでした。神社ことは全く調べずに行きました。
 (いきなり、ずっこけで奈良県の方には申し訳ないのですが・・・・)
 橿原神宮は、奈良県内では春日大社(かすがたいしゃ)と並んで初詣(はつもうで)の参拝者数が多い神社です。
 参道が突き当った左手には、奈良時代からの溜め池(貯水池・調整池)の深田池があります。

 この池にいるのは「ヒドリガモ」ですが、エサを与える人がいるので、この場所だけ、もの凄い密集度です。
 観察できる野鳥の数は、奈良県でも多い方に当たる場所です。すでに3月末で、カモも北への渡りの季節ですね。

 下の写真は南神門です。素木(しらき、着色しない木)建の八脚門で、屋根は切妻造(きりづまづくり)の桧皮葺(ひわだぶき、檜(ひのき)の樹皮を敷いた屋根)です。門の奥に外拝殿(げはいでん)が見えています。奈良時代か宮殿のような門です。外拝殿の屋根は、入母屋造(いりもやづくり)です。切妻造が前後2方向に傾斜を持つ屋根に対して、入母屋造の上部は切妻造(前後2方向)ですが、途中の下部から四方向に傾斜の屋根を持つ屋根です。
 門に隠れて見えませんが、後方には、天香久山(あまのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)とともに大和三山と呼ばれる畝傍山(うねびやま、標高199m)があります。
 「香久山は畝傍ををしと耳梨と相あらそひき 神代より斯くなるらし 古もしかなれこそ うつそみも妻を争ふらしき」
 (中大兄皇子)と古くは万葉集で歌われた山です。

 南神門の横に紀元二千六百七十?年の文字が見えます。
 (紀元は日本神話に出てくる初代天皇・神武天皇(じんむてんのう)の即位した年からの年数です。)
 さぞかし由緒ある古い神社なんだろうと思ったら、明治23年の近代になってからの創建でした・・・・・・・・(汗)
 この神社は、神武天皇を祀る神社ですが、明治になってから、国が神武天皇の宮(畝傍橿原宮、うねびのかしはらのみや)があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を建てた神社です。

 「くまドン」は、何の神社かすら知らない状態で、せっかく来たのだからと、参拝に向かいます。
 外拝殿の入り口には、平成26年の干支(えと)である馬の絵が置かれていました。


 年末ですから、内拝殿(ないはいでん)は初詣の準備中で、当日は外拝殿までしか入れませんでした。

 内拝殿の柱の奥に幣殿(へいでん)がわずかに見えますが、さらに奥に本殿があります。元京都御所の賢所(かしこどころ、三種の神器のひとつ八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所)を移築したものだそうです。
 本殿の祭神は、神武天皇とその皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)です。

 参拝後の境内の風景です。奥に見えるのが南神門です。

 境内には、奉納されたお酒も並んでいます。

 橿原神宮では、4月3日を神武天皇崩御の日として、「春の神武祭」が盛大に行われます。
 平成26年の「春の神武祭」は4/1(火)~4/6(日)の予定です。ライトアップや古代衣装行列の日もあります。
 (予定は変更になる場合もありますので、インターネットなどで各自お調べください。)

 さて、参拝も終わったので、目的の場所を探します。橿原神宮の文華殿(ぶんかでん、重要文化財)です。

 昭和42年に、織田家・柳本藩1万石の藩邸の表向御殿を移築して復元したものです。
 江戸時代末期の11代・家慶(いえよし)の天保15年に建立された屋形の一部分で、大書院と玄関の二棟からなります。神社で結婚式の会場として使用されますが、通常は塀の外から眺めるだけです。
 文華殿の中にある大書院は、表座敷で殿様が家臣たちと対面した場所で、格式高い造りらしいです。
 特に中段・下段の間の極彩色鮮やかな彫刻の欄間(らんま)に江戸時代の様式が遺されています。

 江戸時代の奈良県には、織田信長(おだのぶなが)の織田家の藩がいくつかありました。
 柳本藩(やなぎもとはん)は、織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎(おだうらくさい、織田長益)系統の藩の一つです。
 藩庁に城は無く陣屋(じんや)でしたが、織田信長の家系ということで、城主格大名(屋敷が陣屋で城主に準ずる待遇を受ける大名)として扱われています。(通常の陣屋大名は無城大名となります)

 良く見ると、門や屋根の頂上部の瓦に、織田家の家紋(かもん)らしきものが見えたりします。

 織田有楽斎は、関ヶ原の戦いで東軍に属した為、戦功により、大和国(現在の奈良県)と河内国(現在の大阪府の一部)の土地を合わせて、3万石の所領に加増されます。
 織田有楽斎は藩領3万石のうち、1万石を自分の隠居料とし、残りの1万石を四男の長政に、同じく1万石を五男の尚長にそれぞれ分与しました。このため、長政の系統は大和国・芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として幕末まで存続することとなります。(石高1万石以上は藩主です)

 その他に、織田長益の系統としては、長男・織田長孝(おだながたか)が東軍に属し戦功を挙げたため、こちらも美濃国(現在の岐阜県)・大野村500石から1万石の加増となった結果、野村藩(のむらはん)がありましたが、江戸初期に跡継ぎが無く、廃藩となりました。

 文華殿敷地内の庭は、「いわれ庭」と呼ばれる日本庭園です。

 前回の高取城の近くにも、飛鳥時代の遺跡や古墳がありましたが、この付近も神武天皇の伝説が残るように、
 周辺には神武天皇陵など古代遺跡が多くあります。時間的に城周りがやっとで、見ている時間ありませんでした。
 次の目的地に車で移動中に日本最初の都城である藤原京(ふじわらきょう)跡の横の道路を通過しました。
 門の柱跡に木が目印においてあったり、門の脇に土塁のような土盛りを車の窓から眺めるのがやっとでした。
 (運転中だったので、写真はありません。)

 長くなりましたので、この続きは次回とさせていただきます。

前回までのブログは、
 「城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 仕事もあったのですが、名所江戸百景のスカイツリーの景のブログが作れないので、
 奈良県のお城ブログを先行させました。桜が咲き始めそうになるまでですが、続き作成中です。

 次回も、高取城の話の続きです。