こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県丹波市の柏原藩(たんばかいばらはん)の続きです。前回話しましたように、信包系・織田家が途絶えてからは、幕府領となっていましたが、5代将軍・綱吉(つなよし)の時代に、大和(現在の奈良県)の宇陀松山藩(うだまつやまはん)の宇陀崩れ(うだくずれ)と呼ばれるお家騒動により、改易寸前となります。しかし、織田信休(おだのぶやす)が織田家の子孫ということで、丹波柏原藩に減移封(2万9000石→2万石)となります。ここにおいて、丹波柏原藩が信雄系・織田家として、再立藩される事になります。
前々回の放城記「奈良県の織田家」の続きにもなります。
柏原藩は2万石で、城ではなく、陣屋(じんや)となります。それでも、江戸時代の陣屋が、そのまま残っている所は少なく、貴重なものです。

藩財政の窮乏と不作の為、柏原陣屋(織田家の居館)は、20年後の正徳4年(7代将軍・家継(いえつぐ)の時代)に完成します。
【柏原陣屋】
下の写真は、柏原陣屋(左手前は長屋門、右奥が御殿)で、丹波市立柏原歴史民俗資料館の正面にあります。

長屋門は表門で、正徳4年(西暦1714年)の居館創建の頃から残る唯一の建物です。内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫となります。

御殿は、11代将軍・家斉(いえなり)の文政年間に焼失した2年後(’西暦1818年)に再建された建物ですが、
明治以降に解体されて、建物の1/5面積分が現存しています。

陣屋の所にあった説明板の一部ですが、現存しているのは、建物の右側の一部です。

建物正面の玄関にある唐破風も見事です。

下の写真は玄関を入った所です。

上段の間です。

右の部屋が、書紀の間です。

陣屋から、大手通りを歩いて行くと、

右手に健勲神社があります。
【健勲神社】
信雄系・織田家の初代藩主・信休が柏原藩を再興した元禄8年(5代将軍・綱吉の時代)に、藩邸内に祠(ほこら)を建て、信長を祀ったのが始まりです。

明治になってから、「健勲神社」に改名となり、明治13年に現在の場所に移転して、一般の人にも参拝可能になったとこのことです。
昭和9年に火災で焼失後、そのままとなり、平成18年に再建されました。
最初に、この神社を見た時、余りに新しいので、???となっていました。
長くなりましたので、この続きは、次回とさせていただきます。
前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」
今回は、これで終了とさせていただきます。
くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
次回は、兵庫県の織田家の続きです。
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今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県丹波市の柏原藩(たんばかいばらはん)の続きです。前回話しましたように、信包系・織田家が途絶えてからは、幕府領となっていましたが、5代将軍・綱吉(つなよし)の時代に、大和(現在の奈良県)の宇陀松山藩(うだまつやまはん)の宇陀崩れ(うだくずれ)と呼ばれるお家騒動により、改易寸前となります。しかし、織田信休(おだのぶやす)が織田家の子孫ということで、丹波柏原藩に減移封(2万9000石→2万石)となります。ここにおいて、丹波柏原藩が信雄系・織田家として、再立藩される事になります。
前々回の放城記「奈良県の織田家」の続きにもなります。
柏原藩は2万石で、城ではなく、陣屋(じんや)となります。それでも、江戸時代の陣屋が、そのまま残っている所は少なく、貴重なものです。

藩財政の窮乏と不作の為、柏原陣屋(織田家の居館)は、20年後の正徳4年(7代将軍・家継(いえつぐ)の時代)に完成します。
【柏原陣屋】
下の写真は、柏原陣屋(左手前は長屋門、右奥が御殿)で、丹波市立柏原歴史民俗資料館の正面にあります。

長屋門は表門で、正徳4年(西暦1714年)の居館創建の頃から残る唯一の建物です。内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫となります。

御殿は、11代将軍・家斉(いえなり)の文政年間に焼失した2年後(’西暦1818年)に再建された建物ですが、
明治以降に解体されて、建物の1/5面積分が現存しています。

陣屋の所にあった説明板の一部ですが、現存しているのは、建物の右側の一部です。

建物正面の玄関にある唐破風も見事です。

下の写真は玄関を入った所です。

上段の間です。

右の部屋が、書紀の間です。

陣屋から、大手通りを歩いて行くと、

右手に健勲神社があります。
【健勲神社】
信雄系・織田家の初代藩主・信休が柏原藩を再興した元禄8年(5代将軍・綱吉の時代)に、藩邸内に祠(ほこら)を建て、信長を祀ったのが始まりです。

明治になってから、「健勲神社」に改名となり、明治13年に現在の場所に移転して、一般の人にも参拝可能になったとこのことです。
昭和9年に火災で焼失後、そのままとなり、平成18年に再建されました。
最初に、この神社を見た時、余りに新しいので、???となっていました。
長くなりましたので、この続きは、次回とさせていただきます。
前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」
今回は、これで終了とさせていただきます。
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