鈴木宗男ランド ブログ by宗援会

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宗男日記から

2007年10月30日 | Weblog
ムネオ日記
2007年10月29日(月)
 昨日、藤波孝生先生が亡くなったとの知らせを聞く。74歳、人生80年の今日(こんにち)、年齢的に早すぎる旅立ちである。
 昭和61年、金丸幹事長のもとで「死んだふり解散」を中曽根首相は行ったが、この衆・参同日選挙で自民党は圧勝した。このことにより中曽根首相は、2期4年の自民党総裁任期を特別に1年延長し、5年の間やることになる。当時のキングメーカー金丸先生の判断だった。
 その金丸先生は、中曽根先生のあとは竹下登先生を考え、特別に1年延長したものである。昭和62年の俗に言う中曽根裁定で竹下先生を指名したゆえんだ。
 金丸先生は、竹下先生に2期4年やらせるつもりだった。そしてその後は藤波孝生先生を考えていた。私が2回目の当選をした時、金丸幹事長は「鈴木君、俺の目の黒いうちは金丸が君の面倒はみる。しかし、いつまでの金丸の時代じゃない。藤波孝生は間違いなく将来があるから、藤波のグループ(新生クラブ)にも入っておけ」と言われ、藤波先生の政策集団に入らせてもらったいきさつがある。一般的に、竹下先生のあとは安倍晋太郎先生と言われていたが、私の知る限りにおいては、金丸先生は竹下先生4年の後は、藤波先生を考えていたのである。
 竹下先生がリクルート問題はじめその他の事件に名前が出て、青木伊平秘書が亡くなる悲しい出来事もあり、また、消費税議論も重なり、予算成立を引き替えに竹下内閣は退陣する。前後して藤波先生もリクルート事件に巻き込まれる。まさかのまさかと言うべき、藤波先生の在宅起訴であった。
 政治の世界にあの時こうしてい“たら”、こうしてい“れば”の「タラ」「レバ」はないのだが、リクルート事件がなければ間違いなく藤波先生は天下人になっていたであろう。羽田孜先生や森喜朗先生も名を連ねていた「新生クラブ」の代表であった藤波先生の、何とも言えぬ人間味、懐の深さが、今とても懐かしく思われる。
 政界、まさに一寸先は「闇」と言える。かくいう私もまさかの「さか」に遭ってしまった。心から藤波先生のご冥福をお祈りしたい。
 政治の世界、一人消えれば二人、三人と台頭してくる。時に人の不幸につけ込んでくる者もいる。永田町に身を置いて38年、色んな出来事を見てきたが、足の引っ張り合い、だまし、狙い撃ち、ねたみ、ひがみ、やっかみ、色んな思惑が政治をつくっていく。そんな中で藤波先生は、自然体で泰然自若(たいぜんじじゃく)としており、特別な存在であったと思える。藤波先生のご冥福を心からお祈りしたい。
 守屋前防衛事務次官の証人喚問が行われた。検察当局、関係者は、目を皿にして興味深く今日の喚問を眺めていたことだろう。自分たちのシナリオ・ストーリーに沿ってこれから追及の陣立てを考えるのだろう。私もまた注意深く見守っていこう。どのような国策捜査が行われていくのか。
 昨夜は鹿児島から札幌ドームに駆け付けて、日本シリーズの日本ハム応援にまわったが、残念ながら中日に完敗だった。明後日から名古屋での試合になるが、是非とも勝ち越して札幌に戻って勝負をつけて欲しい。これが多くの北海道民の願いである。
 午後の便で東京に戻り、議員会館に入って打ち合わせ等。16時の新幹線で静岡に向かい、内外情勢調査会静岡支部で講演。
 10月の講演も今日で5ヶ所目。毎月何カ所かの講演が入ってくるが、有難い限りである。弱肉強食、新自由主義、勝ち組・負け組と格差の拡がる中で、敗者復活できた、カムバックできた側の一人として、私なりの発信をして参りたい。
 「人生あきらめるな」「人生生きていればいいことがある」「信念を持って正直に生きろ」と言い続けて行きたい。

本日提出した質問主意書2件

№86 拉致問題を巡る官房長官と外務大臣の対立に関する質問主意書

№87 米大統領の日本観に対する政府の対応に関する質問主意書
※ 質問主意書の内容は下記の衆議院HPでご覧頂けます。
衆議院ホームページ

鈴 木 宗 男
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新党 大地 
鈴木宗男 オフィシャルページ 
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