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寺院下0060  平等寺・因幡薬師  真言宗智山派  画像追加

2017年07月05日 05時16分52秒 | 寺院

平成28年5月8日の記事

いな  やくし  因幡薬師  ガン封じ 

検索 ➡  十二支薬師霊場  

 

弘化5年(1848)2月  明治25年(1892)9月 再建

 

東側の参道入口

燈籠の一番上の宝珠が凝った造りです

 

安政4年(1857)8月   明治25年(1892)9月再建

 

赤い幟が目立っています

 

新建物  平等寺

 

見上げるように高い建物

 

南側から 本堂を望む  現在 改装中(平成28年3月26日)

平成28年12月4日 ここから画像3枚追加

屋根修理が終わりました

扁額  三絛実美 書

 

 

 

文化12年(1815)7月建立   200年前です

 

 

平等寺(因幡薬師)

長徳3年(997)、因幡(現在の鳥取県)国司・橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、歴代の天皇でその厄年にあたる年には、勅使が代参して祈祷をしたと伝わる。室町時代には七仏薬師の1つに数えられ、一条革堂や六角堂とともに町堂として重んじられた。承安元年(1171)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。なお、この寺の起こりは「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災ににもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木造り等身大の優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の1つに数えられ、ことのほか信仰されている。如意輪観音坐像釈迦立像(重文・鎌倉時代)は、現在京都国立博物館で保存されている。また因幡堂は狂言に「因幡堂」や「鬼瓦」として登場する。西鶴の浮世草子や江戸時代の随筆にも出てくる。

京都市

鎌倉時代には「一遍上人」も布教の起点として住まわれたこともあり、また室町時代には経済の自治意識に目覚めた「町衆」の「町堂」(町衆の自治集会の場)となりました。

薬師如来像  かな

如意輪観音像

この如意輪観音像は庶民の信仰をあつめた仏らしく、現実味のある平易な表情をしている。

衆生を救う六観音の一体として、庶民の信仰をあつめていたといわれている。

 

参道を 左に進むと  観音堂  洛陽三十三所観音 の 第二十七番霊場

ここは 11面観音とあります

 

このお堂の中に 安置されているのか

 

歓喜天   

  

和  なんとか  地蔵尊   なんとかの漢字が読めない

 

十九社権現

向かって右に

神木をさわっていただいて 元気をいただいて下さい  願は気に通ず   阿樹 女

向かって左に

吽樹 男

 

十九所権現(十九社明神)

 当寺は後白河院の信仰篤く、度々御幸されたある時の当寺の鎮守はいかなる神かとたずねられました。住職が因幡の国一宮、武内宿禰と答えると、生身の如来衛護の神には、武内朝臣のみでは力不足と仰せられ、十八所の神々を院宣にて勧請されました。後白河院還幸の後、或る人の夢枕に西宮夷の御嫡子、一童御前が立たれ、我もここの擁護の神に入ると仰せられました。住職が後白河院の奉聞したところ許可されたので、十九所となりましたが、最初の院宣により十八所と呼ばれていました。十八所(十九所)とは次の通りです。古くは三間の鎮守、五間の拝殿と記録されています。

 

1 天照大神 2 八幡 3 春日 4 賀茂 5 祇園  6 愛宕権現 7 松尾 8 熊野  9 北野  10  山王  11 住吉  12 摩利支天  13 妙音  14 辨天 15 白鬚  16 多賀  17 平野  18  御室  19  蛭子(一童御前)

 

※ 一九は いく に通ず (心願成就

 

閻魔天(焔魔天)

人々の生前中の行為を見て賞罰を与える密教では除病・息災・延寿を祈ります。ご本尊薬師如来様とともに、健康と長寿を司られます。正面で膝を屈め、下から拝まれますとご利益をいただけます。

ご真言  おんえんまやそわか

 

風格がでているなぁ

平成28年12月4日 画像1枚追加

 

平成28年12月4日 画像1枚追加

 

⇒ まち歩き右1057 広沢の池 石仏


 

因幡堂 とかかれた 屋根瓦 現在寺は 修復中

 

 

開花したばかり   平成28年3月26日 撮影

 

本堂前

京都十二薬師 第一番霊場

京都十三仏薬師如来霊場 第七番

 

参道を右に進むと

本堂大屋根の巴蓋として明治19年よりお堂をまもっていてくれた「贔屓」

ひき「贔屓」とは龍が生んだ九頭の神獣・龍生九子の一頭、亀に似た姿で、重きを負うことを好むといわれ、柱の土台の装飾に用いられることが多い。「贔」は財貨を屋内に入れることを表し、多くの財貨を抱えることを表しています。「多くの財貨を抱かえる」ことから「大きな荷物を背負う」「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味を持つようになりました。「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。

 

 

 

 

南からの参道では

 

嘉永元年(1850)3月 建立  

 

彫の深さは 京都でも 一級品だ

 

10cmはありそうだ

 

寺の周囲  東側

 

東から 西を見る 

屋根の左に 本堂がある

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五七五

風誘う すっかり失せた 肩の凝り /中井

ことわざ

早かろう悪かろう

 



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