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人物016 佐久間象山

2018年04月26日 17時45分21秒 | 人物数々

 

 1 北野天満宮の道標    

 2 妙心寺北門の道標

 3 妙心寺内の道標  

 4  遭難地  

 5   道標中0168  佐久間象山・大山益次郎 遭難之碑 

   6   人物045  新島 八重

 

幕末の勤皇家で海防論者。信州松代の藩士、佐久間一学の長男で、名は啓之助。28歳にして修理と通称したか「しょうざん」「ぞうざん」そのよび方が2説に分かれている。

佐藤一斎に蘭学を学び、高島秋帆からその技を習得した。嘉永6年(1853)、浦賀に黒船入港の際、海防の急務を主張し、軍議によってその役を免ぜられたが、逆に多くの心酔者も輩出した。吉田松陰もその心酔者の1人で、折から長崎に来航していたロシアの船に乗り、外国事情の吸収に脱出を試みんと企てたが発覚、その密航事件に師としての立場から引責幽閉されたのが安政元年(1854)のことであった。

元治元年(1864)2月、徳川14代将軍家茂の入洛とともに、各藩の京屋敷は藩士の数をぞくぞく増やし、屋敷で収容できない者は、陣屋を設けて集められ、無気味な緊張感がただよっていた。勤王、佐幕、新選組、天誅組などが入れ乱れ、にらみあっている。そんな京都へ奇妙な男が現れた。テテッポウ(長野地方でフクロウのこと)と呼ばれたその顔は、色白で目と鼻が異様に大きく、ロングヘアーの大男。松代藩士 佐久間象山である。象山が将軍の招きで入洛してきたのは3月の末。洋風の鞍をつけた馬にまたがり、京を行くさまは、しばしば外国人と間違えられたという。

象山は儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術(技術)とし、この2つを融合させ、早くから開国と公武合体論を説いていた。

彼はこの理論をつらぬくことが、やがて日本が世界に号令を発する近道だと主張。この構想は勝海舟坂本龍馬吉田松陰らに影響した。また、象山は吉田松陰の密航をそそのかした罪で投獄された。(安政元年 1854)が、このとき獄中で考えた「省けん録」は幕府の無能をそしり、儒学の無識を嘆いた時世論で、このため多くの敵をつくっていた。

入洛後の象山は、4月3日付で幕府の辞令を受けている。「海陸御備向掛手附」というややこしい役だが実際は公武合体の政変(前半)後の朝幕間パイプ役、幕府からの条件は20人扶持に15両の手当。これでは尊攘党の巣くつ京都で安心して役目を果たせない。天下の英傑を自任の象山のプライドは傷つけられた。が、いまはわが身の利害にこだわるときではない。また、自分を京都へ招いてくれた長州や土州藩士の顔が立たない。象山はこの役目を引き受けた。

4月14日、象山は浪士がうろうろする「越前屋」(中京区六角通り東洞院西入ル)から丸太町の鴨川西岸に転居した。これは梁川紅蘭のすすめであったが、部屋が狭く、5月中旬には中京区木屋町三条上ルへ転居した。ここは部屋数も多く、東山や大文字、三条大橋が一望できる。また、親しい長州藩や彦根藩の京屋敷がすぐ近くにあるところ。象山は大いに気に入り、風流にも「煙雨楼」と名付けた。この間、一橋慶喜や将軍家茂らとあって彼一流の時世論、天下治平の策を述べた。そして6月5日に「煙雨楼」から目と鼻のところで溏田屋事件が起きると、天皇の御身を案じ、京は物騒だからと彦根遷都をすすめる・・象山の誠実さの一面であった。7月11日、朝食をすませた象山は、塚田五左衛門坂口義次郎、馬丁半平、ぞうり取りの音吉の4人をガードに山階宮邸を訪問した。あいにく宮が不在のため、執事の国分番長と面会した。ここで大切な世界地図を持たせて塚田五左衛門を先に帰らせ、残る3人と松代藩の宿陣本覚寺(下京区五条寺町上ル)へ。しかし、ここでも目当ての門人蟻川賢之助三沢刑部丞の両人が外出中。ついてなかった。象山は本覚寺から「煙雨楼」へ帰るとき、前日から風邪気味の坂口義次郎に音吉をつきそわせ、ゆっくりして還るように言い残した。これも象山の思いやりだった。この後、口取りの半平と家路につき、午後5時ごろ木屋町三条へさしかかった。「煙雨楼」まであと数十メートルほどのところで突然2人の刺客が襲い掛かった。足を切られた象山は馬を走らせた。馬は「煙雨楼」を通り越し、木屋町通を一気に御池へ。ここで待ち伏せしていた別の刺客7、8人に捕えられ、全身に13ケ所の刀傷を受けて死亡した。象山52歳。その日の夕方、三条大橋には「会津・彦根の2藩に組みした国賊につき、天誅を加えた・・・」とかかれていたという。後にこの事件を知った山階宮は次の様な歌を詠んで象山を偲んだ。

浅間山煙りと消えしその人の

名こそ雲井に立ちのこりけり

いま事件現場の木屋町御池上ルに「象山先生遭難之碑」が建つ。故新村出博士を会長とする顕彰会がこの地で長く続けられた。遭難の翌々13日に遺骸は妙心寺大法院に葬られた。墓は松代藩にゆかりの深い妙心寺大法院にある。埋葬の翌7月14日、佐久間家断絶の命が降った。象山が生前心配していた通り、この事件の8日後に蛤御門の変が現実となり、「京のどんどん焼け」の大惨事となった。この時の被害状況は焼失家屋、民家27000余り、土蔵1207、寺社253といわれる。

 



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