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身内をすべて失った女性 大田垣蓮月 美人で陶器・「蓮月焼」が人気になった

2015年10月07日 20時06分49秒 | 京で燃える女性たち

ここにこの歌碑があるのかはわからないのですが

大田垣蓮月という人は

大田垣蓮月

誠子は寛政3年(1791)の正月、鴨川の西、東三本木にいた某女と伊賀上野の城主藤堂金七郎

との間に生まれたといわれ、洛東知恩院の寺侍大田垣伴衛門光古(みつひさ)の養女になった。

大田垣家では4児を失い、仙之助という男の子だけというさびしい家庭で、

ぜひ女の子がほしいと思っていたときだったからであろう。

だが、義兄の仙之助は、元服して間もなく病死、嘆きの義母もまた仙之助を追ってこの世を去り、

誠子は義父光古と二人きりになった。光古47歳、誠子13歳のときである。

18歳の春、誠子は養子を迎えた。この男無類の遊び好きで誠子を顧みない。

そのうえ、愛児が生後20日で亡くなり、義父のすすめで離婚してしまう。

それから5年目文政2年(1819)29歳で彦根藩家中の石川重二郎と再婚した。

平和な生活が続いたが、33歳の時、夫が病死した。誠子はここでも二児を失っている。

 

文政6年(1823)義父と誠子は知恩院で頭をまるめ親子とともに仏門に入る。

その後、42歳の時、知恩院の真葛庵で義父と死別した。そして出会ったのが粟田焼である。

40歳をこえていた。

1つ1つの作品に自作の歌を彫り付けた独自な作品は「蓮月焼」の名でもてはやされた

美人の尼で、歌詠み・・蓮月の人気は洛中洛外に高まり、訪問者がひきも切らず

蓮月は人嫌いな蓮月になった。住居は、岡崎、大仏、北白川、岡崎、聖護院と転々とした。

蓮月は70歳をすんでからも、美人だといわれていた。

1つは彼女が勤王の志士に多くの交友をもっていたため、幕吏の目をくらます策だったともいわれる。

 

慶応2年76歳に神光院のお茶所に移り住み、ここの清閑さを楽しんだ。

明治8年12月10日静かに世を去った。85歳だった

墓は神光院にある。墓銘は蓮月尼に育てられた富岡鉄斎が書いている。

岡崎在住以来、蓮月に養われ、

埴細工の土運び等をしながら学問をしていた少年がのちの富岡鉄斎である。

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