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石碑右0094  千石公園の石碑  千石船 スエーデン皇太子見学

2015年05月21日 07時18分23秒 | 石碑

スウェーデン皇太子 訪問 記念碑 

 [瑞典]皇太子同妃殿下御台覧記念碑

 

「瑞典」はスウェーデンの音訳表記。大正15年9月2日にスウェーデン王国皇太子グスターヴ・アードルフ(Gustaf Adolf 1882~1972)夫妻が来日した。9月24日から27日にかけて京都に滞在し,考古学者であった皇太子は,京都帝国大学教授浜田耕作のすすめで26日に天塚古墳(右京区太秦松本町)を見学した。本碑の碑文によれば天塚古墳見学の途次皇太子夫妻は篠田幸二郎の別荘千石荘で千石船を一見したという。この碑はスウェーデン皇太子夫妻の来臨を記念するものである。

 

    太秦千石船  

     国賓殿下には池田京都府知事閣下の御案内の下当園御幸遊ばされいと御熱心に長栄丸を御台覧の事右船の由来及移船の理由等御下問あらせられしを以て具に奉答申上しに至極御満足の態を拝せり尚御帰途両殿下には御揃ひにて丘陵の頂に登らせられ御手つから千石船を「カメラ」に収め給ひ不肖一々有難き御諚を賜り重ねて御鄭重なる御使節をも賜りたり

大正十五年九月廿六日               篠田

   花園田中石材店

 

千石船に関する碑文

  長栄丸は若狭国と北海道との間を定期運航していた千石船であったが,転売されて大正14年に地元の実業家篠田幸二郎の邸内の庭園に移された。昭和14年に庭園と千石船は京都市に寄附され,庭園は児童公園となり,千石船は一般に公開された。なお,戦後になって千石船は老朽化し撤去された。この碑はかつてこの地に置かれていた千石船長栄丸のいわれを記すものである

  長栄丸移据の由来

 此船は長栄丸と称して籍を若州遠敷郡に有し表高八百七十五石実際は千石則ち四万貫目を積載し日本海の怒濤を蹴つて遠く北海道に定期航海をなし其都度万円以上の収益を上げたる功労抜群の船な抑我徳川幕府の治世には千石積以上の造船を厳禁したれば物資供給交通利便の権威者としては千石船を以て最となしたり明治の中興に至り和船航海の不利に鑒み三百石以上の和船建造を禁ぜられたれば大和大型の船は自然廃滅に委するの姿となり当時彼尨大を以て誇りし千石船も近き将来に於ては全く其影を没するに至るべし想ふに我京都の如き四方皆山の地にありては船舶を見ることすら罕なるをまして千石船の如き其実際を知ること最も難し余適々長栄丸を見其雅趣の津々なるを愛す而して其船主の他に移らんとするを聞き若し此船を陸に上げ其命を保たしめば一は船の偉績を存し一は市人の参考に資するを得 んと終に進んでこれを求め此地に移据することゝはなりぬ乞ふ曳*の士よ余が徴衷を酌み船を山に登せし愚挙をして徒為たらざらしめ賜はんことを

 大正丙寅仲            清水庵の主人誌す

 

千石船の写真

千石船由来

 

本公園には、大正末期から昭和にかけて千石船がありました。千石船とは、米を千石(約150トン)積載出来る大きさの船ということです。昭和25年の台風で壊れ、撤去されてその姿がなくなってしまいましたが、現在も千石荘公園と称される由来となっています。その船は、長栄丸と呼ばれ、現在の福井県沿岸から日本海の怒涛を経て遠く北海道まで定期的に航海していたことを記す碑文が現在も公園内に残っています。

 

また、この碑文には、京都のような四方を山々に囲まれた地において、当時、船舶を見ることすら稀であったこと、まして千石船の実物を見ることなどとても困難であったことが記されています。写真は、昭和16年9月に、地元婦人会による千石船見学会が催された様子です。

その昔、大海原を航海した千石船が、この右京の太秦の地にあったとは興味深い話です。

 

 

 

                                  明治天皇 歌碑

明治天皇御製を記した碑で,長栄丸移据の由来と同時に建立された。おそらく千石船に縁のある歌として刻まれたものと思われる。 

  明治天皇御製  

       港江に万代よはふ声すなり  

             功を積みし船や入来る 

                   伯爵東郷平八郎(花押)  

                                        謹書 

                                   施主      篠田  

 大正丙寅仲春建之       世話人   浜側    船大工   増田 

                 植木師   山本     石工      田中

 

石碑 前回の記事 ➡  石碑上0093 禁裏道場蹟 紀元2600年記念

 

川柳

定年だ 今日から黒を 黒と言う      /萩原

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