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まち歩き中0797 三条大橋

2018年05月11日 06時00分05秒 | まち歩き

 

高札場 とは幕府が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板に書き、人目を引くように高く掲げる場です。絵図は、文化2年に三条大橋西詰の御高札場(現近江屋ビル前広場)に掲げられていた高札です。当中島町には天保12年にこの高札の文面の写しが残っています。それを見ますと、大半が正徳元年(1711)に定めたことが多く、親兄弟と仲良くし、家業に専念せよと書かれた「親兄弟の札」や、人足(に役などの力仕事をする労働者)に担がす荷物の重さや料金が書かれた「駄賃の札」などがあります。他にはキリシタンの不審者を発見すれば銀500枚の褒美が出るとした「切支丹の札」、毒薬、偽薬の売買を禁じた「毒薬の札」、放火を見つけたらすぐに届けよと書かれた「火を付る者の札」もあります。文化2年の「唐物抜荷之儀の札」は、密輸品が見つかれば差し押さえ、役人が立会いの元、封印すると書かれています。

旧三条大橋の石柱

天正17年津國御影 7月 吉日

高欄に付けられた擬宝珠には、三条大橋は、豊臣秀吉に名により増田長盛が奉行となって、天正18年(1590)正月に日本で初めての石柱橋として架けられたと書かれています。この石柱はその時の橋脚に使われたものと考えられ、「天正17年津國御影 7月吉日」と刻みこまれていることから、現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。なお、現在の三条大橋の下流側の橋脚にも当時の石柱が使われています。

 

洛陽三條  之橋至後

代化度住  還人盤石

之礎入地  五尋切石

之柱六十  三本蓋於

日城石柱  橋濫觸乎

天正十八年庚寅 正月日

豊臣初之  御代奉

増田右衛門尉

長盛造之

橋の創設についてははっきりわからないが、室町時代にはすでに架橋されていたとみられる。豊臣秀吉が天正18年(1590)、奉行増田長盛をして造らせた。この時の橋の長さは101m、幅は約7m、欄干の擬宝珠は紫銅を以てつくられた。

その後、元禄・明治・大正の改造を経て、昭和25年(1950)7月今の姿に改めた。

昔はここが東海道53次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であったから、橋の東西には旅館や料亭などが軒をならべて隆盛だった。弥次郎兵衛と喜多八が三条橋畔に宿をとり、畑の姨に梯子をかわされたのもここであり、明治維新の先覚者高山彦九郎が、明和2年(1765)3月、関西遊説の途次、京都に立ち寄り、三条橋上にひれ伏して皇居を遥拝したのもここで、これに因んで橋の東南隅には彦九郎像がある。

橋の西南隅にあった道路元標はいつの頃にか烏丸三条東南隅に移された。

北1擬宝珠

北2擬宝珠

 

北3擬宝珠

北4擬宝珠

北5擬宝珠

北6擬宝珠

 

南6擬宝珠

南5擬宝珠

南4擬宝珠

南3擬宝珠

池田屋騒動のときの刀傷

南2擬宝珠

南1擬宝珠

 

 

右奥の 下流側の短めの支柱は コンクリートでなく石です。橋の右が下流 

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道標中0010 京都市道路元標 

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