
北谷 太西坊(大西坊) 跡
神と仏を合せ祀っていた石清水八幡宮には、江戸時代までたくさんの坊(小さな寺院)があり、「男山四十八坊」と呼ばれていました。男山展望台とその周辺にも、僧侶の住む坊が立ち並んでおり、その西奥にあったのが「忠臣蔵」とのゆかりで知られる「大西坊」です。
太西坊の住職、専貞は赤穂藩家老・大石内蔵助の実弟で、専貞の跡を継いだ覚運は内蔵助の養子でした。元禄14年(1701)、江戸城で内蔵助の主君・浅野内匠頭が、吉良上野介の侮辱に絶えかね刃傷におよんだ「松の廊下事件」。その7日後、内蔵助は大西坊に手紙を書き「赤穂城を明け渡したのち、14~15人で仮住まいできるところを上方で探してほしい」と依頼しています。討ち入り後には、覚運が仇討を手伝ったことが評判となり、たくさんの寄付が集まり、坊を再興したと伝えられ、現地には立派な礎石が残されています。
この覚運の墓が、近年、八幡市の善法律寺で発見されました。善法律寺は「もみじ寺」とも呼ばれ、秋には紅葉が美しい境内の一画に覚運は眠っています。
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