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寺院伏0245  嘉祥寺 天台宗  深草聖天

2016年12月12日 06時25分55秒 | 寺院

歓喜天

大正丙寅歳秋(?1927)

 

三ケ所 随一  歓喜天

慶応三年卯年・・・・

 

霞谷と号する

 

嘉祥4年(851)2月、文徳天皇は先帝、仁明天皇の菩提を弔うために、その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺とし、年号をとって嘉祥寺とした。開山は真雅。元慶2年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、寺域も広大な大寺であったが、平安時代の後期には衰微して仁和寺別院となり、更に室町時代の応仁、文明の大乱により焼亡した。しかし、寛文年間(1661~1673)に、かつて深草12帝陵の管理に当たっていた安楽行院を空心律師が再興し、その際、同院境内に聖天尊を祀って嘉祥寺も再興され、更に元禄12年(1699)、勅許を得て本堂が上棟された。ただし、再興された嘉祥寺は位置も旧寺域とは離れているため、その名を継ぐだけとなっている。なお、堂内には11面観音や不動明王像が安置されている。

俗に深草聖天と呼ばれ、開運招福祈願の信仰がある。京都市

 

伏見 深草聖天縁起

 

寛文2年大僧都空心が嘉祥寺と安楽行院の復興をはかり、御西(後西)帝の勅許を得 元禄11年11月29日現在の歓喜天堂が建立された。この天堂に祭祀の歓喜天は室町時代、福運の聖天と呼ばれ又江戸時代になっても多くの人がその加護をうけ、なかでも大聖寺の前田義園や一代で巨財を築いた大阪商人田中屋吉兵衛山田屋儀ェ門淀川利兵衛や天保の頃の伊原傳兵衛等その御かげを戴いたひとは数多くその御神力の程は日本最古の中で3ケ所随一といわれる有難い聖天尊である。又天堂に安置の等身大の11面観世音は御西天皇(後西天皇)の第1皇女誠子内親王御病の折空心が歓喜天法を修し奉り皇女の病御平療の時夢枕に立たせ給うた御姿・・師に命じ長谷の観世音を・・御母君の薨ぜられた延宝8年当寺に寄進されたものである。本堂は総ケヤキ造りで、クギは1本も使っていない。境内にある石造宝塔(江戸時代)は、他所に見られぬいかめしさがあり、もと安楽行院にあった12帝供養のための法華塔と伝わる。毎年6月16日には歓喜天の供えた唐辛子を授かり、これを食すれば福を得、病気が退散するといわれる。これを「嘉祥食い」といい、室町時代からの風習と伝わる。

大聖歓喜天は仏教の外護神で熱心な祈願者には最上の幸福をもたらすとされる。商売繁盛、無事息災、旅行安全、芸道上達・・など幅広い。大聖歓喜天像は、いっぷう変わった姿をしている。象の顔と人間の体を持った「像頭人身」で男女2人の神が抱き合っている。「観音さんが、気性の荒い聖天さんをなだめている姿」だそうだ。深草聖天は室町時代から「福運の聖天」と呼ばれて信仰を集めた。江戸時代には加賀の前田公や大阪の豪商たちも信者の列に。現在はやや下火になっており、「葬式もせず、観光寺院でもない本当の信仰寺」と頑張っておられる。

文徳天皇  ➡  文徳天皇陵 

仁明天皇陵 ➡  陵墓伏014  仁明天皇 深草陵

寺院前回の記事  ➡  寺院中0244  欣浄寺  浄土宗  珍しい造りの本堂

 

川柳

薄型にかえたが上に物置けず   /池ちゃん

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