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寺院東0354  泉涌寺 真言宗  1  楊貴妃観音

2017年04月12日 22時09分36秒 | 寺院

 

 

塔頭は 雲龍院、来迎院、今熊野観音寺、善能寺、新善光寺、非田院、法音院、即上院、悲田院

この門は、泉涌寺の山号である「東山(とうぜん)」の額を掲げているので東山門とも呼ばれている。額の字は、独自の書風を確立したことで知られる中国南宋の張即之の筆であると伝える。門を入ると、東には仏殿、舎利殿、本坊の主要建物が直線的に並び、宋の寺院を手本とした創建時の堂宇の配置を見ることができる。

国の重要文化財に指定されている。

門は高く堂々とした本瓦葺きの四脚門で、もとは京都御所の内裏の門であった。慶長時代に徳川家康が後水尾天皇の即位と共に御所を再建したが、その時、旧門の部材を拝領して移築した門と考えられ、桃山時代の建築である。豪壮で華やかな桃山時代の雰囲気は、蟇股の唐獅子、龍、麒麟、獏などの霊獣の彫刻によっても偲ぶことができる。

 

御寺 泉涌寺

仏殿 は 坂を下ったところにある。

楊貴妃観音堂

唐の玄宗皇帝の妃、楊太真は、楊貴妃の名で知られる絶世の美女であり、二人の愛情の深さは白楽天の「長恨歌」にたたえられている。しかし、その美貌のためにかえって、玄宗の失政と安禄山の乱を呼び、唐の至徳元年(756)、妃はその乱によって命を落とした。安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は亡き妃の面影を偲ぶため、香木によってその等身坐像にかたどった聖観音像を造ったと伝えられる。建長7年(1255)に中国に渡った湛海は、その像を持ち帰り、泉涌寺に安置したという。以来百年ごとに開扉されてきた秘仏であったが、昭和31年(1956)から厨子の扉は参拝者のためひらかれることになった。仏体は寄木造りで、手に極楽の花、宝相華を持ち、宝冠は宝相華唐草の透彫、その下に観音の冠を重ねている。観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然一体となった仏像で、口もと目もとの曲線は、得も言われぬ尊容を漂わせている。 京都市

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神社伏0099  藤森神社  4

2017年04月12日 06時01分33秒 | 神社

 

霊験天満宮

大将軍社

大将軍社は、平安京守護のために都の四方に祀られた社のひとつといわれる。

古来、方除けの神として信仰されている

末社

 

 

祖霊社

八幡宮

八幡宮は、昭和4年の解体修理の結果、明応3(1494)3月、九条家に所属していた大工棟梁、東九条の木村源太(当時48)が、建築主任であったことが明らかになった。木村源太は稲荷社本殿の建築にもたずさわっている。

 

御祭神 応神天皇                          八幡宮社

八幡宮は、昭和4年の解体修理の結果、明応3(1494)3月、九条家に所属していた大工棟梁、東九条の木村源太(当時48)が、建築主任であったことが明らかになった。木村源太は稲荷社本殿の建築にもたずさわっている

 

 

 

藤森神社  ➡  神社伏0096 藤森神社  南参道  1

            石碑伏0112 伏見義民  蒙古塚 藤森神社内 2

            神社伏0098  藤森神社  3

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