アートプラス京めぐり

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右書き看板75  字文一菊

2016年02月08日 07時24分19秒 | 右書き看板

 

 

 

刀匠則宗が、作刀に菊の御紋を頂き、その下に横一文字を彫った事から、通称菊一文字と言われ、作刀を中止した明治以後、一般刃物を中心に製作、販売し、高級刃物なら「菊一文字」と言われ現在に至っております。HPより

前回右書き看板記事 ➡ 右書き看板74  堂扇京西大

 


地蔵院  竹の寺  谷の地蔵  臨済禅宗

2016年02月08日 07時16分06秒 | 寺院

 

 

 

地蔵院

衣笠山と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵、又は、竹の寺とも呼ばれている。この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良の山荘があったが、家良の没後、貞治6年(1367)に、管領の細川頼之が、宗鏡禅師に深く帰依して当寺を創建した。宗鏡は、恩師無窓国師を開山に請じて自らは第2世となった。

以後、当寺は、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により諸堂悉く焼失してしまった。その後、江戸時代の貞享3年(1686)に、第14世古霊和尚によって寺観が整えられた。江戸時代には「谷の地蔵」として親しまれるに至った。方丈は宝永元年(1704)、現在の本堂(地蔵堂)は、昭和10年(1935)に再建したもので、堂内には、高さ1メートル余、寄木つくり、右手に錫杖、左手に宝珠をささげた立像の本尊・延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。また、方丈前には頼之遺愛の庭園で「十六羅漢(遊行)の庭」と呼ばれる枯山水庭園があり、本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。尚、一休禅師が幼少の頃修養された寺でもある。  京都市

 

 

平成27年12月13日 撮影

 

細川頼之

頼之は元徳元年(1329)足利氏傍系の細川頼春の子として、三河国(愛知県)に生まれ、若くして足利尊氏に従って武功をあげた。その実力を買われて足利幕府の管領に抜擢され、足利三代将軍義満を補佐し、足利政権の基礎を築いた。38歳であった。

 政界の第1人者となったが、反面他の守護大名の妬みを受け、うとんじられるようになり、康暦元年(1379)、一族郎党300余人とともに家を焼き、領国の讃岐国(香川県)に引き上げた。領国に戻った頼之は、ただちに剃髪して常久と号した。翌年勃発した「明徳の乱」に義満から備後国守護を命じられ、同国を平定し、再び信任を得て、幕政に関与するに至った。明徳3年(1392)3月2日、64歳で亡くなった。頼之は無窓国師の高弟、宗鏡禅師に深く帰依し、没後遺言によって宗鏡禅師のそばに埋葬されたと伝わる。いずれも黒っぽい自然石を置いただけの質素な墓石です。

 

同院と細川家との交流は今も続く、元首相の細川護煕氏は頼之の弟・頼有の子孫にあたり、学生時代から何度か地蔵院を訪れている。