アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

仁阿弥高橋道八宅

2015年09月08日 19時51分28秒 | 石碑

初代高橋道八(?~1804)は,伊勢亀山藩士の家に生まれたが,

宝暦年間(1751~64)に粟田に出て作陶を始めた。

以後代々高橋道八を名乗る。

二代が仁阿弥道八(1783~1855)の名で知られ,

文化8(1811)年に粟田口を離れ五条坂に移った。代々京焼を代表する存在

京都史蹟会建

昭和三年九月   建立

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町名看板  町 ここは 「ちょう」  でなく  「まち」 だった

2015年09月08日 13時35分35秒 | まち歩き

下京区 梅小路(うめこうじ) 石橋町(いしばしちょう) (三部)   ライオンズ

下京区 梅小路 東中町(ひがしなかまち) (一部)  ライオンズ

 

 

下京区 梅小路 本町(ほんまち) (一部)   ライオンズ

下京区 梅小路 西中町(にしなかまち)  (三部)  ライオンズ

 

 

下京区 西七条(にししちじょう) 石井町(いしいちょう)  (二部)  ライオンズ

下京区 梅小路 石橋町(いしばしちょう)  (二部)  ライオンズ

 


石碑  明治天皇御小休所下京第廿七区小学校阯

2015年09月08日 12時32分40秒 | 石碑

 

明治天皇御小休所下京第廿七区小学校阯

明治5(1872)523日,明治天皇(18521912)は品川から軍艦で三重県久志本村に上陸。

伊勢神宮参拝後,大阪を経て530日に入京。

その際大阪より乗船して伏見に入り,伏見の旧本陣,藤森神社,

この地 下京第二十七区小学校(貞教校)で休憩し,京都御所に入った。

その後に中国・九州・四国を巡り,710日神戸を発し,海路12日横浜に到着し,還御。

この石標は下京第二十七区小学校(貞教校)の旧地を示すものである。

下京第二十七区小学校は,明治10(1877)年豊国神社の造営にあたり

現在地の上堀詰町に移った。

 明治五年五月三十日御小休

昭和十六年三月三十日   京都府建之

 

 

これは 学区民が建立した 石碑 

 

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耳塚(鼻塚)  戦功の証として首のかわりに鼻や耳を塩漬けにして持ち帰った

2015年09月08日 10時42分47秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

耳塚(鼻塚)

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、

朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598)

にかかる遺跡である。秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、

朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。

それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。

これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。

 

 

「耳塚(鼻塚)」は史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、

塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古地図にみとめられ、

塚の築城から程ないころの創建と想われる。

秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の強い抵抗によって敗退に終わったが、

戦没が残したこの「耳塚(鼻塚)」は戦乱化に被った朝鮮半島の受難を、

歴史の遺訓として、いまに伝えている。     京都市説明板

 

 

 

 

この石碑の内容は 不明

 

 

石柵は往年の芸能人によって寄進された。

先代・中村鴈治郎、中村扇雀、井上正夫、曾我廼家五郎、桃中軒雲右衛門らの名が刻まれている

 

それらしき 石柱柵は

 

中村扇雀        中村鴈治郎 

 

松本幸四郎        市川猿之助

そのほかは 文字が判別しにくく、役者に詳しくないので割愛します

名前入りの石柵は全部で 81本ありました。

 

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養源院  宗達寺といわれたり、血天井のお寺とも

2015年09月08日 09時26分14秒 | 寺院

 

 

 

 

養源院  宗達寺

元は天台宗であったが、終戦後、浄土真宗になった。

豊臣秀吉の側室 淀君が、その父浅井長政の追善のため、

文禄3年(1594)成伯法印(長政弟)を開山として建立した寺です。

長政の法号の養源院を寺名とした。

建立後、元和5年(1619)に火災で焼失しました。

元和7年(1621)淀君の妹の徳川秀忠夫人 崇源院によって再興された。

それ以来徳川家の菩提所となった。今も、徳川歴代将軍の位牌を祀っている。

本堂は伏見城の遺構を移したものといわれている。

 

山門の右側には白衣弁財天が祀られいろいろな願いをかなえてくれるといいます。

 

狛犬

 

年季の入った おみくじ

 

この鳥居の奥に たくさんの 蛇 が奉納されていました

その祠は 池の上に建っています

余りの蛇の多さに 怖かったです

 

奉納絵馬 

 

 

 

これは 何でしょう

 

先ほどの 祠  池に上に造られています

 

 

しばらくいくと

今度は 左手に 毘沙門天 です

 

 

 

緩い坂を登ったところが 本堂だろうか

 

 

手前に 石碑がありました

何と書かれているのか わかりません

 

 

 

 

 

 

手水舎

 

お堂

 

 

杉戸絵「唐獅子に白象」「波に麒麟図」は俵屋宗達によって描かれている。

玄関脇の牡丹の間には狩野尚信の襖絵がある。

 

血天井

本堂の正面と左右の左甚五郎の手になるといううぐいす張りの廊下に張りめぐらした天井をいいます。

今なお、ところどころに血の痕らしき斑点がある。

慶長5年(1600)関ヶ原の前哨戦に伏見城が敗れた時、

徳川家の鳥居元忠以下の武将380人ほどが自刃して果てた時の板間といわれ、

その血のりは洗っても、削っても取れなかった。

その菩提を弔う為に武将の魂が乗り移った板を寺の天井板に利用したと伝わる。

 

聖天さん

豊臣秀吉が信仰していた大聖歓喜双身天王像で本堂雨宝殿にお祀りされている。

商売繁盛とか病気回復を祈願します。

 

 

 

延命地蔵尊

 

 

 

白鷹龍神  白玉明神  赤桃明神

 

 

ヤマモモ

 

 

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謎の石柱 その使用目的は・・・?・・

2015年09月08日 06時01分25秒 | まち歩き

 

この2本石柱 何に使われていたのでしょう  今まで 撤去されずによく残っています

 

 

推測はこうです

左の支柱から突出している 鉄棒のようなものは 旗をさしたのではないか 

 もちろん 右の石柱からも旗をさした

右の石柱の長方形のへこんだ枠は 町名が記された 銘板がはめ込まれたいた    

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専定寺   (烏寺)

2015年09月08日 01時15分03秒 | 神社

 

 

専定寺(烏寺)

熊谷山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。

寺伝によると、昔専定法師という旅僧がこの辺りの松の木陰で休んでいると、二羽の烏が梢に止まり、

「今日は、蓮生坊(熊谷直実)の極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか」と語り合い、

南の空へ飛び立った。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、

烏が話していた同日(承元2年(1208)9月14日)同刻に亡くなっていた。

このことから、ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが当寺の起こりといわれている。

かつては、この故事を伝えるため、境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、

大仏七不思議(方広寺周辺に伝わる七不思議)の1つに数えられていた。

本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、

金箔による像内化粧が施されているなど貴重なもので、京都市の有形文化財に指定されている

  京都市 駒札

 

他に「獅子地蔵」とよばれ、獅子と化して川に溺れた人を助けたという地蔵像を安置する。

三条寺町に伏見屋左近という人がいて、常にこの地蔵尊を信仰し、花を供えるのを日課にしていた。

あるとき、江戸に急用ができ、大井川まで来たが、増水して川止めになっていた。

日限のある用事のことで待ちきれず、思い切って急流へ飛び込んだが、たちまち1町ほど押し流され、

溺れかけたところ、1頭の獅子が現れ左近を背に乗せて向こう岸へ送ってくれた。

よろこんであとを振り返ったが、その姿はすでになかった。その後、夢の中に一人の僧が現れ

「われは大仏烏寺の地蔵である。汝は日頃供花供養を怠らないその因縁により、

獅子となって汝の危急の難を救いとらせたのだ」といわれた。

驚いて夢からさめてみると、枕元に三寸ばかりの地蔵尊があったので、帰洛してから烏寺に行き、

住職にそれを見せたところ「これは胎内仏にちがいない」と驚き、

報恩のために一宇の地蔵堂を建てたという。これより、獅子地蔵と呼ばれるようになった

 

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