4日間の天津・大連出張が終わり、
飛行機で上海に戻る前に、会社の運転手さんが気を利かせてくれて、
日本人出張者が大連に来たら寄る名所、日露戦争の運命を大きく左右した、
203高地と旅順に連れて行ってくれました。
ちなみに、私が仕事が暇で時間が余ってるから
このブログ書いてるという噂があるみたいですが、
私、ちゃんと仕事してますからね(^^;
これはきちんと仕事をした後に、日本に戻ったらもうここには来れないからって、
時間をやりくりして来ています。
ブログも、夜中か週末に時間を作って書いてます。
旅の記録が趣味なんですが、時間をもてあましてるわけじゃありません。
お間違えなく。。
大連の朝
ここから203高地までは1.5時間です。
水师营
乃木将軍とステッセル将軍が、戦いを終えるために会見を開いた場所です。
2列目中央が乃木将軍、右隣がステッセル将軍です。
その右隣に、伊地知幸助参謀がいます。
実際にこの指揮をとり、負け戦を勝利に導いた児玉源太郎閣下は、この写真にはいません。
司馬遼太郎の「坂之上の雲」を読んだ方なら、この写真を見るだけで
感慨が沸いてくることでしょう。。
あまりにも、あまりにも多くの犠牲の上に、この会見は成り立っています。
このテーブルで会見しました。元は手術台。
当時の満州日本軍の持ち物の、レプリカの展示。
日本円で1万円の寄付をすると、このうちのどれかを持ち帰ることが出来ます。
水师营は文化大革命で一度取り壊され、1996年に作り直されたそうですが、
昨今の日中関係の冷え込みで、建物の補修費用がでないため、
この博物館では「当時の日本軍の所持品」の「ホンモノ」を、
「水师营の補修費として」寄付してくれたひとに
1つ差し上げようということにしたそうです(笑)
ホンモノって言うところが、上海南京東路あたりとそっくり。。。
会見の写真をとった場所。ここで旅順の戦争は幕を閉じます。
これをきっかけに、当時の日本海軍はバルチック艦隊を迎え撃つ準備をし、
遠くヨーロッパから大航海をしてきたロシアの大艦隊、バルチック艦隊を撃破し、
ギリギリの勝利で、ロシアの脅威を退けることに成功しました。
ここでもし負けていたら、今の日本は無かったかもしれません。。。。
日露戦争のターニングポイントとなった、203高地へ向かいます。
当時旅順港には、ロシア軍の大艦隊が待機していました。
ここに待機していた艦隊だけで、東郷平八郎率いる日本艦隊とほぼ互角の艦船数でした。
さらに、バルチック艦隊の到着を待ち、日本艦隊を挟み撃ちにしようとするロシア。
もし、旅順港の艦隊が温存されたままバルチック艦隊が来ていたら、
自分たちの2倍以上の海軍に挟み撃ちにされ、
日本海軍は到底勝ち目のない戦をすることになりました。
そこで、旅順港から出てこない大艦隊を陸から砲撃し、2セットあるロシア艦隊を
1セットにし、1:1の状態で勝ちをとりに行こうとしたんです。
そのためにはここ203高地を確保して、測候所を作り、
地上から旅順艦隊を正確狙い、撃沈する必要があったのですが、、、、、
今は平和に「景区」と名前を変えています。
春先にはこの山一帯に、日本の桜、ソメイヨシノが咲き誇るそうです。
頂上付近までは車で登ることができて、10分ほど歩けば到着です。
きちんと舗装されて、今は歩いて登れます。
これが当時は木も無い山で、隠れ場所がないまま、機関銃と大砲の間をくぐり抜けて登らねばならなかったんですよね。。
到着です。高さは203m、もともとは206m、、
爾霊山の碑です。思わず手を合わせてしまいます。
15,000人とも言われる人たちの犠牲を慰めるために、大砲の砲身を碑にしたそうです。
203高地を奪取したあと、実際の指揮をとった児玉源太郎が
登頂した測候隊に言った有名な言葉
そこから、旅順港は見えるか
見えました。ばっちり見えました。
28サンチ榴弾砲。
これ、小説を読んだ人ならわかりますが、本当に重要な役割を果たし、
この設置にいたるまでに、様々なドラマがあったんです。
また、これが設置されなければ、203高地は落ちず、東郷艦隊は挟み撃ちにされ、
歴史は変わっていたでしょう。。。
日露戦争終結後、旅順港近くに立てられた「表忠塔」
慰霊塔ですが、今は観光用の展望台になってます。

今では平和な旅順港
海軍はありますが、今はきちんと、中国の海軍の港です。
ここにロシア軍がいたとは、、、迎え撃つのが日本軍だったとは、、、
当時の中国人にとっては、忸怩たる思いだったでしょう。。
ここに来られる前には是非、「坂之上の雲」、もしくは歴史の本を読んできてください。
ここを見たときの感慨が、読まないで来た場合と
全然比べ物にならないでしょう。。
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