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長谷部誠の記憶

2018-10-10 22:34:01 | ワールドサッカー
昨日、ドイツ、ブンデスリーガのフランクフルト対ハノーバーを見ていました。フランクフルトといえば長谷部ですが、彼はなんと3バックの中央という、DFとしての出番を得ていました。これで、ドイツでは攻撃的MF、守備的MF、右SB、CBでプレーしたことになり、GKとFW以外はほとんどこなしたという驚くべき実績を作りました。この能力が、不滅の大記録と言われた奥寺康彦氏のドイツ234試合出場の記録を、長谷部が破ったことにつながったのでしょう。

今回は長谷部の記憶を書きます。長谷部は2002年、オランダに移籍した小野伸二の移籍金を使って、次の世代のヒーローを探していた浦和からオファーが来て高卒で入団しています。もっとも、長谷部自身は「(無名の)自分のところになぜスカウトが来る?」と意外な評価に驚いていました。当時の同期入団には、坪井慶介(現山口)、平川忠亮(浦和)など今でもプレーする選手もいます。

長谷部は1年目はサテライトでプレーしていました。当時はトップ下での起用で、セットプレーのキッカーは任されていましたが、すぐにトップに上げて大丈夫な様子には見えませんでした。長谷部には運もあり、翌年トップ下に予定していたブラジル人のエジムンドが、チームになじめず突然退団してトップ下が空いた隙に、オフト監督に抜擢されてトップ下に収まるというJリーグデビューを果たします。

その後は、主にボランチで起用され、翌年から就任したギド・ブッフバルト監督が鈴木啓太と長谷部でダブルボランチを固定します。当時のことを、長谷部自身は「後ろは啓太君がなんとかしてくれるから思い切って上がっていい」と指示が出ていたと振り返っています。このダブルボランチは、長谷部がドイツに移籍する2007年まで続いた、安定したコンビでした。

長谷部といえば、一つ苦い記憶もあります。2006年、オシム監督に代表に呼ばれて、親善試合のガーナ戦でボランチで起用された試合がありました。当時のガーナ代表には、チェルシーでプレーするエシアンがいて、彼の攻撃参加に長谷部はまったくついていけなかった痛恨のミスをしています。トップ下からコンバートしたボランチでは厳しいのかと、彼の代表でのキャリアはどうかと思ったほどです。

しかし、岡田監督はドイツでプレーする長谷部を見て、代表で大丈夫という確信を持ち、代表では遠藤保仁とダブルボランチを組ませる決断をします。このコンビも長いコンビになりました。代表でも3大会のW杯に出場し、代表キャプテンを最も長く務めた選手として名を残すに至っています。正直、川越のサテライトでプレーした選手がここまでになるとは思っていませんでした。努力して変われる、それを身をもって体現した選手だと思います。
コメント
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