穴埋めネタ第二弾は、今日の名古屋戦でドイツに送り出される浦和MF原口元気選手の思い出です。原口は熊谷市の江南南サッカー少年団時代から天才少年で知られ、「熊谷に原口あり」と言われていた才能です。ちょうど、浦和のユースチームを強化するプロジェクトが始まった時期だったのも幸いし、ジュニアユースから浦和でプレーすることになります。
若い頃の記憶では、2008年の高円宮杯の優勝が忘れられません。当時、浦和ユースは黄金世代で、高橋峻希(神戸)、山田直輝(浦和)、濱田水輝(浦和)、永田拓也(横浜FC)らがいました。一学年下だった原口は、阪野(浦和)と2トップを組んで名古屋を9-1で粉砕する、これ以上はない勝ちっぷりを見せてくれました。
トップ昇格は高校三年の17歳です。2種契約にしてユースと掛け持ちさせることも可能でしたが、当時のフィンケ監督が高く評価して、ユースには出られなくなっても構わないとあえてプロ契約を結びトップチームに専念させました。当時のポジションは今でも得意にしている左MFで、サッカーセンスの高さと物怖じしない精神力の強さは17歳の頃から持っていました。
原口の売り物は、外からカットインして入ってくる内側へのドリブルからのシュートです。最初は決定率が低かったですが、相手が侮ってマークを緩めると、強烈なミドルを突き刺して決勝点を得たこともあります。2010年のC大阪戦(埼玉スタジアム)でのゴールはまさに相手ボランチのアマラウが原口のシュートは入らないだろうと警戒していなかったからの得点です。
ミシャが監督になってからは、2012年に1トップを任されたのは彼にとって試練でした。体力的には完成していなかった彼は、FWに置くと相手にフィジカルで潰されてしまいましたが、ここでプロの厳しさに耐えながら得た6ゴールは、その後のサッカー人生で効いてきます。
翌2013年はマルシオを押しのけてシャドーで出番を得ます。FWを経験したことで、FWをどう使ってMFが点を取るかノウハウを身に着けた彼は11ゴールの活躍で、リーグ最多得点の攻撃力に大きく貢献します。
思い出のゴールは、2011年のアウェイ大宮戦での倒れ込みながらの得点と、2013年C大阪戦での自陣からの独走ドリブルでの得点です。ただ、原口はまだ完成した選手ではなく、これからの成長が期待できる才能で、ヘルタベルリンも育てられる自信があるからこその獲得でしょう。ドイツに行って、是非一回り大きくなって、今度は代表戦のピッチで見たいものです。
若い頃の記憶では、2008年の高円宮杯の優勝が忘れられません。当時、浦和ユースは黄金世代で、高橋峻希(神戸)、山田直輝(浦和)、濱田水輝(浦和)、永田拓也(横浜FC)らがいました。一学年下だった原口は、阪野(浦和)と2トップを組んで名古屋を9-1で粉砕する、これ以上はない勝ちっぷりを見せてくれました。
トップ昇格は高校三年の17歳です。2種契約にしてユースと掛け持ちさせることも可能でしたが、当時のフィンケ監督が高く評価して、ユースには出られなくなっても構わないとあえてプロ契約を結びトップチームに専念させました。当時のポジションは今でも得意にしている左MFで、サッカーセンスの高さと物怖じしない精神力の強さは17歳の頃から持っていました。
原口の売り物は、外からカットインして入ってくる内側へのドリブルからのシュートです。最初は決定率が低かったですが、相手が侮ってマークを緩めると、強烈なミドルを突き刺して決勝点を得たこともあります。2010年のC大阪戦(埼玉スタジアム)でのゴールはまさに相手ボランチのアマラウが原口のシュートは入らないだろうと警戒していなかったからの得点です。
ミシャが監督になってからは、2012年に1トップを任されたのは彼にとって試練でした。体力的には完成していなかった彼は、FWに置くと相手にフィジカルで潰されてしまいましたが、ここでプロの厳しさに耐えながら得た6ゴールは、その後のサッカー人生で効いてきます。
翌2013年はマルシオを押しのけてシャドーで出番を得ます。FWを経験したことで、FWをどう使ってMFが点を取るかノウハウを身に着けた彼は11ゴールの活躍で、リーグ最多得点の攻撃力に大きく貢献します。
思い出のゴールは、2011年のアウェイ大宮戦での倒れ込みながらの得点と、2013年C大阪戦での自陣からの独走ドリブルでの得点です。ただ、原口はまだ完成した選手ではなく、これからの成長が期待できる才能で、ヘルタベルリンも育てられる自信があるからこその獲得でしょう。ドイツに行って、是非一回り大きくなって、今度は代表戦のピッチで見たいものです。
今日は埼玉スタジアムに行くので、即日更新ができなかったときに備えて、穴埋めネタを用意して出かけます。今日は競馬の日本ダービーです。3歳馬の頂点を決める、全ての馬が憧れる舞台ですが、私が競馬を見ていたのは大学時代にスポーツ紙を毎日買って通学時間で読んでいた頃です。
当時のスターホースといえばナリタブライアンでした。のちに菊花賞も制して三冠馬になるナリタブライアンですが、最初から強い馬ではなかったところが面白いです。当時、競馬の強い馬はレースをあまり使わないのが常識でした。少ないレース数で結果を出して強い馬になっていたケースが多かったです。
しかし、ナリタブライアンは皐月賞の前に7レースも消化していました。早い時期に新馬戦を勝てず、何とか勝たせようと多くのレースを消化したので、皐月賞の前は「ナリタブライアンは使いすぎだから勝てない」というような評価もされていました。
しかし、ナリタブライアンの最後の追い込みのスピードは驚異的で、有馬記念で勝ったときは実況のアナウンサーが「もう日本には敵はいない」と叫んだこともあります。スポーツ紙の情報なので、映像ではあまり見ていませんが、3月のスプリングステークスが雪で月曜に延期になり、ダート変更になったレースを勝ってスターダムにのし上がった記憶があります。
ナリタブライアンといえば、1歳年上の兄がビワハヤヒデという名馬で、当時「最強の兄弟」と言われました。ナリタブライアンが菊花賞を勝ち、ビワハヤヒデが秋の天皇賞に臨んだときは、年末の有馬記念での直接対決が期待されましたが、ビワハヤヒデが天皇賞で故障して実現しませんでした。
当時、フジテレビの「ハンマープライス」という番組で、ナリタブライアンのたてがみが欲しいというファンの要望がありました。競馬界は縁起を担ぐので、たてがみを切ることには厩舎サイドが同意しませんでしたが、ブラッシングして抜けた毛ならいいということになり、実際にチャリティーオークションにかけられたことがあります。
シャドーロールという、馬の鼻先にかけられる白い視界を遮るバンドもナリタブライアンの象徴です。ファンの中には、このシャドーロールを自作した人もいたほどで、それだけこの馬が愛された証明でもあります。種牡馬としては、8歳という若い時期に急病で死去し、産駒が活躍するには至らなかったのが残念ですが、あの時代とともに思い出せるスターホースです。
当時のスターホースといえばナリタブライアンでした。のちに菊花賞も制して三冠馬になるナリタブライアンですが、最初から強い馬ではなかったところが面白いです。当時、競馬の強い馬はレースをあまり使わないのが常識でした。少ないレース数で結果を出して強い馬になっていたケースが多かったです。
しかし、ナリタブライアンは皐月賞の前に7レースも消化していました。早い時期に新馬戦を勝てず、何とか勝たせようと多くのレースを消化したので、皐月賞の前は「ナリタブライアンは使いすぎだから勝てない」というような評価もされていました。
しかし、ナリタブライアンの最後の追い込みのスピードは驚異的で、有馬記念で勝ったときは実況のアナウンサーが「もう日本には敵はいない」と叫んだこともあります。スポーツ紙の情報なので、映像ではあまり見ていませんが、3月のスプリングステークスが雪で月曜に延期になり、ダート変更になったレースを勝ってスターダムにのし上がった記憶があります。
ナリタブライアンといえば、1歳年上の兄がビワハヤヒデという名馬で、当時「最強の兄弟」と言われました。ナリタブライアンが菊花賞を勝ち、ビワハヤヒデが秋の天皇賞に臨んだときは、年末の有馬記念での直接対決が期待されましたが、ビワハヤヒデが天皇賞で故障して実現しませんでした。
当時、フジテレビの「ハンマープライス」という番組で、ナリタブライアンのたてがみが欲しいというファンの要望がありました。競馬界は縁起を担ぐので、たてがみを切ることには厩舎サイドが同意しませんでしたが、ブラッシングして抜けた毛ならいいということになり、実際にチャリティーオークションにかけられたことがあります。
シャドーロールという、馬の鼻先にかけられる白い視界を遮るバンドもナリタブライアンの象徴です。ファンの中には、このシャドーロールを自作した人もいたほどで、それだけこの馬が愛された証明でもあります。種牡馬としては、8歳という若い時期に急病で死去し、産駒が活躍するには至らなかったのが残念ですが、あの時代とともに思い出せるスターホースです。