国母選手の問題で、不本意ながら目立ってしまった日本選手団長、橋本聖子さんの現役時代の思い出です。橋本聖子といえばスピードスケートのカリスマ的存在で、富士急に入社した当時の岡崎朋美が全くかなわなかったというエピソードがあります。
橋本聖子のキャリアは長く、1984年サラエボ五輪から1994年リレハンメル五輪まで現役のスケート選手として出場しました。どうしても唯一のメダルになった、1992年アルベールビル五輪1500m銅メダルのことが話題になってしまいますが、私にとって印象に残っているのは、1988年カルガリー五輪のことです。
当時の橋本聖子は、500mから5000mまで全ての距離を滑れるオールラウンダーでした。今は長距離と短距離はそれぞれスペシャリストがいる時代ですから、これだけでも驚異的なことです。しかも、全種目で代表権を得て五輪に出てしまうことも驚異的です。
橋本聖子のすごいところは、カルガリー五輪で500mから5000mまで全ての競技に出て、全て入賞(8位以内)したことです。これは今では世界中のどんな選手にも真似できない快挙で、今の選手では田畑がそれに近いですが、彼女も500mは無理です。
それに挑もうとしている選手は、日本選手最年少の高木美帆選手です。今回は1000mと1500mの代表でしたが、橋本聖子自身が「自分の15歳のときよりうまい」と認めるほどです。次の五輪でもまだ19歳と将来性は十分で、これからオールラウンダーに育つ可能性もあります。
本題からは外れますが、スピードスケートで屋内リンクが当たり前になったのは、橋本聖子が活躍したカルガリー五輪からです。以前は外のリンクだったので、気象条件にも左右されるデリケートなスポーツでした。
その後、五輪を開催した都市には当たり前のように屋内リンクがあるので、スピードスケートのW杯は気象条件に左右されない環境でやれます。サラエボ五輪で屋外リンクの記憶がある私には驚くべき、環境の変化です。
橋本聖子のキャリアは長く、1984年サラエボ五輪から1994年リレハンメル五輪まで現役のスケート選手として出場しました。どうしても唯一のメダルになった、1992年アルベールビル五輪1500m銅メダルのことが話題になってしまいますが、私にとって印象に残っているのは、1988年カルガリー五輪のことです。
当時の橋本聖子は、500mから5000mまで全ての距離を滑れるオールラウンダーでした。今は長距離と短距離はそれぞれスペシャリストがいる時代ですから、これだけでも驚異的なことです。しかも、全種目で代表権を得て五輪に出てしまうことも驚異的です。
橋本聖子のすごいところは、カルガリー五輪で500mから5000mまで全ての競技に出て、全て入賞(8位以内)したことです。これは今では世界中のどんな選手にも真似できない快挙で、今の選手では田畑がそれに近いですが、彼女も500mは無理です。
それに挑もうとしている選手は、日本選手最年少の高木美帆選手です。今回は1000mと1500mの代表でしたが、橋本聖子自身が「自分の15歳のときよりうまい」と認めるほどです。次の五輪でもまだ19歳と将来性は十分で、これからオールラウンダーに育つ可能性もあります。
本題からは外れますが、スピードスケートで屋内リンクが当たり前になったのは、橋本聖子が活躍したカルガリー五輪からです。以前は外のリンクだったので、気象条件にも左右されるデリケートなスポーツでした。
その後、五輪を開催した都市には当たり前のように屋内リンクがあるので、スピードスケートのW杯は気象条件に左右されない環境でやれます。サラエボ五輪で屋外リンクの記憶がある私には驚くべき、環境の変化です。