内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『失われた時はもう探さないで』第一篇「ジャニコーのほうへ」(1)― スピリチュアリスムとナショナルなものの関係について

2023-01-21 21:20:28 | 雑感

 今日昼前、修理が済んだ自転車を、ジョギングを兼ねて3キロほど走って取りに行った(歩いていってもよかったのですが、習慣とは恐ろしいものです、自ずと走りたくなるのです)。
 ブレーキ系統の修理が済み、ついでに頼んでおいた変速機の微調整も完璧で、新品みたいに快適に走れるようになった自転車に乗ったら、なんかやたらと嬉しくなってしまった。で、ついでに買い物をして帰ろうと、よく行くスーパーまで超前傾姿勢でガンガン飛ばした(自転車専用道路を疾駆している爺を想像されたし ― バカなの? ― ハイ!)。
 ところが、世の中はうまくいかないものである。駐輪場で施錠してから気がついた。出掛けに、どうせ自転車屋に自転車を取りに行くだけだからとチェーン錠の鍵を家に置いてきたことを。つまり、一旦自宅に鍵を取りに戻らないと、買い物さえできないではないか、と。
 いや、正確には、できないわけではないが、買い物するにしても、自転車に乗って帰れず、荷物を背負うサックもないわけであるから、手で持って帰れる量だけ買って両手に抱えて自宅に戻り、荷物を置いた後、ただ自転車を取りに行くためだけにスーパーに戻ることになる。これはいかにも業腹である。
 そこで熟慮の末(それほどのことか)、自転車を駐輪場に置いて、自宅までの片道2,5キロを走って鍵を取りに帰った(えっ、また走ったの? ― オフコース!)。無事(に決まっているが)自宅に戻り鍵をリュックサックに入れて、またスーパーまで戻るとなった段、スマートウォッチによると、すでにその日のジョギングの距離が5キロを超えていた。そこでまた思案した(なんか、無意味に大げさ)。日課の10キロに到達するように、スーパーまでの戻り道をあえて遠回りして距離を稼ぐことにした。これは実に妙案である(好きにすれば)。
 かくしてスーパーに着いたときにはほぼ10キロに達していた。一石二鳥というわけである(何かおかしくありませんか、使い方が)。
 さて、自転車もすっかり直って気分をよくし、採点作業も順調に進み、明日には確実に終えられる見通しがたったので、今日からドミニック・ジャニコーの著作のほうへ、特に Ravaisson et la métaphysique のほうへとそろそろの摺足で(何で? ― 初場所中じゃん ― 意味不明)向かっていきたいと思う。
 先週早速そうしようと思っていたのだが、できなかった。それは採点作業や授業の準備で思うように時間が取れなかったということもあるのだが、それらは、はっきり言おう、世俗的な些末な理由である。主たる理由、つまりスピリチュアルな理由は Ravaisson et la métaphysique そのものにあった。
 というのは、Introduction の 1ページ目の « Il est certain que, réagissant à la fois contre l’empirisme anglo-saxon et l’idéalisme allemand, ce spiritualisme s’est, en partie, fermé aux apports extérieurs et, en quelque sorte, retranché sur les valeurs nationales. » という一文のところではたと考え込み、先に進めなくなってしまったのである。なぜか。この文の最後の一語 « nationales » という言葉に引っ掛かってしまった。
 どういうことかと言うと、スピリチュアリスムなどおよそ政治の世界とは縁遠いように思われるけれども、このナショナルなものに深く関わっているとすると、むしろきわめて政治的な要素をその裡に含んでいることになると愚考してしまった、ということである。
 で、それが? ソノコタエハアシタ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自転車を粗末にした罰 ―『他愛無記』(未完草稿)より

2023-01-20 23:59:59 | 雑感

 雨や雪の日以外、大学までの通勤にも買い物にも自転車を使う。ストラスブールに赴任して二年目の2015年に最初の自転車を購入してからずっとそうしている。私にとって自転車は移動のための大切な「足」である。今使用しているのは二台目(二代目?)。一台目も壊れたわけではなく、ガレージに置いてあるが、後輪が少し歪んでしまってとても走りづらくなったので二台目を購入したのが2018年の9月のことだった。
 一昨年半ばまで、通勤や買い物、市内の移動はほとんどすべて自転車だった。ところが、一昨年にウォーキングを始め、その二月後にはジョギングを日課にするようになってから、使用頻度が少し落ちた。重い荷物がある場合、急ぎの場合などは別として、自転車の代わりに歩いたり走ったりすることが増えたからである。それを理由にすることはできないが、大切なはずの自転車の手入れが疎かになってしまっていた。
 数ヶ月前に後輪のスポークが一本外れてなくなっているのに気づいた。すぐにもその自転車を購入した店に行って直してもらえばいいものを無精してそのまま乗っていた。それでも特に支障はなかった。今年に入って、もう一本、後輪のスポークが外れているのに気づいた。これはさすがに修理してもらわねばと思いつつ、数日間そのまま乗っていた。ちょっと心配ではあったが、走行には問題なかった。
 ところが、昨日大学に出講する際、後輪がぐらぐらする。まずいとは思ったが、そのまま大学にいかないと授業開始時間に間に合わない。だましだまし、ゆっくりと走りながら大学まで辿り着いた。
 講義を終えて、駐輪場に止めてあった自転車の後輪を確認して仰天した。二本どころではない、四五本スポークが外れてぶらぶらしている。これはとても乗れたものではない。自転車を押して自転車屋まで1,5キロほどの道のりを歩いた。
 自転車屋に修理を頼んで、歩いて自宅に戻った。二時間もせずに自転車屋から直ったと連絡が入った。すぐに取りに行く。スポークが外れたまま走ったから、フレームが少し歪んでしまっていて、それはもう完全には元に戻せなかった、もっと早く持ってきてくれればよかったのに、と修理を担当してくれた若い女の子からちょっと咎められてしまった。ごもっともである。
 それよりも問題なのはと、女の子は続けて、後ろブレーキのワイヤーがちゃんと動いていないから、これも何とかしないといけない、と言う。その場でまた修理をお願いすればよかったのに、自分でまず確認してみるからと、ひとまず帰ろうとした。すると途中でワイヤーが外れてしまい、後ろブレーキがまったく効かなくなってしまった。そらみたことか。でも、すぐに引き返すのはちょっと億劫だ。明日また修理に出すことする。
 というわけで、普段のメンテナンスを怠ったためにダブルパンチを見舞われたかっこうになってしまった。
 これからは私の大切な「足」をもっと丁寧に扱うことをここに誓います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ほんとうに書きたいことになかなか辿り着けない ― カモノ・タンメイ著『茶濁記』(私家版)より

2023-01-19 23:59:59 | 雑感

 今日の話は他愛もない。いや、今日の話も、というべきか。ほんとうに書きたいことになかなか辿り着けずに、お茶を濁してばかりいる。「茶濁記」と題する所以である。
 日本の配信サイトと VPN のおかげで、かつては日本でのみ視聴可能だったテレビドラマや映画を今では海外でもそれこそほとんど好きなだけ自分の都合のいい時間に観ることができる。私にとって、20年前にはとても想像できなかったことである。それをありがたく享受している。もちろんそれなりの契約料を払ってのことではあるが。それは、しかし、大海の如き享受の喜びに比べれば、芥子粒くらいの家計の痛手に過ぎない(これはさすがにちょっと大げさか)。
 こんなに自由なアクセスを享受するようになって三年ほどになるが、その間に気づいたことがある。それは、その自由なアクセスに対する私自身の反応についてである。自分でもちょっと驚いた。だから誰でもそうだろうと一般化できる話ではないとは思う。
 テレビの連続ドラマが全話一挙に配信されている場合、その気になれば、一気に観られるわけである。全話一気とまではいかなくても、自分の好みと都合に応じて、何話かまとめて観てもいいわけである。ところが、私は、一話観ると今日はもうこれで「ごちそうさま」という気分になる。たとえその日二三話続けて観る時間の余裕があったとしても、そうなのである。
 なぜなのだろう。一話完結であろうがなかろうが、その一話で得られたいい気分を何話か立て続けに観てぶち壊したくないと思うのである。放映時のように一週間に一話ずつとまでは思わないが、とにかく続けて観たいとは思わない。作り手の側が一話としてまとめたものをそのまま受け取りたい。ただし、こういう気持ちになるのは、その作品がそれだけいい作品だからこそであって、駄作に対してはそうは思わない、というか、そもそも観ない。
 先週木曜からNETFLIXで世界配信が始まった是枝裕和監督の『舞妓さんちのまかないさん』(全九話)をそんな気持ちで毎日一話ずつしみじみと味わいながら観ている。とても佳い作品だ。今日第八話を観た。明後日最終回第九話を観るつもり。学生たちにも「ぜひ観るように」と強く勧めておいた。全話観終えてから感想を述べたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「古代日本の歴史と社会」期末試験問題

2023-01-18 23:59:59 | 講義の余白から

 学部二年生の「古代日本の歴史と社会」の問題形式は三年生の「近代日本の歴史と社会」とほぼ同じだが、日本語の難易度はもちろん下がる。それに、大問2の記述式問題は、授業で説明した事項の要点をまとめることを求めるというきわめてオーソドックスな設問で、授業中に使ったパワーポイントの中の当該箇所の記述をそのまま書けば答えになる。だから、それらの資料をしっかり復習しておけば簡単に高得点が取れるはずである。それぞれ数行での説明を求めたのは次の5項目。白村江の戦い、白鳳文化、遣唐使、荘園、武士団。
 ところが、49枚の答案中、ほとんど白紙か、何か書いてあってもほぼデタラメが書きなぐってあるだけで採点に数秒しかかからない答案が10枚あった。これらの答案は採点作業の労役の軽減に多大な貢献をしてくれおり、この場を借りて当該の学生諸君には心から感謝したい。彼ら彼女たちは、歴史に何の興味もないし、そもそも真面目に勉強する気がないのである。毎年、一定数、そういう輩はいるから、今更何を言っても仕方がないと私ははっきりと諦めている。そういう輩たちのためにこちらが特別な配慮をする謂れはまったくない。
 それはそれとして、中間試験の感想として以前書いたことだが、このような答案は資源の無駄遣い以外のなにものでもない。やはり真剣にエコポイント・システムの導入を検討するべきなのかもしれない(こちらの記事をご笑覧ください)。
 大問3の和文仏訳は以下の一問。授業では使わなかったテキストだが、内容的にはほぼ同一の説明をしてあるし、しかもご覧のように語彙説明付きだし、実際の問題用紙にはほぼすべての漢語にフリガナがふってあるから、二年生の問題としてもけっして高難度ではない。

奈良時代に花開いたきらびやかな文化を天平文化と呼ぶ。その第一の特徴は、遣唐使らによってもたらされた先進国唐の文物に象徴される国際色の豊かさである。唐との交通によって様々な文物が日本に移入され、天平文化として結実したとされている。天平文化の精髄を伝える正倉院宝物には、その国際性が如実に反映されており、西域に由来する要素がとりわけクローズアップされ、正倉院は「シルクロードの終着駅」である、といった表現も広く一般に受け入れられている。

きらびやかな : splendide 特徴 : caractéristique 先進国 : pays avancé 象徴する : symboliser 結実する : porter des fruits 精髄 : quintessence 宝物 : trésor 如実に : vivement 反映する: refléter 西域:régions occidentales ~に由来する : originaire de ~ 要素 : élément

 まだ採点作業は終了していない。今週末には終えたい。はやく解放されたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「近代日本の歴史と社会」期末試験問題、成績、講評」

2023-01-17 13:39:07 | 講義の余白から

 クラスの平均点が20点満点で12点と中間試験の出来が良すぎたこともあるが、期末試験の平均点は 10,8 に下がった。それは主に問題の難易度を高めたことによる。もともと出来のよくない学生あるいはそもそもろくに試験準備をしない学生は点数が中間試験よりさらに降下したのは当然である。学力にムラがある学生たちも点数を落とした。その一方で、中間でとてもいい成績だった学生たちは、「期末は中間より難しくするよ」と脅しをかけておいたのが効いたのか、よく準備したことがわかる良い答案を書いてくれた。最高点は18,5、最低点は2点(これでもお情けで上げた点数である)。
 試験時間は正式には一時間だが、多少のオーバーは大目に見た。
 全部で大問3つ。1番は語彙テスト。以下の各語の読みをひらがなで示し、仏語で意味を記せ、という問題。

1独裁 2崩壊 3遊戯 4周知徹底 5著しく 6厳格に 7維持する 8標榜する 9痩せ細る 10推測される

 全問正解で20点満点中の5点になる。授業内容をよく理解していない学生でもここで頑張れば合格点の10点は取りやすくなる。予想通り、明らかにそれ狙いの学生が数人いた。

 2番は各問いに10行程で答える記述式問題3問。各問3点で計9点。第1問は、井上毅の「外教制限意見案」の要点を説明せよという問題で、これは授業でしつこいほど説明を繰り返したので、概してよく出来ていた。第2問は、江戸時代に広く行われ、明治期にも受け継がれた「会読」という共同読書形式が、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で示している四つの遊戯のタイプのうちの一つ「アゴーン」と、それとは別次元の遊戯のカテゴリーとして彼が提案する「ルドゥス」との両方で同時にあり得るのはどのような条件においてか、という問題。これは問題としてはちょっと手が込んでいたのだが、授業中このテーマそのものに興味をもって集中して聴いている学生が多かったせいか、出来は悪くなかった。第3問は、幕末から明治期にかけて、漢文訓読体が日本の近代化にどのような役割を果たしたか、という問題。これは出来がはっきりと分かれた。授業で最後に取り上げたテーマだったのだが、それを上の空で聞いていた学生たちはまったく的はずれな「作文」をしていた。

 最後の大問は和文仏訳2題。各3点で計6点。訳は前2問の出来とかなり異なっていた。というのは、前2問は、よく準備してくれば高得点が可能だが、仏訳は未知のテキスト相手なので、日本語の実力(特に構文理解力と語彙力)がないとうまく訳せない。案の定、前2問では高得点だった学生でもここでは半分の3点を取るのがやっとということが多かった。
 その仏訳問題2題は以下の通り。

1. 宗教の定義は大問題であり、研究者の数だけ異なる定義があるといわれる。いまここでそれを厳密に定義しようとしてもあまり意味はないであろう。ただ言えることは、宗教はこの世界の合理的な秩序を超える問題と関わるということである。この世界の中で解決のつかない問題に突き当たったとき、合理的に検証できる領域を超えなければならなくなる。
   厳密に : exactement / strictement  秩序 : ordre  検証 : vérification 領域 : domaine

2. 基礎知識から応用技術までの学問体系を学ぶための手段化された読書には、難解な書物を読む喜びはなくなり、また他者と討論する楽しみもなくなったといえる。異質な他者と討論する会読の場で得られた自主的な「合点」は、もう用がなくなったのである。
   体系 : système 自主的 : autonome et libre 合点 : consensus


採点作業を快適に済ませるには

2023-01-16 23:59:59 | 講義の余白から

 今日から後期が始まった。私の授業は火水木に学部の授業が一コマずつ、それに修士一年の演習一つが三月から加わるが、月から金までほぼ毎日授業があった前期に比べれば楽になる。
 先週が前期最後の週で試験週間だった。私の担当している授業の試験もすべて先週行われた。試験の後には当然のこととして答案の採点が待っている。
 採点が好きだという教師が世の中に存在するのかどうか知らないが、私は嫌いとまでは言わないにしても、好きではない。仕事だから仕方がないという以上の気持ちは持てずにこなしている。
 前任校では、どうせやらなきゃいけないのだから、見て見ぬ振りをして成績提出期限ぎりぎりになっていやいや採点するより、さっさと済ませてしまおうと、試験が終わったその日の内に採点を始め、翌週には学生たちに結果を知らせていた。
 この方針は、ストラスブールに赴任してからも、学科長になるまでは守っていた。学生たちからも好評だった。だが、学科長時代はやはり雑務が多く、思うように試験答案に向き合う時間が取れず、採点が後回しになりがちになってしまった。昨年は、すでに学科長の任は降りていたのに、悪癖だけが残ってしまい、試験から一ヶ月以上たってようやく採点を開始したこともあった。
 これではいかんと、今年度は態度を改めた。試験の翌週あるいは翌々週には採点を終え、学生たちにすぐに成績を知らせるようにした。学生たちは早く成績が知りたいものだから、早く知らせば知らせるほど喜ぶ。たとえ残念な結果でも、早く知ったほうが気分の立て直しも早くできる。
 先週の試験のうち、三年生の二つの試験の答案はもう終えた。その一つ「近代日本の歴史と社会」は先週金曜日に試験があったのだが、先週末と今日の三日間で採点を片付けた。答案は三十六枚だから量的にはたいしたことはないが、全部記述式だから読むのには結構時間がかかる。それに答案一枚一枚にコメントを書き込んでいくからなおのこと時間がかかる。それは後回しにしても同じことだから、週末を潰すことにはなっても、片付けてしまえば気持ちもすっきりするからとちょっと頑張った。それで明日の授業で答案を返却し、結果について講評を述べ、各問について復習する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「テツガクはキホンテキにアウェーでなければならぬ」― K先生放言録『言ったもんが勝ち』(私家版)より

2023-01-15 20:58:31 | 雑感

 サッカーの世界で使われている「ホーム」「アウェー」という言葉を私自身の立ち位置について僭越ながら転用させていただくと、私はいつも「アウェー」で戦っているということになります。裏を返せば帰るべき「ホーム」がないのです。
 それは二重の意味においてです。祖国(この言葉、私、偏愛しているのですが、なんかもう古色蒼然としているのでしょうか)から遠く離れ、日本文学研究に挫折した後に学部一年から勉強し始め、おフランスで博士号まで取得した哲学の分野でまともな仕事をすることもできず、アウェーでの転戦に継ぐ転戦だということです。
 そんなトホホな境遇に置かれて、ただただ悲しくなることもありますし、「ああ、どこかに帰りたい!」と絶望的に嘆息することもありますし、端的に言って、こんな生き方、疲れます。
 でも、こうなるしかなかったのだとも思います。それは運命などという大げさなものではなく、あらゆる意味においての自分の拙さが己をここに至らせたということに過ぎないのです。わかっていますよ、それは。
 アウェーで連戦連敗、勝利の経験なんてまったくありません。「てめぇなんか、やめちまえ!」という罵声を日々浴びつつ、「でも、やめたら行くとこないし……」「まだ使ってもらえるだけで御の字ですっ!」ってな感じで、今日もピッチに立っているというところでしょうか。
 そんな状況の中、哲学についての記事を書いていると、思いもかけず、ありがたくも暖かい声援をいただき、「あれっ、これって、いいの?」とウルウルと戸惑いつつ、これが「縁」というものなのだと勝手に都合よく解釈し、元気を取り戻し(タンジュンでよかったわねぇ~)、「アウェー」で戦い続けること、それこそがテツガクである、と日曜の朝に開き直る私なのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ベルクソン化されたラヴェッソン像を越えてラヴェッソンへと戻る途を開く

2023-01-14 05:12:44 | 哲学

 11日の記事で提示したラヴェッソン解釈を前提とすると、『眼と精神』におけるメルロ=ポンティのラヴェッソン批判は、デッサン論に対しては妥当であるとしても、最晩年の思想には当てはまらない。ドミニック・ジャニコーが Ravaisson et la métaphysique のなかで指摘しているように、メルロ=ポンティはラヴェッソンのテキストは読まずに、ベルクソンのラヴェッソン論にのみ依拠して、ラヴェッソンとベルクソンの不徹底を批判している。
 しかし、ここではメルロ=ポンティのラヴェッソン批判の不当性を指摘することが目的ではない。ラヴェッソンの哲学を顕彰するベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」の圧倒的な影響力がそれ以降のラヴェッソン解釈を方向づけてしまい、メルロ=ポンティもその影響下にあったということを確認しておきたいだけである。
 ベルクソンという écran(ジャニコーの言葉、画面・スクリーンのこと)に大写しにされた「ラヴェッソン」像の陰に生けるラヴェッソンの哲学の大切な部分が隠されてしまったことは、「生涯と業績」における『習慣論』に対する扱いの軽さ(矮小化とまでは言わないとしても)によく表れている。「生涯と業績」はまさに「ベルクソン化された」(これもジャニコーの言葉)ラヴェッソン像として実に見事な出来なのである。
 これは決して皮肉で言っているのではない。実際、ベルクソンならではの洞察もきらきらと光っている名篇である。私が特に感嘆せずにいられないのは次の一節である。

Comment ne pas être frappé de la ressemblance entre cette esthétique de Léonard de Vinci et la métaphysique d’Aristote telle que M. Ravaisson l’interprète ? Quand M. Ravaisson oppose Aristote aux physiciens, qui ne virent des choses que leur mécanisme matériel, et aux platoniciens, qui absorbèrent toute réalité dans des types généraux, quand il nous montre dans Aristote le maître qui chercha au fond des êtres individuels, par une intuition de l’esprit, la pensée caractéristique qui les anime, ne fait-il pas de l’aristotélisme la philosophie même de cet art que Léonard de Vinci conçoit et pratique, art qui ne souligne pas les contours matériels du modèle, qui ne les estompe pas davantage au profit d’un idéal abstrait, mais les concentre simplement autour de la pensée latente et de l’âme génératrice ? Toute la philosophie de M. Ravaisson dérive de cette idée que l’art est une métaphysique figurée, que la métaphysique est une réflexion sur l’art, et que c’est la même intuition, diversement utilisée, qui fait le philosophe profond et le grand artiste. M. Ravaisson prit possession de lui-même, il devint maître de sa pensée et de sa plume le jour où cette identité se révéla clairement à son esprit. L’identification se fit au moment où se rejoignirent en lui les deux courants distincts qui le portaient vers la philosophie et vers l’art. Et la jonction s’opéra quand lui parurent se pénétrer réciproquement et s’animer d’une vie commune les deux génies qui représentaient à ses yeux la philosophie dans ce qu’elle a de plus profond et l’art dans ce qu’il a de plus élevé, Aristote et Léonard de Vinci. (PUF, 2009, p. 265-266)

こうしたダ・ヴィンチ美学とラヴェッソン氏の解釈するアリストテレス形而上学とのあいだには、驚くべき類似性が見いだされる。ラヴェッソン氏はアリストテレスを、事物の物質的メカニズムしか目に入らない自然哲学者やあらゆる実在を類型化するプラトン主義者と対立させて、精神の直観により個物の根底に個物を生かして特徴づける思考を求める哲学者として描いている。それはまさにアリストテレスの思想を、ダ・ヴィンチが構想し実践した芸術、すなわちモデルの物体的輪郭に囚われず、といってそれを抽象的理想のために曖昧にすることなく、潜在的な思考と生成的な魂のまわりに集中させる芸術についての哲学にすることではなかろうか。ラヴェッソン氏の全哲学は、芸術とは形にあらわれた形而上学であり、形而上学とは芸術に対する思索であるということ、すなわち同一の直観が違ったふうに用いられて深遠な哲学者と偉大な芸術家が生まれるという考えに由来している。ラヴェッソン氏が自己を把握して自らの思考と文章の主人となったのは、そうした同一性が彼の精神にあきらかに示された日であった。その同一化がなされたのは、ラヴェッソン氏を哲学と芸術とに別々に向けていた二つの流れが、彼の内部で合流したときであった。そしてこの合流が果たされたのは、彼の眼に最も深い哲学と最も高い芸術を代表する二人の天才、すなわちアリストテレスとレオナルド・ダ・ヴィンチが相互に浸透し合い、二人が共通の生命を生きていると思われたときであった。(原章二訳『思想と動き』平凡社ライブラリー)

 ジャニコーの大きな貢献の一つは、この見事なまでにベルクソン化されたラヴェッソン像を徹底的に検証し直し、ベルクソンという大きなスクリーンを越えてラヴェッソンへと立ち戻る途を開き、ラヴェッソンのものはラヴェッソンに返し、フランス・スピリチュアリスムの系譜学を書き直したことにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「スピリチュアル/スピリチュアリティ」という言葉をめぐる感想

2023-01-13 23:59:59 | 哲学

 島薗進の『精神世界のゆくえ 宗教からスピリチュアリティへ』(法蔵館文庫、2022年)によると、日本の新聞紙上に「スピリチュアリティ」や「スピリチュアル」という語が目立つようになったのは2006年のことだという。それは様々な社会現象や文化活動を伴ってのことだが、人々の中に「日常性や合理性の向こうにある超越性や神秘の領域に関わる」何かを求める志向の強まりと対応している。「宗教っぽい」が「宗教」ではないその何かを指し示すのに「スピリチュアリティ」とか「スピリチュアル」などの言葉が好まれるようになったらしい。
 この「スピリチュアリティ」に対応する日本語となると、「霊性」あるいは「精神性」(あるいは「精神世界」)となるが、最近では「霊性」という言葉がかなり目立つようになってきている。「霊性」という言葉は鈴木大拙の『日本的霊性』(1944年)以来、一般にも知られるようになったが、戦後しばらくはあまり使われることもなかったように思う。それがまた復活してきているのは、既存の宗教のいずれかに帰依することなく、日常性・合理性・物質性・対象性などに還元され得ない何かに生きるよりどころを求める志向が人々の間で強まってきているからなのだろう。
 この霊性志向を、島薗進は、「グローバルな広がりをもって展開し、「宗教」と「近代」(近代合理主義や近代科学)に替わる新たな生き方考え方を求める運動、あるいは文化として理解し、新霊性運動(あるいは新霊性文化)」と呼んできた。日本での霊性志向もそのような世界的な運動の一つの現れとして捉えることができるのだろう。
 霊性をめぐる日本固有の問題としては、そもそも「宗教」という語が明治期に religion の翻訳語として採用され、特にキリスト教がその代表とされたという特殊事情がまずあると思う。この点は、阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996年)以来、盛んに議論されてきたことだ。「無宗教な」日本人たちが「スピリチュアリティ」や「スピリチュアル」なものへの親和性を示すのは日本固有の近代性と無縁ではない。
 霊性志向へと向かわせるもう一つの要因として、阪神淡路大震災や東日本大震災・福島第一原発事故などによって多くの人たちが受けた心の深い傷もあるように思う。それまで確かにあると思っていたものがもろくも崩れ落ち、家族や友人などを一瞬にして失ったことによる心の傷は、物質的な埋め合わせができないのはもちろんのこと、心療内科やカウンセリングでは癒されないことも多々あろう。そのような苦しみの中から霊性への志向が生まれることもあるだろう。
 なんでこんな話を持ち出したかというと、フランス・スピリチュアリスムに対して哲学史の一系譜としてガクモン的な関心を持つだけではなく、上記のような現代の社会的な文脈も背景としつつ読み直したいと考えているからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ドミニック・ジャニコー『ラヴェッソンと形而上学 ― フランス・スピリチュアリスムの一つの系譜学』

2023-01-12 11:59:59 | 哲学

 フランス近現代哲学を主たる研究分野とする研究者やそれを専攻する院生、特にフランス・スピリチュアリスムに興味がある人たち、フランスにおけるヘーゲル研究を通覧している人たち、フランス現象学の神学的転回という話をどこかで聞いたことがある人たち、フランスにおけるハイデガー受容について関心がある人たちなどは、ドミニック・ジャニコーの名前はよくご存知か、少なくとも上掲のそれぞれのテーマで重要な著作をものした哲学者として知っているだろう。
 しかし、日本語訳は『フランス現象学の神学的転回』(日本語訳のタイトルは『現代フランス現象学―その神学的転回』文化書房博文社、1994年) しかない。管見の限りでは、今後も他の著作が訳される気配はなさそうである。せめて Ravaisson et la métaphysique. Une généalogie du spiritualisme français, Vrin, 1997 くらいは訳されてもよさそうに思う(だったらお前がやれってか)。本書の初版は1969年に刊行され、翌年、アカデミー・フランセーズのボルダン賞を受賞している名著である。
 博士論文を書いているとき、本書は、博論の内容に関わるところで参照しただけでなく、私にとってはまさに論文のお手本だった。書誌的にきわめて厳密、論の運びが鮮やか、批判の刃の切れ味が実に良く、カフイフモノヲワタシモカキタイと身の程知らずにも憧れたものである。そして、今も憧れつづけ、人生ダケガ黄昏レテユク次第である。トホホ……。
 明日から気を取り直して、本書を読み直していこう。