内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(9)― 古代ギリシアのダイエット・ブームの「効用」

2015-11-20 04:12:12 | 読游摘録

 古代ギリシアのダイエット・ブームは、プラトンをして怒らしめるほどの勢いであったようであるが、現代にも見られるこのような社会的熱狂現象は、幸いなことに、まったく否定的な結果だけを生んだのではなかった。
 ダイエットは、それが効果を発揮するためには、生活全般について事細かに決められた規則に従って、毎日実行すべきことを実行しなくてはならない。そのためには、だたそれらの規則を暗記しただけでは駄目で、日々の実践を通じて、それらの規則がいつも心に留められているようにしなければならない。
 古代ギリシアにおいて、このダイエット成功のための基本原則を倫理的な諸規則の実践に当てはめようとする「徳ある人」たちが現れたのである。つまり、体の健康を保つための諸規則の実際の効果的な適用のための原則を、魂の健康のため応用する人たちが登場したのである。
 しかも、自分をコントロールし、不慮の事態に備えるためには、諸々の必要に対して、できるだけ簡素であるように努め、あれやこれやの必要に引きずられないようにすることを受け入れなくてはならない。このような態度が、実際、後にセネカによって実践されることになる。
 一言で言えば、このような「魂のダイエット」が哲学の起源の一つなのである。

 

 


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(8)― 古代ギリシアのダイエット批判

2015-11-19 05:24:57 | 読游摘録

 古代ギリシアの都市国家でダイエットが大流行し、それが過熱して行き過ぎたダイエットという社会現象を引き起こしたのは、まるで現代と同じである(つまり、人間は、この二千五百年間、少なくともこの点に関して、まったく進歩していない、ということですね)。
 そして、その行き過ぎたダイエットに対する批判も、すでに古代から始まっている。哲学者たちもこの問題について黙ってはいなかった。どのような点を哲学者たちは特に批判したのであろうか。
 ダイエットの専門家たちは、体に関する法則に適っていることだけが目的であるような生き方を勧める。そこに哲学者たちの批判は集中する。プラトンなどは、ダイエット療法を医学の一部として認めることさえ拒否している。体のことばかりを気にする行き過ぎた「健康第一主義」が、徳ある生活の妨げになると批判している(プラトン『国家篇』第三巻参照)。
 体の健康ばかりを気遣うことがもたらす最も嘆かわしい結果は、プラトンが言うには、真の自己すなわち魂に関する省察と実践、つまり、まさに哲学することそのことが困難になるということである。なぜなら、体のことで頭が一杯なのに、さらに魂のことについて考えたりしたら、頭を疲れさせるだけだし、目眩を引き起こすかもしれないし、そんな体に良くないことが起るのは哲学そのもののせいだと、ダイエットにうつつを抜かしている人たちは安易に考えてしまいがちだからである。
 彼ら・彼女たちは、体のことばかりを考え、体のどこかが具合が悪いとそのことばかりが気になる。そんな状態だから、自らの行いの善し悪しなど、できるだけ考えないようにあらゆる手段を尽くす。つまり、身体的「健康第一主義」の人たちは、哲学から最も遠い人たちなのである。
 そればかりではない。とにかく自分の体のことしか考えず、自分の魂の配慮さえ怠って顧みない人たちなのであるから、当然のこととして、他者に無関心になる。ましてや、政治など、どこ吹く風、ということになる。
 このような「健康人」の危険は、いとも容易く政治家のまやかしの言説を信じこんでしまうことである(問題はもちろんそれだけではないが、その他の点についてはここでは触れない)。自分に考えさせようとする「耳障り」な言説(哲学はその最たるものですね)は、一切これを避け、「体にいいこと」ばかりを求めているのであるから、「耳に心地よい」言説には、たちまちうっとりとしてしまう。
 民衆を自分たちの利権に都合よく操作しようとする悪しき為政者たちは、皆そのことをよく知っている。現代日本にもそういう為政者たちがいることを私が今さらここで言う必要はないであろう。

 

 


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(7)― 古代ギリシアのダイエット

2015-11-18 04:55:28 | 読游摘録

 アドの本の第一部第三章は、広い意味での精神的教導としてのストア哲学に至るまでの歴史的背景を辿り直している。その中に、« La diététique » と題された節がある。この語は、古代ギリシア語の « diaitêtikê » にまで遡る。今日大流行のダイエットの起源とも言えるこの現象が古代ギリシアに登場したのは、紀元前五世紀のことである。
 古代ギリシアのダイエットの目的は、元気にしている人にその健康を保つために必要な生活の仕方を示すことにある。しかし、そのダイエットは、健康生活を送るための諸原則を規定し、それらを列挙するだけにとどまるものではなく、生活全般の管理を司る。特に、生活時間、食事、睡眠などに関わる。より詳しく言えば、睡眠時間、起床時間、服装、朝食の内容、運動時間とその形態、入浴時間、昼食時間とその内容、散歩時間、友人たちとの会話の時間、宴席での振る舞い方などなどについて管理する。
 これらすべてのことに細心の注意を常に払うとなると、もはや仕事をしている時間もない。したがって、あらゆる点で「健康な」生活を送れるのは、極端に言えば、裕福で、何の時間の拘束もない富裕層だけだということになってしまう。
 因みに、現代社会においても、例えばフランスを例に取れば、低所得者層に著しい肥満傾向が見られることも上記の帰結と無関係ではない。このような傾向は、それらの人たちにダイエットに関する知識が欠けていること、食事その他健康生活に必要な配慮をする経済的余裕がない暮らしをしていることによって、ある程度まで、説明できるからである。
 しかも、これらの諸点に関する規則は、場所、季節、年齢、性別、身体条件などによって変わってくるから、ダイエットに関する十分な知識を持ち、それぞれの場合に適切な指示ができるのは、その専門家だけだということになる。この専門家が古代における医者である。
 したがって、医者は、病人ばかりでなく、健康な人たちも、自らの管理下に置くことになる。そればかりではない。ある意味で、医者は、それら健康な人たちを病人扱いすることにもなる。なぜなら、それらの人たちは、自分たちが健康でいられるのは、医師の指示に完全に精確に従っている間だけであり、一度そこから逸脱すれば、たちどころに健康を失ってしまうと常に恐れていなくてはならず、その点で医者につねに依存させられているという意味で、病人と変わりないからである。

 

 

 


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(6)― 魂の世話として不可分な「教化」と「教説」

2015-11-17 05:20:41 | 読游摘録

 セネカにとって、哲学の二つの部分 ―「教化」と「教説」― はどちらも不可欠であるが、それは魂を上手に世話するためである。
 この観点から、セネカは、前者を無視し、後者だけが哲学の名に値すると主張するいわゆる「哲学者」にも、逆に後者を無益と考え、正しく行動するためには前者だけで十分だとする「道徳家」たちにも、反対する。
 この「教化」と「教説」との不可分・不可同の関係は、多くのストア哲学者たちによって共有されていた根本的なテーゼである。アドはその点を特に強調する。

La notion de philosophie couvre donc non seulement le domaine théorique qui comprend toute l’étendue de leur système philosophique, partie qui de notre temps est la seule à être désignée par le terme « philosophie », mais aussi tout un ensemble de méthodes psychagogiques au sens moderne, rassemblées généralement de nos jours sous la notion de « direction spirituelle » (I. Hadot, op. cit., p. 27).

 哲学という概念は、ストアの哲学者たちにとっては、彼らの哲学体系の全域を含む理論的領域 ― 今日はそれのみが「哲学」という言葉によって指し示される部分 ― だけをカヴァーするものではなく、「精神的教導」という概念の下に今日では一般的に括られる、現代的な意味での応用心理学的教育法の全体をもカヴァーしている。
 ストア派の哲学においては、セネカによれば、現代では互いにまったく切り離されてしまっているこれら二側面が一つの全体を形成しており、その全体こそが哲学なのである。
 アドが博士論文のタイトルを、『セネカと魂の指導のギリシア・ローマ的伝統』[Seneca und die griechisch-römische Tradition der Seelenleitung]としたのは、当時の古代哲学研究ではまったく等閑視されていた、古代哲学の本質的側面としての「精神的教導」を強調するためであり、もう一方の側面である思想体系としての哲学を軽視したからではなく、ましてや無視などはまったくしていなかった。アドは、両側面の不可分性・不可同性を主張しているのである。
 ところが、それにもかかわらず、当時は、ストア哲学を狭い意味での「精神的教導」と同一視しているという、無理解な非難を受けたり、意図的とも思われる歪曲の被害者ともなったりしたことが一再ならずあったようである。そのような研究上の「災難」[mésaventure] は、後に彼女の夫となるピエール・アドの上にも降りかかった。体系的言説としての哲学に対する「反哲学的な権能剥奪」[destitution antiphilosophique] という、大仰なだけでまったく的外れな非難もあったという。

 

 

 

 

 


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(5)― ストア哲学の二つの部分(2)「教説」

2015-11-16 05:37:37 | 読游摘録

 ストア哲学は、「教化的部分」(« partie parénétique »)と「教説的部分」(« partie dogmatique »)とからなる。これがセネカの基本的なテーゼである。前者については、昨日、ルキリウス宛書簡第95番に基づいて記述されているアドのテキストを摘録した。今日は、後者についての記述を瞥見する。
 「教説」の目的は、「教化」と違って、それぞれの立場に応じて個々人がそれにふさわしい行動をするための教えを与えることではない。「教説」は、人間の実存の全体にまで拡張される確信を授けることがその目的である。より詳しく言えば、人がそれにしたがって己の諸々の行動を導くことができ、それに鑑みて自分のしたことが善いことだと確信できる行動原則を与えることが「教説」のなすべきことである。

Les prescriptions enseignent ce que l’on doit faire, les dogmes comment (c’est-à-dire dans quel état d’esprit) on doit le faire ; en effet, les dogmes présentent à l’homme le but de son existence, elles définissent ce qu’est pour lui le bien suprême, celui auquel il doit aspirer et que toutes ses paroles et actions doivent prendre en considération, tout comme les marins s’orientent dans les courses à l'aide de quelque astre (I. Hadot, op. cit., p. 26).

「教化」が与える諸々の教えは、人がしなければならないことを教示する。「教説」は、人がいかに(つまり、どのような心の状態で)それをするかを説く。実際、「教義」は、人にその存在目的を示し、人にとっての最高善が何かを定義する。この最高善とは、人がそれを切望し、その人のすべての言動が考慮しなければならないものである。それは、ちょうど、船乗りが航海中に或る天体の助けを借りて方向を定めるようなことである。


 


リス君、この秋、初お披露目、激写

2015-11-15 11:47:05 | 写真

 昨日は、番外編として、その前日のパリ同時多発テロについて書いた。次第に実行犯たちの像がはっきりしてきているが、この未曾有の大惨事について分析するにはまだ情報が十分でもないし、このような深刻な話題について連日書くのも辛い。
 昨日は、テロの衝撃で、深夜から早朝にかけての数時間、何も手につかなかった。ネットでテロのニュースを追いながら、暗澹とした気持ちだけが心を満たしていった。
 それでも、21日に迫ったシンポジウムの発表原稿を仕上げようと、日課の水泳の後、朝から結論の執筆に取り掛かり、一段落したところで昼ご飯にした。食後、コーヒーを飲みながら、ふと書斎の窓から外をみると、すぐ近くの枝で、小栗鼠が何やら木の実を食べているではないか。
 前日の午後、枝から枝へとサーカスのアクロバットのように伝っていくのを一瞬見かけたから、この秋の本当の初お目見えは昨日だっのだが、とても写真を撮る余裕などなかった。
 ところが、昨日は、リス君も食事中で、枝の上でじっとしている。これぞシャッター・チャンスとばかり、やおらカメラを手に取り、窓をそおっと開けてベランダに出る。リス君はもう夢中でカリカリ木の実を食べている。ズームで見て、胡桃を食べていることがわかった。どこで手に入れたのだろう。小さな細長い指で巧みに殻をしっかり抑え、前歯で実を砕いている。もう真剣そのものである。美味しくてしょうがないのだろう。途中で殻の半分を落としてしまい、残念そうに下を覗き込んで探していたが、諦めたのか、また残り半分をカリカリ食べ始めた。その間およそ二十分。結構食事に時間をかけるものである。胡桃一個は、彼にとって大ご馳走だったのだろう。
 設定をいろいろ変えながら、50枚ばかり激写する。下の写真は、その中で比較的よく撮れていたものである。

                  


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(4)― ストア哲学の二つの部分(1)「教化」

2015-11-15 10:42:40 | 読游摘録

 摘録を続けている Ilsetraut Hadot の本の第一部第二章は、« « Parénétique », « dogmatique » et direction spirituelle » と題されており、ストア哲学を構成する二つの部分について、セネカのルキリウス宛書簡第94,95番に基づきながら、両部分それぞれの内容と両者の密接不可分な関係を明快に説明している。

 その二つの部分は、同章のタイトルにもあるように、それぞれ « parénétique » « dogmatique » と規定されるが、前者は « pratique »、後者は « spéculative » ともセネカ自身によって言い換えられてもいる(ルキリウス宛書簡第95番第10節参照。ただし、Robert Laffont 社の « BOUQUINS » 版の仏訳では、前者は « active » と訳されており、この方がラテン語原文に忠実である)。しかし、今日の通常の意味での「実践的」と「思弁的」とにそれぞれ対応させ、後者のみが本来の哲学だ考えると、ストア哲学の要諦を読み違えてしまうことになる。
 同書簡の当該箇所を見てみよう。

Praeterea nulla ars contemplativa sine decretis suis est, quae Graeci vocant dogmata, nobis vel decreta licet appellare vel scita vel placita; quae et in geometria et in astronomia invenies. Philosophia autem et contemplativa est et activa: spectat simul agitque. Erras enim si tibi illam putas tantum terrestres operas promittere: altius spirat. Totum inquit mundum scrutor nec me intra contubernium mortale contineo, suadere vobis aut dissuadere contenta: magna me vocant supraque vos posita (Epistulae morales ad Lucilium, Liber XV, 95, 10).

 哲学は、同時に « cotemplativa » であり、« activa » なのである。今日のところは、後者に対応する « parénétique » の意味だけを確認しておこう。
 まず、 Le Grand Robert によれば、この形容詞は、« parénèse » という名詞の派生語で、この名詞自身は、ラテン語の « paraenesis » を直接の語源とし、このラテン語は、ギリシア語の « parainesis » の音写である。このギリシア語の意味は、(善き行いを)「説き勧めること」(exhortation)である。そこで、« parénétique » は、「教化的」と訳すことにする。
 先回りして言っておけば、« dogmatique » の方は、「教説的(あるいは教義的)」と訳すことにする(今日のフランス語でのこの語の普通の意味、「教条的」「独断的」は、ストア哲学においてこの語の指し示すことがらのまさに反対であることに注意されたし)。
 哲学の「教説的」な部分は、何をその目的とするのか。一言で言えば、それぞれの個人が社会の中でのその立場にふさわしい行動ができるような諸々の「教え」(« praecepta »)を与えることである。
 それらの教えは、しかし、ただそれとして与えられるだけではない。次のような諸形式を取る ― « suasio », « consolatio », « exhortatio », « inquisitio causarum », « ethologia »。それぞれ、「助言」「慰め」「奨励」「原因究明」「徳論」(種々の徳行と悪行それぞれの特徴の詳細な記述)と訳すことができる。セネカは、ここでポシドニウスの説に従いながら、これらを列挙している。

 

 


2015年11月13日金曜日のパリ無差別テロについて ― 狂信のメカニズム

2015-11-14 18:53:13 | 番外編

 昨晩というか、たまたま深夜にのこのこ起きだして、ネットでニュースのページを開いて、驚愕、呆然とした。最初は、何か質の悪い冗談かと思ったくらいである。しかし、各紙のサイトを数時間に渡って見続けていると、犠牲者の数がどんどん増えていく。1月7日のシャルリ―・エブド襲撃も大きな衝撃であったが、今回の犠牲者は、一桁多い(ヨーロッパ中央時間現在時午後六時の時点で、死者128人)。負傷者の中には深刻な状態の人たちもいるようだから、まだ犠牲者の数は増えるかもしれない。
 すべての犠牲者の方たちに心からの哀悼の意をここに表する。それら犠牲者の方々のご家族・親しい方たちにはお悔やみの言葉さえ見つからない。
 精確なところはまだよくわからないが、フランス大統領は、ISの犯行と断定した。実行犯たちは、国内外の共謀者たちの協力を得ながら、周到に準備計画した上で同時多発テロを実行したとのことである。
 シャルリ―・エブド襲撃との違いは、今回は、完全な無差別テロだということである。その点で、衝撃度は、2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロに匹敵する。街中のカンボジア料理店がターゲットになった理由はよくわからないが、多数の観客が観戦し、フランス大統領も観戦中のサッカーの独仏親善試合の最中に自爆テロを実行しているのは、とても偶然のはずはなかろう。アメリカのヘビーメタルバンドのコンサート会場が襲撃対象となったのも、狭い場所に多数の人が詰めかけ、身動きが取りにくく避難しにくい場所というのがその選択の少なくとも一つの大きな理由であろう。犯人の一人は、舞台上に上がって、客席に向かって自動小銃を乱射し、床に身を伏せた人たちにさえ、情け容赦なく銃弾を浴びせたという。
 明らかに、無差別的にできるだけ多くの犠牲者を出すことそのことが今回のテロの目的の一つであったと考えられる。犠牲者の中には、犯人たちの同郷人だっているかもしれないのである。何が犯人たちをこのような未曾有の犯行に駆り立てたのか。
 犯人たちは、「アッラーフ・アクバル」(アラビア語で「神は偉大なり」)と叫びながら、テロを実行したとの証言がある。本来のイスラム教信仰からは完全に逸脱しているどころか、そう叫んで犯行に及ぶことで、イスラム教そのものを否定している、このような狂信のメカニズムが機能し続ける限り、テロはなくならないだろう。日本についても、過去、そのような狂信のメカニズムはなかった、とは、誰も言えないだろう。
 すべての先進諸国はフランスとの連帯を表明し、アメリカを中心としてこれまで以上に徹底したテロリスト殲滅作戦を展開することであろうが、いくら空爆を繰り返してもテロはなくならないだろう。仮に現在生存するすべてのテロリストの抹殺に成功したとしても、狂信のメカニズムとその「潤滑油」となっている他なるものへの憎悪が人間の心に残っているかぎり、またどこかでテロは起るだろう。
 国際都市「花の都」パリというヨーロッパ社会の中心の一つが、その周縁に押しやられた人たちの心に深く巣食った憎悪をさらに駆り立てる増幅装置を操る組織によって襲撃されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(3)― キリスト教の霊的教導は古代の精神的教導に根ざしている

2015-11-14 17:35:54 | 読游摘録

 古代における哲学的実践の中に広く見出される習慣に対して、十六、七世紀にキリスト教世界のはっきりと限定された階層で用いられていた言葉である « direction spirituelle » あるいは « exercice spirituel » を適用することが受けるであろう、時代錯誤的な呼称だとの批判に対して、Ilsetraut Hadot は、『セネカ、精神的教導と哲学の実践』の第一部 « Les fondements historiques et philosophiques de la direction spirituelle chez Sénèque » 第一章 « La notion de direction spirituelle» の冒頭でまず弁護し、その正当性を主張している。

Mais les pratiques chrétiennes de la direction spirituelle s’enracinent en fait dans une tradition antérieure au christianisme. Et d’ailleurs, le phénomène que représentent l’éducation et la formation d’un disciple par un maître ou plus généralement les efforts systématiques pour exercer une influence rectrice et curative sur l’état psychique d’autrui, est extrêmement répandu dans les traditions philosophiques et religieuses les plus diverses et, pour désigner ce phénomène, on utilise d’habitude précisément le terme de « direction spirituelle », bine que ce terme technique soit absent dans l’Antiquité (I. Hadot, Sénèque. Direction spirituelle et pratique de la philosophie, op. cit., p. 21).

 日本語では、キリスト教世界の一部にはっきりと限定された実践としての « direction spirituelle » や « exercice spirituel » は、それぞれ「霊的教導」「霊操」(後者は、イグナチオ・デ・ロヨラの Exercitia spiritualia の邦訳のタイトルでもある)と訳されるから、「霊」あるいは「霊的」という語を避けて、「精神的」と訳せば、キリスト教的伝統に限定された用法と古代から広く見いだせる哲学的実践の性格を語る場合とを一応言葉の上で区別することができる。
 上の引用からわかるように、そもそも、キリスト教における霊的教導は、キリスト教以前の伝統に根ざしている。師による弟子の教育・養成として、より一般的に他者の精神状態に矯正的・治療的影響を行使する系統だった努力として見られる現象は、きわめて多様な哲学的・宗教的伝統のいたるところに見られるものであるから、それらを総称して、「精神的教導」と、この語に該当する概念が古代には見出されないにもかかわらず、慣習的に呼ぶのである。



『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(2)― 古代の哲学的実践の知識によって自覚される現代の特異性

2015-11-13 07:13:04 | 読游摘録

 

 昨日から摘録を始めた Ilsetraut Hadot の Sénèque. Direction spirituelle et pratique de la philosophie には、同書が収められている叢書 « Philosophie du présent » の監修者の一人であり、Hadot 夫妻の長年の友人でもあるシカゴ大学哲学教授の Arnold I. Davidson と、同じく監修者の一人である Daniele Lorenzini とによる、連名の前書きが巻頭に置かれている。僅か二頁ほどの短い文章だが、そこから二箇所引用する。

À première vue, c’est précisément l’inactualité de la pensée de Sénèque qui nous montre notre spécificité moderne : en tant que modernes, nous avons perdu l’idée même d’une direction spirituelle philosophique. Par conséquent, toute tentative d’assimiler la philosophie de Sénèque à notre forme de pensée serait à la fois une déformation de Sénèque et une déformation de nous-mêmes (p. 5).

 セネカの思想が非現代的であることがまさに現代の固有性を私たちに示しもする。私たちが今日馴染んでしまっている思考の形態にセネカの哲学を同化しようとすることは、したがって、セネカの思想を歪めるばかりでなく、私たち自身の思考をも歪めてしまう。

Or, le livre d’Ilsetraut Hadot constitue un instrument indispensable qui nous permet de penser la pratique de la philosophie comme direction spirituelle. C’est à nous, alors, de faire le jugement de valeur : pouvons-nous relier, avec toutes les modifications nécessaires, cette pratique philosophique à notre vie quotidienne ? Ce n’est pas une tâche facile, mais la possibilité même de l’envisager dépend d’une connaissance détaillée de la pratique de la direction spirituelle dans l’Antiquité. Ainsi, en conservant l’écart qui nous sépare de Sénèque, nous rendons, paradoxalement, son inactualité pertinente pour notre actualité (p. 6).

 アドのセネカ研究は、古代ローマにおいて精神的教導としての哲学がどうのように実践されていたかを私たちに教示してくれる。そのような哲学的実践が、必要な変更を加えた上で、今日私たちの日常生活の中で可能かどうかを問わねばならないのは私たちの方である。それは容易な作業ではないが、そのために必要な古代における哲学的実践についての精確な知識をアドの本が与えてくれる。その知識によって、セネカから私たち現代人を隔てる距離を認識しつつ、セネカの「非現代性」を私たちが生きる現代の特異性を自覚するための的確な尺度とすることができるだろう。