何か直接のはっきりとしたきっかけがあったというわけでもなく、かといって、何の脈絡もなく出し抜けにというわけでもなく、今日、つらつら考えたことがあります。いつまで続くかわからないコロナ禍によってメンタルがかなり疲弊していることがそういう考えに導いたということもあるのかもしれません。
何を考えたかと言いますと、本当に何を今更という話なのですが(多いなあ、この手の話)、いつ死んでもいいように生きなきゃいかんなあということです。何か不治の病のせいで今すぐ死にそうだからそう考えているということではありません。少なくとも自覚的にはそういう兆候はありません。病気らしい病気(ってどんな病気?)ひとつしたことなく、めっちゃ健康です(バカは風邪を引かないってこと?)。この世をはかなんでいるのでもありません。来世に期待しているのでもありません。もっと現世的かつプラグマティックな理由から死の準備が必要だと考えるのです。
いつ死ぬかわからないのは誰でもそうです。今このブログを書いている最中に、脳梗塞や心筋梗塞で突然倒れてそれっきりということだってあり得ないことではありません(でも、いやだなぁ、それは)。自宅で死んでいて、誰にも気づかれず、プログラムされた遠隔授業にアクセスできない学生たちが不審に思って大学に連絡し、死後数日、あるいは一週間以上経って、ようやく遺体が発見されるという場合も想定可能です(これもいやですけど、でも、気づいてもらえるだけましか)。
これらの想定可能な死に方(もちろん他にもいくらでもありますが)に対して、今から何を準備しておくことができるでしょうか。それは、自分の死後、できるだけ人様に迷惑を掛けないように準備しておくという一事に尽きます。こんなネガティブ思考を一般化するつもりはありません。これはもっぱら私個人の思いです。
例えば、あまり想像したくないことですけれど、自宅で死んでいて数週間後に発見された場合、その後の処理はいろいろと大変なわけです。そうなったらしゃーないやんというところもありますが、死ぬ前からそうなった場合を想定して、できるだけ人様に迷惑を掛けないように準備しておくことは不可能ではありません。いくら自宅であっても、周囲に耐え難い悪臭を放つ腐乱死体で発見されるより、どこか知らない場所で行き倒れて死ぬ方がましだと私は思います。
「とく死なばや」とはさらさら思いません。ただ、「いつ死すとも可なり」の原則に従って、死の準備に直ちに着手しようと思い決めた今日なのでありました。
一つ仕事をクリアして、机を片づけたりしている時、ある部分崩しておかなくては、死んでしまうのでは・・ 仕事場も家も次飛び降りるに十分な高さがありましたね。
また、明日は大地震で仕事が止まる理由がつくんだとかおもっていました。
今は半身不随にいきなりなった時とか、眼が見えなくなったときとか、いろんなパターンでどう生きるかを考えています。いきなり強度の認知症になった時がとても難しい(脳腫瘍の放射線治療で一気に脳委縮した人のモデルがあります)。
あの頃の家も仕事場も十分