内的自己対話-川の畔のささめごと

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古代日本文藝史における「片恋文化圏」、あるいは恋の根本的構造契機

2017-11-21 06:48:18 | 詩歌逍遥

 成就した恋はもはや恋(孤悲)ではない。恋は本質的に「片割れ」なのだ。
 それは昔も今も変わらない。
 伊藤博はその『萬葉集釋注』において、昨日取り上げた額田王歌と鏡王女歌との唱和二首の評釈の中でこう述べている。

「恋」はすなわち「待つ恋」(片恋)でもある。だから、「待つ恋」は万葉の相聞歌が歩みを開始すると同時に抒情の中心課題となった。しかし、「待つ恋」が相聞歌のはなばなしい主役を占めるのは、やはり奈良朝に入ってからである。天平の時代に入ると、大伴坂上郎女とのその周囲の人びとのあいだでは、「待つ恋」が作歌の主題にさえなり、そこに、虚構として片恋の歌を楽しむ片恋文化圏ともいうべき世界が構えられるに至った。

 しかし、このことは、「待つ恋」が単に作歌上の主題として当時流行したということには尽きない。もしそれだけのことだったとしたら、当時作られた歌が、今も私たちの心を打つということはないだろう。それらの歌は、どこかで人間的真実に触れているからこそ、今も私たちを感動させる。
 上野誠は、このような女流文藝を「待つ女の文芸」と呼んでいる(『万葉集の心を読む』角川ソフィア文庫、2013年)。
 もっとも、当時の婚姻形態は妻問い婚だったわけだから、その枠内では女は待つしかなかった。だから、「待つ恋」は当時の和歌に限られた主題ではない。平安朝の『蜻蛉日記』も『和泉式部日記』もこの範疇に入るだろう(ただ、後者には、そこに収まりきらない行動が見られはするが)。
 いや、待て。「待つ」ことは、奈良朝・平安朝の婚姻形態に制約された女性たちに限られた特異な存在様態でもないだろう。待つのは女に限られたことでもないだろう。
 むしろこう言うべきではないだろうか。「待つ」ことは、恋の根本的構造契機だ、と。












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