内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

蝶の影

2013-08-10 07:00:00 | 詩歌逍遥

 暑い。実に暑い。自分の出身校である区立中学校が実家の坂下、徒歩1分のところにあるが、夏休み中、プールの一般公開を実施していて、火曜日から毎日通っている。屋上にある屋外プールなので、灼熱の太陽が直に照りつける中、毎回午前中一時間半ほど5分間の休憩を挟んで泳いでいる。おかげでたちまち全身日焼けしてしまった。利用者は数人しかおらず、快適に自分のペースで泳げるのが嬉しい。一回2時間220円。ありがたい話である。
 この猛暑の中、6月18日の記事で話題にした友人夫婦を昨日から泊まりがけで鎌倉の自宅に尋ねた。彼らは1歳4ヶ月の元気一杯の息子と長谷寺裏の高台で3人仲良く暮らしている。ダイニングからは長谷寺の屋根越しに逗子方面の海が見える。いつもなら、窓を開け放つと、朝夕心地良い海風が吹き抜けるのだが、昨晩はその風も吹かず、やむなく冷房を入れていた。夫妻の心尽くしの手料理に舌鼓を打ちながら、一晩歓談。ご子息もよく懐いてくれて、もうすっかり友だちになってしまった。私は小さい子供が大好きで、何時間一緒に遊んでいても飽きない。子どもたちにもそれがわかるようで、特別こちらから愛想よくしなくても、向こうから寄ってくる。今日の昼前、鎌倉駅近くの甘味処で甘くて冷たいものを皆で食べてから、鎌倉駅前で再会を期して別れた。
 それにしても、この異常とも言いたくなる暑さである。そこで、しんと空気が静まりかえるような自由律俳句1句と、その句について私がもともとはフランス語で発表した鑑賞を、一部変更して日本語で紹介する。句そのものは尾崎放哉の有名な句の一つであるから、ご存じの方も多かろうと思う。

 一日物云はず蝶の影さす

 詩人は、使用人としてそこで働いている寺の小さな部屋に、独り、座っている。部屋を外界から隔てている障子は、ぴたりと閉められている。そこに、終日、詩人は、黙って端座している。すると、ある瞬間、障子に蝶の影が現れ、瞬く間に消える。この瞬間は、為すことなく過ごした長い一日の終わりに訪れた。障子は室内空間と外部空間を隔てると同時に、その両空間を一つに結ぶ仲立ちでもある。しかし、それだけではない。この一句において、詩人自身が不可視のスクリーンになり、そのスクリーン上に外部世界での出来事が、詩人の意志とは一切関わりなしに、投影される。蝶は詩人の内面空間を横切ったのである。そこには「身体を限界づけるいかなる切断もなく」、蝶と詩人とは、「一つの空間で一体と化し、そこでは、不可思議にも守られた、純粋でとても深い意識の唯一点があるのみ」であるとリルケなら言うであろうか。
 放哉にとって、座るとは、独り座ることである。来たるべきものが自ずと来ること以外には何も待たずに、独り座ることである。一切の装飾性を削ぎ落した放哉の詩的言語は、ある一つの自然現象をそのまま映す。詩人の存在は、知覚世界において1つの単純な眼差しにまで純化され、その知覚世界に自ずと現れるものにそのまま現れるに任せる。己自身のためのいかなる慰藉も求めず、絶対の孤独を詩人は生きる。ところが、まさに逆説的なことに、この純粋な詩的経験において、〈救済〉は自ずと到来し、一つの詩作品として形を成す。しかし、それは放哉個人が救われたということではない。詩人自身が救われたのではない。詩人は、自らの死をも含めて、自ずと到来するものをそのまま受け入れただけである。〈受け入れること〉そのことがそこで成就したのである。


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