内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

言葉と物の陰に潜む存在の声なき〈聲〉を聴く耳が再び賦活されることを願って ― 夏休み日記(35)

2017-08-20 14:31:27 | 雑感

 今朝は六時起床。曇天下、九時からプール。その時点で外気温十七度。三十分ほど泳ぎ、コースが混んできたところで上がる。日中はときどき晴れ間が広がる。最高気温は、しかし、二十二度止まり。
 今回日本から持ち帰った本の中の一冊に詩人吉増剛造の詩集『オシリス、石ノ神』の仏訳 Osiris, dieu de pierre, Circé, 1999 がある。この本の開きには吉増剛造氏直筆の献辞が記されている。この仏訳刊行時に、ストラスブール大学日本学科と浅からぬ縁がある同氏がクレベール広場に面した書店で朗読を行ったときにいただいたものだ。私の名前が頁中央に大書してあり、その右脇に左から右へと縦書きで「どうぞこれからも、わたしたちの学びのためにがんばって下さいませ。ありがとうございました。’99 6.18」と細いが強く靭やかな字体で記されている。一字一字丁寧にゆっくりと書いてくださった筆使いが今も目に浮かぶ。
 当時私は日本学科の語学講師の一年目を終えようとしているところだった。哲学科博士論文課程二年目で、メルロ=ポンティの言語論について博論を書こうとしていたが、まだ問題意識が漠然としたままでとても書き始められる状態ではなかった。その翌年には、フランス現象学を使って西田哲学を読み解くというテーマに変更することになる。
 献辞をいただいたときからもう十八年が経過している。その間、私は何をどう頑張ってきたというのだろうか。哲学を学ぶ者として何一つ仕事らしい仕事をしてない自分が恥ずかしい。言葉に対する感覚がどんどん鈍くなってきている。言葉の陰に潜む〈聲〉を聴き取る聴覚が弱まっている。
 詩人の言葉が私の耳を再び賦活し、言葉と物の陰に潜む存在の声なき〈聲〉がいささかでも聴き取れますように。












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