内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモーヌ・ヴェイユを読みながら現代日本社会のことを考えていたら、初期キリスト教グノーシスに遡らざるをえなくなった

2019-07-15 22:31:02 | 哲学

 ここ数日間、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を拙ブログで話題にしてきた。そうするきっかけは、いわば職業的な必要性にあった。だが、『陰翳礼讃』を繰り返し読んでいるうちに、興味深い問題がいくつも見えてきて、記事を書いていて楽しかった。九月から学生たちと読むのが楽しみである。
 それと並行して読んでいたのは、シモーヌ・ヴェイユであった。フランスに来る前からヴェイユにはずっと関心を持っていたし、折に触れて読んでもいた。しかし、ここ数日読んでいたのには別に理由があった。漠然とした言い方だが、現代日本社会に生きる困難さの意味を考えるために、ヴェイユの思想はとても大切だと思ったのである。
 ヴェイユが1934年から翌年にかけて工場労働者として働いていた時期に書いていたノート・書簡・雑誌に掲載された省察などを読みながら、ヴェイユがその経験を通じて過酷な現実の中から見出そうとした真理について考えていた。しかし、まだ話題できるほどこちらの考えがまとまっていない。
 そうこうしているうちに、これは私にはよくあることなのだが、ちょっと気になったことを調べようとしてそちらに深入りしてしまって、収拾がつかなくなっている。それは職業的義務とも個人研究のテーマとも直接のかかわりのない問題だから、放っておけばよさそうなものだが、それでは済まされない大きな問題に行き当たってしまった。
 ヴェイユは、1940年あたりから中世におけるキリスト教異端の一派カタリ派に強い関心を示し、共感もしていた。それはなぜか。シモーヌ・ペトルマンの伝記によれば、カタリ派の主張する旧約聖書批判に自らのそれとの一致点を見出したからである。より積極的な言い方をすれば、ヴェイユは、カタリ派の思想の中に、ローマ帝政期以降キリスト教がその拡大とその権威の確立とともに失っていった可能性、ローマ帝政期以前の非キリスト教思想とキリスト教との統合の可能性を見ていた。
 このカタリ派のことをよく理解するためには、グノーシス主義の歴史を知らなくてはならない。ペトルマン自身、グノーシスについて優れた研究を遺した哲学史家であり、その一端がヴェイユ伝にも披瀝されている。
 そこを再読してしまったのが「運の尽き」である。グノーシス研究は、ドイツが本場であるが、近年は日本でも優れた研究がいくつか出版されている。電子書籍で入手できるのは、大貫隆『グノーシスの神話』(講談社学術文庫2014年、初版岩波書店1999年)と筒井賢治『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』(講談社選書メチエ2004年、電子書籍版2015年)である。即購入(ちょうど HONTO で講談社の本の25%割引セール中だったし)。
 今朝からずっとこの二書を夢中になって読んでいた。他にも考えるべき問題があるというのに、まことに困ったものである。












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