内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

永遠の今の自己限定の形象としての夕波千鳥

2019-06-21 18:45:15 | 詩歌逍遥

近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ (巻三・二六六)

 言わずと知れた柿本人麻呂屈指の名歌である。第二句の「夕波千鳥」は、人麻呂の手になるもっとも美しい造語の一つである。原文でもこの通りの漢字四文字。たった四文字で、夕暮れ時、波間に群れてたわむれる、あるいは湖上を飛び交う千鳥の姿が見事に立ち現れる。第一句によって、場所は限定されており、琵琶湖上の広い視界の中にこの光景が現成する。その光景の中の千鳥に「汝」と呼びかけることで、たった一羽の千鳥がズームアップされる。その千鳥の呼子のような細く高い鳴き声が響く。すると心が撓み萎れるほどに〈いにしへ〉のことが思われる。
 この〈いにしへ〉は、この歌においては近江朝以外ではありえない。今を去ること二十年ほど前には、湖畔の高台に壮麗な大殿・大宮が聳えていた。それが今はあとかたもない。
 この歌は、薨じた都を偲び、栄枯盛衰を思い、人の世の無常の深さを詠っているのだろうか。あるいは過ぎ去った日々へのノスタルジーだろうか。しかし、撓み萎れる心に〈いにしへ〉は自ずと現前している。夕波千鳥という形象は、無常の象徴でもノスタルジーの誘因でもない、と私は思う。夕波千鳥は、今、ここに、いる。私はそれを、今、見ている。その鳴き声を、今、聞いている。
 「現在が現在自身を限定することによつて、過去と未来とが限定せられるのである、現在といふものなくして時といふものはない」(西田幾多郎「永遠の今の自己限定」)。夕波千鳥は、永遠の今の自己限定の具体的形象として湖上に漂っている、そう私はこの歌を解釈したい。











最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
傑作ですね~~ (funkytrain)
2019-06-22 16:49:53
ご無沙汰しております。
人麻呂いいですね~。

「夕波千鳥は、今、ここに、いる。私はそれを、今、見ている。その鳴き声を、今、聞いている。」

とのこと。この歌にかぎらず、名作、傑作はつねに現今直下の出来事となるのかな、という気がします。

さて、古代の人が「うみ」と言うばあい、流れる川の水に対して動かぬ水をおそらくは現代人であるわれわれ以上に感じたのではないかと思われます。
うみの「う」は居と同根だと「字訓」にありますが、そういう意味で、「居水(うみ)」というものがあったのかな、と。

川が一般に諸行無常を表すとすれば、動かぬ水としての「うみ」はある種の変わりなさ、あるいは静けさを喚起するのかなと。

そこに千鳥がきて鳴く。「鳴く」は「音なく(ねなく)」でもあって、「うみ」の一語がもつ静けさの磁場を切り裂く。切り裂かれたことによって「うみ」の静けさは破られるどころか、逆にいっそう深まる。

静けさの深まりに、いわば拮抗するような仕方で「いにしへ」が浮上してくる。あいも変わらぬ「近江のうみ」と今は亡き大津の宮との対比。

両者を一挙に現前させる鳥の鳴き声。まことにもって見事な歌ですね~~。
返信する

コメントを投稿