内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

死せるものの美の永遠化、倒叙と視点の転回とに拠る劇的効果

2017-11-23 23:36:03 | 詩歌逍遥

 『万葉集』巻三・四二九-四三〇は、柿本人麻呂が出雲娘子が火葬にされた際に作った歌だと題詞にある。その詞書の中では死因は溺死とされている。詠まれた年は研究者たちによって七〇一年と推定されている。『続日本記』によると、文武天皇四年(七〇〇)三月に道照和尚が没したとき、弟子たちが遺言によって火葬に付したのが、日本での火葬の始まりだという。とすれば、その翌年の火葬はまだまだ珍しいことだったはずである。

山の際ゆ 出雲の子らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく

八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ

 この二首、出来事の順序とは逆になっている。前首は、出雲娘子の火葬の煙を吉野の山の霧と見ている。後首では、出雲娘子が川で溺れ死んだときのさまが美しく表現されている。前首では、人麻呂の目は上に向かい、山の上を見ている。後首では、目は川面に向い、そこに漂い揺らめいている出雲娘子を見ている。倒叙と視線の転回によって、劇的効果が強められているのがわかる。
 しかも、采女であった出雲娘子の溺死は不測の事故ではなく、おそらく入水自殺だったと推測される。采女に禁じられた男との密会が露見して、自ら命を断ったのであろう。
 それを「溺死」としたのは、人麻呂の思いやりであろうと『萬葉集釋注』は言う。

思いやりといえば、黒髪が波のまにまに揺れ動くさまは、古代の宮廷女性が地につくほどの黒髪を持っていたらしいことを下地において見れば、まさに、玉藻の動きに似た、切ないけれどもきわめて美しい姿である。そういう歌を後に配したのは、これも娘子の永遠の安らぎを祈る人麻呂の思いやりであったのかもしれない。

 亡くなった者の美しさを歌によって永遠化することも宮廷歌人の大切な役割の一つだったのであろう。














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