内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

普遍的な「良心」に恥じるとはどういうことなのか

2021-03-08 06:15:13 | 読游摘録

 明眼の人あるいは尊敬すべき他者に鑑みて己を恥じるということが成立するためにはどのような理解がその前提になるのだろうか。相良はこう答える。

ここにあるものは人間の良心の一様性の理解である。ここからは、人は何といおうと自分はこうすべきであるという例外者的な生き方の主張は生れて来ない。尊敬する他者の発言、他者の目は、自己に内在する良心を目覚ませるものである。我心に恥じるのも、他者に恥じるのも、この普遍的な「良心」に恥じるのである。この良心は、万人によって自覚されてはいないが、心ある者はそこに目覚めており、われもまた目覚めるべきものなのである。目覚め、しかしてそれによって行為する者が尊敬に値するのであり、自己もまたかかる尊敬に値する武士たるべきであるのである。(104頁)

 自己に内在する普遍的な「良心」とはなんであろうか。その良心をまだ自覚できていない人間がどのようにして心ある他者における良心に気づけるのだろう。他者に対して自ずと懐かれる尊敬の念がその他者における良心ゆえであるとどうしたら確かめられるのだろう。凡愚なる老生にはわからない。
 この良心は尊敬に値する者の人格そのものではない。それは己と他者において自覚されるべき普遍的ななにかでなければならないからである。しかし、もしそうならば、なぜ他者を媒介としなければならないのだろう。己に自覚されていないだけで、己のうちにも本来あるものならば、それが普遍的なものならば、内在的自覚の方法をこそ探すべきで、すでに目覚めた他者に対して己の至らなさを思い知るという「恥を知る」過程は必然的に要請されるものではない。
 この良心は、経験を超えた普遍的価値としてそれ自体で実在するものではないはずである。しかし、己のみでは自覚に至り得ないもの、必ず明眼の他者を手本とし、それを基準として受け入れ、その基準に相応しくない己を恥じることを通じてしか至り得ないものとはなんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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