昨日の記事では、同じ組織に属する傍輩に「異見」する際の常朝の周到な配慮が如実に見られる一節を読んだ。しかし、同じ手法を組織の長である主君に適用することはできないことは言うまでもない。自分自身には「諫言権」のない一般武士が主君に対して何かお諌めしたいことがある場合はどうすればよいのか。この要請から権門の武士たちへの接近が「奉公」の視点から正当化される。
諫言の道に、我其位に非ずは、其位の人に云せて御誤り直る様にするは大忠也。此階の為に諸人と懇意する也。我が為すれば追従也。一方は我ら荷ひ申心入から也。成程成もの也。(一ノ一二三)
(主君へ諫言する権限が家老と年寄役にのみかぎられている以上、自分がそれに相応しい地位にいない場合にはそれ相当の地位の方に代わっていってもらい殿の御誤りが直るようにするのが大忠というものである。このような場合のために多くの人々と親しくしておくのだ。自分のためにするのであればそれはへつらいになる。だがこの場合は、自分が御家を背負って立つのだという真心から人々と親しくするのだ。やればできるものである。)
この箇所への小池氏の注解は、常朝が生きた徳川封建社会の歴史的現実の認識についてだけではなく、およそ「非民主的な」階層社会すべてを射程に収めた見解として、卓越していると私は思う(戦後の「民主主義的」日本社会にはだから関係がない話だと誰が言えるだろうか)。当該箇所全文を引く。
およそいかなる階層社会にあっても、権門有力者への「追従」的接近は不可避的現象である。他方、こうした功利的行動をみずからの信念に徴して潔しとせず孤高を守る〈清廉〉な人々もいる。そして概してこれらの人々はときに古武士の風ありなどと評され、その気概を尊ばれもする。だが常朝の「奉公」哲学の論理からすれば、かれらの孤高は「公」の視座に無自覚なひとりよがりの「私」にすぎず、〈我一人清し〉とするその傍観者的態度は「私の名利」の所為にほかならずとしてするどく弾劾されることになる。常朝が「奉公」の「家職」を捨てて隠遁し漂泊した西行や兼好に筆誅を加えたのもこの観点からであった。「武士業」がならぬがゆえの「奉公」の場からの逃亡者としてである。
諸藩が幕府の政治的介入と奔騰する市場経済という両面の危険性に常時さらされていた近世中期、全藩挙げての「一味同心」の堅固な組織固めこそが至上命題であるからには、藩内上下の交際の円滑化は、ひとりよがりの個人的信念や感情を超越した「公」的視座からの「奉公人」の義務だというのである。すべての「私」を捨てて「公に奉る」とする「奉公」哲学からの必然的帰結であり、「公」的視座の不動の確立といってよいだろう。
「諫言」「異見」がかくも周到に組織人的「志」の公的視点により貫徹されている以上、同じく「御家」(組織)の「奉公人」と見なされる、君主もまたこの「志」の「異見」のネットワークに組み込まれたとしてなんの不思議があろう。(274‐275頁)