内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

忠誠論(三)奉公の可能性の条件の内的・自律的定立としての定言命法的忠誠

2022-01-07 11:41:39 | 哲学

 徂徠からすれば「妾婦之道」と論難されること必定の没我的献身願望を常朝はいかに組織人的倫理にまで昇華させえたのか。この問いに対する答えを得る一つの手掛かりが「御主人より御懇(ねんごろ)に被召仕候時する奉公は奉公にてなし。御情なく、御無理千万成ときする奉公が奉公にて候」(九ノ二四)という一句にある。「ご主人様からご懇意に召し使っていただいているときにする奉公は、奉公ではない。お情けの心もなく、理不尽この上もないときにする奉公が奉公である」(講談社学術文庫版の現代語訳)ということである。
 主人に目をかけられているときにする奉公は、奉公のいわば可能性の条件が主人から与えられている。つまり、奉公人にとって外から与えられている。それは奉公ではないというのだ。奉公のいかなる可能性の条件も主人の側から外的に与えられていないときに為す奉公が真の奉公なのだというのが常朝の組織人的倫理である。つまり、奉公の可能性の条件を、外的条件に依存することなく、奉公人が自律的・内的にいわば定言命法的に定立しうるときにのみ奉公は奉公たりうるということである。
 義合的忠誠成立の必要条件は義への適合性である。この義は、主人からも奉公人からも独立した価値基準である。そのかぎり、義合的忠誠は他律的である。つまり、義に照らして是非あるいは可否を問う余地が奉公人の側にもある。それに対して、情誼的忠誠はそのような外的基準に拠らない。原理的には、忠誠の直接の対象である主人の振る舞いにも左右されない。
 この奉公の自律性に基づいた組織人的倫理は、武田信玄の『壁書』の「忠節述懐、述懐謀反、謀反没落」という一句を軸として展開されている次の一節(十一ノ一三九、底本によっては一三八)において、より具体的かつ明快に示されている。小池氏は、この一節を「地方の古くてせまい『奉公人』社会で鍛えられた常朝の人間知ないし処世知の結晶のような一文」と高く評価している。長い一節なので、小池書の現代語訳のみ引く。

 主君への忠節や同僚への親切などするにあたって、あらかじめ充分な覚悟もなしにすればかえって仇になることがある。このあたりの心の持ち方を武田信玄の『壁書』には「忠節は愚痴に、愚痴は謀反に、謀反は没落にいたる」と記されている。自分ではひとかどの忠節をつくしたつもりで骨を折ってつとめたときに、それにたいする主君からの御褒美もなく上下の気持ちがいきちがってかえって気まずいことになったときは、やがてその気まずさが愚痴となりいや気がさして叛逆心が生まれてくる。はじめから忠節など思いもかけない連中は叛逆など考えないから、なまじ忠節心のある者のほうがこの連中よりも劣ることになる。
 同僚の面倒をみるときもおなじことである。せっかく親切に面倒をみてやったにもかかわらず相手がとりわけ有難うともいわなければ不愉快になり、常識のないやつだと愛想をつかしやがては仲たがいすることになる。これまたはじめからひとへの親切など考えもしない人間より劣ることになる。
 それゆえはじめの覚悟が大事である。御褒美がないからといってすこしもお恨みすることなくいよいよ忠節をつくすべきだし、またこちらが親切にしてやったのに礼もいわずかえって取りちがえてこちらに遺恨をいだくような人があっても、不愉快になどならずいよいよ親切心をおこしてひとのためにつくそうと覚悟すべきである。
 すべからくひとのためになるようなことをするときは誰にも知られぬようにし、主君への奉公はまったく人目につかぬようにする陰の奉公こそが本物である。すこしも期待していなかったのにそういう陰の行為が先方に知られて報われたときには、相手の志がひとしお深く感じられるものだ。このように覚悟して仇に報いるに恩を以てし、陰徳を心がけ陽報を期待しないことである。