内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

心の農耕としての読書

2016-08-03 12:57:55 | 雑感

 私は別に人間嫌いの偏屈者ではない(と思う)が、事実として極端に付き合いが狭く、それを情けなく思うことがしばしばある。それでも、ときには人と会い、会話を楽しみ、人の話を聴くことで蒙を啓かれ、目の前に新しい世界が開かれる思いをする機会に恵まれるということは幸いにもある。昨晩もそんな愉しい一時を恵まれた。
 職業柄、普段から書物と向き合っている時間が長い。ただ、研究に直接関わる書物を研究の必要上から読むときは、どうしてもこちらに今必要なところをこちらの都合に合わせて切り取って読むことになってしまいがちで、それはその書物を全体として読み味わうことからは程遠い知的作業になってしまう。
 だから、研究のためばかりに本を道具として使っていると、沢山の本についての研究上有用な知識をそれなりに蓄積しながらも、読書の愉楽に身を浸す機会は逆に乏しくなっていることにふと気づかされる。道具を器用に使うことには習熟しながら、いつの間にか心が干からびているということにもなりかねない。
 Culture は元来「農耕」「耕された土地」を意味し、cultiver という動詞の原義は「土地を耕す」であることは皆よく知っている。ところが、頭を知識や情報で一杯にしながら、心は荒れ地のまま放置して顧みない人がいる。そういう人と話していると、知識の豊富さや情報量の多さに感心することはあっても、正直なところ、すぐに会話がつまらなくなってくる。
 どうしてだろう。それは、それらの知識や情報は、自分の心を耕すことで天の恵みのように得られた「実り」や「収穫」ではなく、いくら頭に詰め込んでも心の栄養にも肥料にもならない「人工物」でしかないからだろう。
 未耕地を耕し、種を蒔き、肥料をやり、災害から守り、実りの秋を待ち、収穫し、その収穫を喜び、分かち合う。そんな「自然」のサイクルに合わせて本を読むこと、それが Culture としての読書なのだと思う。