内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パリ・ナンテール大学シンポジウム「ハイデガーの超克」初日

2023-11-30 23:59:59 | 哲学

 朝6時40分の TGV でパリに向かう。定刻より10分遅れて8時45分に東駅着。駅で RER A 線でナンテール・ユニヴェルシテ駅までのチケットを買うために自動販売機の前に並ぶ。呆れたことに、三題ある販売機のうち一台しか機能していない。私が並んだときに私の前にいたのは10人ほどだったが、並んで待っているうちにみるみる行列は長くなっていく。それでなくても大きな駅の自動販売機は、勝手がよくわからない旅行者たちがまごつきながらチケットを購入することが多いので行列ができやすい。こんなことで来年のオリンピックはどうなるのかと余計な心配もしたくなる。
 パリ・ナンテール大学にはシンポジウム開始時間に十分遅れて到着。シンポジウム主催者チエリー・オケ教授のキー・ノートがすでに始まっていた。その直後に、私の博士論文の審査員一人だったベルギー・ルーヴァン・カトリック大学のベルナール・ステヴァンス名誉教授の和辻についての発表。その後、休憩を挟んで私の三木清の『パスカルにおける人間の研究』についての発表。原稿なしでの発表で、後半は多少駆け足になってしまったが、要点はしっかり伝えることができたと思う。昼食後、京大の上原麻有子教授の西田のハイデガー批判についての発表。続いて、若き俊秀シモン・エベルソルトの九鬼周造のハイデガー批判についての発表。休憩後、京大の杉村靖彦教授の田辺の死の弁証法からのハイデガーの生の存在論への批判についての発表。
 私の発表はともかく、その他のいずれの発表も聴き応えのある発表であったし、質疑応答も実のあるものだった。これは語弊のある言い方ではあるが、「ハイデガー」のネームバリューはやはり大きくて(「客寄せパンダ」とは言いませんよ)、聴衆の数もざっと数えて50~60人ほどで昨年までより格段に多かった。明日はフランスにおけるハイデガー受容がテーマだから、より一層多くの聴衆が集まることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1923年夏学期のフライブルクでの最後の講義に示されていたハイデガーの哲学的企図

2023-11-29 14:02:44 | 哲学

 ハイデガーの『存在と時間』を読むとき、フランス語で書かれた二つの詳細をきわめた懇切丁寧な注解書が大切な導きの糸となる。Jean Greisch, Ontologie et temporalité. Esquisse d’une interprétation intégrale de Sein und Zeit, PUF, coll. « Épiméthée », 1994 と Marlène Zarader, Lire Être et Temps de Heidegger. Un commentaire de la première section, Vrin, 2012 である。後者は前者を絶賛しているが、それだけに前者とははっきりと違った読解方針を打ち出している。前者は、『存在と時間』そのものの注解を同書の成立史の中に位置づけているのに対して、後者は『存在と時間』のなかで同書以後にハイデガー自身によって展開される論点あるいは放棄される論点への言及が多く織り込まれている。つまり、前者が『存在と時間』の出版に至るまでのハイデガーの思索の歩み全体を示そうとしているのに対して、後者は『存在と時間』をそれ以降の思索の展望の起点として読もうとしている。その他にも重要な違いがあるのだが今日は言及しない。一言で言えば、この二冊の浩瀚な注解書は相補的な関係にあり、フランス語圏で『存在と時間』を読もうとする者にとって必携ガイドである。
 明日の発表ではもっぱらジャン・グレッシュの注解書にのみ言及する。なぜなら、三木清のハイデガー理解を問題にするとき、『存在と時間』出版以前のハイデガーの講義が特に重要な鍵を提供してくれるからである。
 三木がマールブルクで聴いたハイデガーの二つの講義にはパスカルへの言及はない。しかし、ハイデガーがマールブルク大に任命される直前の夏学期にフライブルク大で行った講義「存在論―事実性の解釈学」には三箇所パスカルへの言及があり、特に、その冒頭に『パンセ』からフランス語のまま引用されている断章が置かれている補遺六「人間の本性」は、ハイデガーの解釈学的方法を理解する上で重要である。

Quand tout se remue également, rien ne se remue en apparence, comme en un vaisseau. Quand tous vont vers le débordement, nul n’y semble aller : celui qui s’arrête fait remarquer l’emportement des autres, comme un point fixe. (S577, L699, B382)

すべてが一様に動いているときには、何も動いているようには見えない。ちょうど船の中でのように。万人が放埒に走るときには、誰もそうしているようには見えない。立ち止まっている者だけが、固定した一点のように、他の人々の行き過ぎを明らかにする。(岩波文庫、塩川徹也訳)

 この断章はデカルトの『哲学原理』の第二部一三節と同第二部二四節を念頭に置いている。この断章をハイデガーが引用しているのは、グレッシュが指摘しているように、生の運動をいかにその動きを裏切らずに記述できるかという難問に答えるための手がかりとしてである。
 船上でじっとしている記述対象と同じ船上にいる記述主体とは一様に動いている。この立場にとどまるかぎり、船ととともに移動しつつある記述対象の動きは動きとして捉え得ない。立ち止まってある固定点から動いている船を見るときにはじめて、その船とともに動くものがどの方向に向かおうとしているのかが見える。
 このような動きが事実性であり、その本性を裏切らずに捉えるためには固定点の構築が必要であり、その固定点がハイデガーのいう「カテゴリー」である。このカテゴリーを用いて行われるのが「解釈」である。このカテゴリーは、しかし、生の外部から恣意的に導入される概念ではない。それは生そのもののうちにある。それを引き出すのが解釈学である。
 「生のひとつの現われとしての哲学の意味を理解するためには哲学が生の裡から発生する過程の存在論的必然性が解釈されなければならぬ。哲学は[…]人間の存在にとって必然的なるひとつの存在の仕方である。」(『パスカルにおける人間の研究』、岩波文庫、42頁)
 1923年の時点でハイデガーが構想していた哲学的企図を三木がよく理解していたことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学部修士一年の学生から届いたメッセージ ― 植物哲学への関心

2023-11-27 17:17:45 | 哲学

 先週の火曜日、日本学科修士一年のある女子学生の友だちだという哲学部修士一年生の女子学生からメールが届いた。
 植物の感覚性という問題に修士論文で取り組もうと思っているのだが、私が植物の哲学を修士の演習で取り上げていることをその友だちから聞き(日本学科で! どうして? と驚いただろうね)、論文について是非相談に乗ってほしいという話だった。ストラスブール大の哲学部に植物の哲学に関心を持っている学生がいるとはこっちも思いもよらなかったが、すぐに相談に応じると返信した。で、今日、ZOOMで面談した。
 話を聞いてみると、まだ関心を持ち始めたという程度で、植物の哲学に関する主要な論点やそれを取り扱っている文献についてはほとんど知識がなかった。私が授業で使ったパワーポイントを共有して、手始めに読むべき十冊ほどの文献を紹介し、植物をめぐってどのような問題が今世紀に入ってから論じられるようになっているか概説した。面談後、予め用意しておいた文献表と上記のパワーポイントを送った。
 面談の終わりに論文の共同指導を依頼されたが、それが可能どうかは哲学部の内規によることなので、まず指導教授と相談するように助言した。可能ならば、もちろん喜んで引き受けると答えておいた。
 日仏合同ゼミのほうでは、動物倫理への関心の高さが目立っているのだが、ひょっとすると動物について哲学論文を書きたいという学生も出てくるかも知れない。その場合も、もちろん喜んで対応する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「深い人生の悲哀」を動機とする生命の哲学

2023-11-25 08:14:53 | 哲学

 悲嘆と悲哀はどう違うのか。
 まず、用法を比較してみよう。「愛児の死に悲嘆に暮れる」「人生の悲哀を感じる」などはごく一般的な用法だろう。国語辞典にはたいてい同様な表現が用例として挙げられている。それに対して、「愛児の死に悲哀を感じる」という表現には違和感を覚えるし、「人生を悲嘆する」とはまず言わないと思う。
 「悲嘆」は、ある不幸な出来事を悲しみ嘆くことであるのに対して、「悲哀」は、個々の出来事によって引き起こされる感情の層よりも心のより深いところで持続的に感じられている情意を意味することが多い。前者が動作性を有しているのに対して、後者は状態性が支配的である。
 島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書、2019年)の冒頭には、西田幾多郎の随筆「我が子の死」が悲嘆の例として引用されている。確かに、西田は、弟の死、度重なる我が子、妻の死などを経験し、その都度悲嘆に暮れたことだろう。
 しかし、島薗氏が「こうした死別の経験、悲嘆の経験(西田自身は「悲哀」とよぶ)」(4頁)と述べているところには同意できない。西田が経験したその都度の悲嘆と哲学の動機としての「深い人生の悲哀」とは次元を異にしている。度重なる悲嘆が深い人生の悲哀となって西田の哲学を動機づけたのではない。この点を間違えると、西田哲学はよく理解できない。
 その都度の悲嘆の経験の奥底にある恒常的な存在様態としての基底的情感が「悲哀」なのだ。仮に悲嘆の経験はなくとも(そんな人がいるとしての話だが)、表面は一見華やかな人生の底にも悲哀はつねに感じられているものなのだ。この「感じられている」は受動性ではない。「悲哀が己自身を感じている」と言ったほうがよい。このような表現は日本語では奇妙に見えるが、これはフランス語の « s’éprouver » に相当する。つまり、悲哀は、他の諸感情を媒介としない自己触発的なものなのだ。それが「生命」である。
 だからこそ、西田哲学は、「深い人生の悲哀」を動機とする「生命の哲学」なのである。


タマシイへの日々の配慮と世話としての哲学

2023-11-16 16:26:09 | 哲学

 上田正昭の『死をみつめて生きる』(角川選書、2012年)のなかに、「タマとタマシヒ」と題された節があって、その冒頭の段落で両者の違いがこう説明されている。

「魂」という漢字をヤマト言葉ではタマともタマシイともよんで、一般的には同義として理解されている。しかし[…]目の視力が衰えた状態をメシヒというように、タマシイはタマの衰微を本来は意味していた。衰微したタマシイを振起することが「タマフリ」でもあった。

 ところが、私の手元にある十冊の古語辞典のなかに、タマシイにこのようは語義を認めているものは一冊もなかった。『古典基礎語辞典』(大野晋編、角川学芸出版、2011年)は、「たま【魂・霊】」を以下のように説明している。

タマ(玉)と同根。古くは自然物、特定の器物などの内に宿って、人間を見守り助ける働きをなす目に見えない存在。いわば精霊。
その精霊であるタマ(魂)が人間の体内に宿ると、精神的な活動をつかさどると考えられた。このタマは体内から抜け出して自由に動きまわり、他と交渉をもつことができる遊離霊で、肉体が滅びてもこの世にとどまって人を守るとされた。人はタマが肉体から離れないように「鎮魂祭たましずめのまつり」を行い、タマを揺り動かすことで活力を衰えさせないようにするため「霊振りたまふり」の儀式を行った。
同語義にタマシイ(魂)があり、このほうが用例数も多く、『和名抄』『名義抄』『日葡辞書』などの古辞書にも掲げられている。またタマシイは、後に派生して「思慮分別」「才覚」「性質」などの意味も表すようになり、使用範囲が広がった。

 上田氏が指摘するような「タマの衰微」という意味をタマシイには認めていない。私には上田氏の推論はいささか短絡的に思われるし、このような意味をタマシイに認めなくても、上掲の辞書の記述のように「タマフリ」の意味は説明できる。
 タマ(タマシイ)は、人間の体内に宿るとき、それだけで自足しているような安定的な実体ではなく、いつまた体外に抜け出してしまうか知れず、体内でその活力を保つためには、単に祭儀として行われる魂振りだけではなく、日常的な配慮と世話が必要なのだろう。こう考えることはけっして荒唐無稽な迷信ではないと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十七)― パスカルにおける二つの人間学(anthropologie)

2023-11-04 21:52:11 | 哲学

 Vincent Carraud 氏がそのパスカル研究でしばしば引用する文献の一つが Emmanuel Martineau 氏の編著 Discours sur la religion et sur quelques autre sujets, restitués et publiés par Emmanuel Martineau, Fayard / Armand Colin, 1992 である。パスカルの死後に Pensées という書名で出版された断章群をそれらの執筆の初発の動機であるキリスト教護教論の構想に沿ってマルティノー氏がパスカルになりかわって再構成したものである。他に類例のない試みであり、パスカル研究者たちに広く認められているわけではないが、カロー氏はとても高く評価していることがその引用の頻度からもわかる。昨日の記事で言及した position と situation の区別もマルティノー氏の発案であり、そのことはカロー氏も注に明記している(Pascal : de la certitude, PUF, 2023, p. 274)。
 Pascal. Des connaissances naturelles à l’étude de l’homme(Vrin, 2007)の以下の一節は、三木清の『パスカルにおける人間の研究』を今日のパスカル研究の水準から評価するための重要な論点を提示している。

Dans les notices de son édition, strictement contemporaine de notre propre travail, plus exactement dans sa notice sur le discours XIII, «  De la gloire  », Emmanuel Martineau caractérisait la différence fondamentale entre l’anthropologie de la Conférence à Port-Royal et l’ensemble des grands discours pascaliens consacrés à la gloire, à l’imagination, à la justice et au divertissement – différence qui semble évidente désormais grâce à lui  : la Conférence, «  entièrement axée sur la traditionnelle dichotomie anthropologique de la grandeur et de la misère […] s’abstient le plus souvent d’évoquer aucun thème «  existentiel  », et, à tout le moins, ne nous parle jamais ni de «  gloire  », ni d’«  imagination  », ni de «  justice  », ni de «  divertissement  » ! Fille de l’Entretien avec M.  de Sacy, APR en a hérité la tendance «  abstraite  »  : jamais elle ne s’avance plus loin sur le terrain de la vie concrète que n’avait fait Épictète, et, de Montaigne, elle ne retient que la critique sceptique des philosophies. Quelle que soit sa nouveauté, elle demeure donc apologétique en un sens strict et traditionnel (augustinien). Or peut-on en dire autant des textes que nous allons relire ? Tout au contraire  : «  apologétiques  », ils le sont à la vérité si peu que c’est bien plutôt ici l’une des premières fois dans l’histoire de la pensée occidentale que l’existence humaine est prise en vue en et pour elle-même !  » (Disc.  247). (p. 239-240)

 マルティノー氏もカロー氏も、パスカルには、時期を異にした二つの「人間学 anthropologie」があり、両者には決定的な違いがあると主張する。
 第一の人間学は、1658年のポール・ロワイヤルでの講演に代表される「抽象的な」人間学であり、人間の偉大と悲惨とを対比する伝統的な図式のなかになおとどまっている。言い換えれば、旧来の護教論の枠組みを出るものではない。
 ところが、後に『パンセ』に収録されることになる具体的な人間学的考察には、ほとんど護教論的な要素がなく、人間の栄光、想像力、正義、気晴らしなどの諸実相が考察対象とされている。これらの考察は、マルティノー氏によれば、西洋思想史において初めて人間的実存がそれ自体においてそれ自体のために考察されている例の一つである。
 パスカルにおける人間の研究のこの画期性を三木は的確に把握している。


両極限の間にあって両者から切り離されている存在様態 ― « milieu entre rien et tout »

2023-11-03 08:56:58 | 哲学

 日常のフランス語では、milieu と centre は、どちらも「中央」「真ん中」を意味する類義語として扱われるが、意味においても用法においても重ならない部分ももちろんある。
 例えば、前者は、倫理的な価値として「中庸」を意味することがある。アリストテレスの倫理学における「中庸 μεσοτης」は、訳語として milieu あるいは juste milieu が当てられる。また、前者は、人間を取り巻く「環境」、社会的な「階層」を意味することもある。これらの意味は後者にはない。
 他方、後者は、街の「中心地」、中心となる「機関」(「センター」)、円・球の「中心」を意味することがあるが、これらの意味は前者にはない。
 しかし、『パンセ』の断章「人間の不釣合」における milieu が centre ではないのは、両語のこのような一般用法に見られる意味の差異からは十分に説明できない。Vincent Carraud 氏が多数の論文のなかで再三指摘しているように、パスカルが « milieu entre rien et tout » と言うとき、その milieu が centre ではないのは以下の理由に拠る。今年刊行された Pascal : de la certitude, PUF の次の箇所を読んでみよう。

Tenir « le milieu », plutôt qu’être un intermédiaire, n’est pas être au milieu, occupant un centre imaginaire. L’homme, qui est « un néant à l’égard de l’infini, un tout à l’égard du néant, un milieu entre rien et tout », n’est pas un centre, c’est un « milieu […] toujours distant des extrêmes », puisque « rien ne peut fixer le fini entre les deux infinis qui l’enferment et le fuient ». Peu importe la situation de l’homme dans une échelle des créatures, car il y va radicalement de la position de l’homme dans la nature, c’est-à-dire face à la nature. C’est la dis-proportion qui caractérise l’homme. (p. 276-277)

 人間はいかなる意味でも中心ではないし、自然乃至宇宙の中心に置かれているわけでもない。そう思うことがあるとすれば、それは人間の想像の産物に過ぎない。
 人間は、無限と無という両極からつねに離れており、その位置を確定することができない。事実的にできないのではなく、存在論的にできない。
 無限大と無限小(あるいは無)とはその間に人間を閉じ込めるが、人間の手をつねに逃れる。このどちらの極限に対してもいかにしても釣り合いが取れない位置(position)、それが milieu である。カロー氏が dis-proportion とイタリックにしかつハイフンを入れているのは、接頭辞 dis- が「切り離されている」という意味をもっていることを強調するためである。
両極限の間においてどのような状況(situation)にあるかは問題ではない。状況がいかに変化しようが、自然乃至宇宙のなかの人間の位置(position)は変わらない。不釣合は不釣合のままであり、調整は不可能である。自然乃至宇宙のなかにあって、自分がどこに居るかもわからず、到達も合一も不可能な両極限と向き合わざるを得ない存在様態、それが milieu entre rien et tout である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十六)―「物質と無のあいだの真空」と「無とすべての中間」との構造的相似性

2023-11-02 21:51:49 | 哲学

 パスカルが milieu という言葉に重要な意味を込めて使っている最初の例は、真空の存否について論争したカトリックの神学者 Etienne Noël 宛の1647年10月29日付の書簡においてである。

D’où l’on peut voir qu’il y a autant de différence entre le néant et l’espace vide, que de l’espace vide au corps matériel, et qu’ainsi l’espace vide tient le milieu entre la matière et le néant.
                                                               Œuvres complètes, II, Desclée de Brouwer, 1970, p. 526.

 パスカルが24歳のときに真空の規定として用いた milieuと『パンセ』の断章(S230、L199、B72)における milieu entre rien et tout との間に直接的な関係があるわけではない。前者は無と物体との milieu としての真空のことであり、後者は無とすべてとの milieu としての中間のことである。まさにそうであるからこそ、両者の構造的相似性はパスカルの思考の特徴をよく示している。
 デカルトを顕著な例外として、古代ギリシアからパスカルの時代まで、西洋の哲学的思考がその俎上に乗せることができなかった中間的な実在の次元を、パスカルは milieu という一語によって端的に切り開いてみせた。
 後に『パスカルにおける人間の研究』にその第一論文「人間の分析」として収録されることになる「パスカルと生の存在論的解釈」を書いた弱冠二十八歳の三木清は、パスカルにおける人間の研究にとっての milieu という存在論的次元の決定的重要性を的確に捉えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十五)―「無とすべての中間」としての人間

2023-11-01 14:30:48 | 哲学

 今日は、『パスカルにおける人間の研究』を離れ、パスカルにおける milieu についてずっと考えていた。この一語が今月末のパリ・ナンテール大学のシンポジウムでの発表のキーワードになる。
 Vincent Carraud 氏の Pascal et la philosophie, PUF, 2e édition, 2007 (1re édition, 1992) ; Pascal. Des connaissances naturelles à l’étude de l’homme, Vrin, 2007 ; Pascale : de la certitude, PUF, 2023 の関連箇所を繰り返し読みながら、パスカルにおける milieu のより正確な理解に努めた。
 『パンセ』の « milieu entre rien et tout »(S230, L199, B72)を三木清がどう理解したか。それがデカルトの « medium quid inter Deum et nihil » とどう違うと三木は見ていたか。三木がマールブルクで聴いたハイデガーの講義がパスカルにおける milieu の理解にどのように生かされているか。そして、『パスカルにおける人間の研究』での人間の生の存在論解釈が、ハイデガーの『ニーチェ』に見られるパスカルの評価をいかに先取りし、かつそれをいかに独自の仕方で展開させているか。これらの問いに順次答えていくことを通じて、三木のパスカル論を一つの真正な哲学的探究として評価し、そこからどのよう問題を今日引き継ぐべきかを結論として示す。これが発表の骨子である。
 といっても、発表原稿はまだ一行も書いていないし、ただ読み上げればいいような完成原稿は書かない。その代わり、パワーポイントは入念に準備する。そこに言いたいことはすべて盛り込む。その準備と並行して、発表のイメージトレーニングを繰り返す。これも全体の見通しをはっきりさせる程度にとどめ、あとは当日の即興に余地を残しておく。普段の授業の準備もだいたいこの方式である。これが私にとっては一番話しやすい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十四)―「われわれのうちにあって、しかもわれわれでない存在」を愛するということ

2023-10-31 08:55:54 | 哲学

 三木は、『愛の情念に関する説』をパスカルの著述と認めた上で『パンセ』と対比し、両者の対照的な所説を再三提示しているが、結局のところ両書のパスカルにおける関係については何も語らない。というよりも、語り得なかったのであろう。三木の言うように前者の目的が生の内在的な解釈にあったとしても、結局その解釈は『パンセ』に表明された思想によって否定されざるを得ない。両者のパスカルにおける関係を考えるには、大きな思想的転換がパスカルにおいて生じたことを仮定せざるを得ないが、そのような大胆な仮説を立てることはさすがに三木にもできかねたのであろう。
 実際、『愛の情念に関する説』において擁護された自愛(amour-propre)が『パンセ』では仮借なき批判の対象になっている。自愛の本性は、「自己のあるがままの状態、すなわち自己の欠陥と悲惨とを覆い隠すにある(100)。したがって生を正しく解釈するためには我々はなによりも自愛の心を棄て去らねばならぬ。『パンセ』の思想を貫く根本命題は、「自己は厭うべきものである」ということである。」(『パスカルにおける人間の研究』110頁)
 この後に『愛の情念に関する説』から自愛の心の源に関する命題の引用があるが、その引用の直後に、そのような命題は「容赦なく否定される」と三木は記し、自己愛を否定する『パンセ』の断章からの引用を重ねる。では、何を愛すべきなのか。この問いに対する答えとして三木は次の断章(S471、L564、B485)を引用する。

La vraie et unique vertu est donc de se haïr, car on est haïssable par sa concupiscence, et de chercher un être véritablement aimable pour l’aimer. Mais comme nous ne pouvons aimer ce qui est hors de nous, il faut aimer un être qui soit en nous, et qui ne soit pas nous. Et cela est vrai d’un chacun de tous les hommes. Or il n’y a que l’être universel qui soit tel. Le royaume de Dieu est en nous. Le bien universel est en nous, est nous-même et n’est pas nous.

真の唯一の徳は、それゆえに、自分を憎むこと(なぜなら、人はその邪欲のゆえに憎むべきものであるから)と、真に愛すべき存在を愛するために、それを求めることである。しかし、われわれは自分の外にあるものを愛することはできないので、われわれのうちにあって、しかもわれわれでない存在を愛さなければならない。このことは全人類の一人一人について真実である。ところで、そのようなものは普遍的存在のほかにはない。神の国はわれわれのうちにある。普遍的な善は、われわれのうちにあって、われわれ自身であり、しかもわれわれではないものである。(前田陽一訳)

 三木は、人間の愛と神の愛との構造的相似性を認める。「愛は一方では自己から出てゆく運動である。愛する者は幸福を外部に向かって求める。けれど他方では愛はすべてを自己に関係させる運動である。ひとは自己との関係を離れて何ものをも愛さない。」(113頁)
 愛はこのように相矛盾する方向を有する。人間の愛の場合、この矛盾は不安定と無常との原因である。神の愛においては、「この矛盾はこの愛の目指すものが神であるの故をもって止揚され、総合されることが可能である。神は我々の裡にあり、そして我々自身であり、しかも我々ならぬものである。したがって愛が神を対象とするときには、外に向かう運動は同時に内に還る運動であり、自己以外の者を愛することは同時に自己を愛することとなる。二つの相矛盾する方向は唯一なる神において統一され、この統一において愛は安定を得て完全になることが出来る。」(113‐114頁)
 神におけるこのような愛の弁証法を認めることが当時の三木におけるキリスト教理解の臨界点だったのだと思われる。