「戯言の部屋」

セピアス、戯言を語るの間

月に吼える野犬のように(ショートショトショート)

2006-11-19 23:15:51 | ショートショートショート

 数ヶ月前から、不思議な無気力感に苛まれている。
 仕事をし、食べ、眠り、遊ぶ。
 何も問題のない、どこからどうみても完璧なルーティンワーク。
 微かにくすぶるようなこの不安と、それを覆いつくすような虚脱感はなぜなんだろうか。
 問題がないことを喜ぶべきなのか。問題がないことに焦るべきなのか。
 体はどこも傷ついてないのに、深い傷を抱えているように、俺はじっと横たわっている。

「それはきっと、あんた自身の年齢的なもんなんじゃないの?」
 ミーナは、俺のベッドで煙草に火をつけながらそう言った。
「年齢?」
「そう。」
 彼女は首をこちらに向けて、俺の胸に頭を寄せた。彼女の香水の匂いが、微かに俺の鼻腔を擽る。
 小さな火種が、体の奥底でぞろりとさざめく。
「夢は必ず叶うと信じられる程子供じゃない。かといって夢を諦め捨て去る程大人になりきれない。そんな中途半端さが、あんたの中で消化不良を起こさせているんじゃないの。」
 ミーナはふうっと紫煙を吐き出した。
 崩れた彼女の口紅が、フィルターを紅く染める。
 それがやけに官能的に見えた。
 ミーナと知り合ったのは数年前。知り合い当初は映画を見に行くこともあったかもしれない。今では一緒に食事に行くこともまれになってきた。
 彼女とは何度か寝ているが、付き合っているわけではない。
 彼女がそれを望んでいるのか。よく分からない。少なくとも、彼女から付き合いたいと望んでいるそぶりを感じたことはない。
 いや。それは違う。
 彼女は感受性の鋭い子だ。付き合いたいと望んでない相手にそれを求めることは、賢明ではないと思っているのかもしれない。
 ミーナは手を伸ばして、灰皿に煙草を押し付ける。
 細く白いミーナの手首。そこにつけられた紫色の傷跡。
 俺はまだ、その理由を聞けないでいる。理由を聞けないから、ミーナは俺に何も求めない。
 つまりは、そういうことなのだ。

 夢にも賞味期限があるのだろうか。
 いつまでもいつまでも鮮やかに胸の中に燃え続けるには、根気と体力と忍耐が必要なのかもしれない。サバイバルに立ち向かう勇気がないといけないのだ。
 夢だけじゃない。
 いつも誰かを、強く強く愛したいと思う。
 でも俺は、小さな炎を前にして互いの肌で温めあうような、そんな恋愛しか出来ない。
 今のこの生活に不満があるわけではない。
 でも、どうしても幸せになれなくて、どう足掻いていいのかも分からず、途方にくれてしまうだけなのだ。
 誰も導く者はいない。
 それは俺に、長く続く線路の上をたったひとりで闊歩する情景を彷彿とさせる。
 もしかしたらやってくるかもしれない、列車に怯えながら。
 もしかしたら振ってくるかもしれない、チャンスを求めて。
 空を見上げながら、ただ孤独に俺は歩いていく。
 線路の行き先は、いつだって霞に包まれている。
 どんなに目を凝らしても、何も誰も見えないのだ―――――。

 ミーナを送り出した後、俺はふと気が向いて街を散歩することにした。
 通りを歩くアベックや家族づれを、早足で追い越していく。
 石畳が微かに濡れているのは、昨夜の雨の名残か。でも今空は、星が透けて見えそうな程瑞々しく晴れ渡っていた。
 エスプレッソの芳ばしい香り。
 露天で売られるワッフルの甘い香り。
 どこかで誰かが罵倒する声を上げ、どこかで誰かが出会えた喜びを分かち合い、どこかで誰かが愛を交わしている。
 そう、街はこんなにも生きている、、、、、
 俺は小さく、深呼吸した。
 抜けるような空に浮かぶ、小さな半月を見た。
 白く清浄なその姿を目にした途端、俺の中にとてつもない情動が沸き起こる。
 ああ、そうだ。
 生きているということを、狂う程俺は実感したいんだ。
 たとえ傷だらけの野犬になっても、今自分は確かにこの場に立って生きていると、他の誰でもない俺自身が認めたいのだ。
 長く尾を引いて、闇を切り裂く咆哮。
 その物悲しい声に感じるものは、寂しさか?違う貪欲さだ。
 良識や常識など関係ない。
 地面を這いつくばって生きるものだけが持つ、醜く美しい貪欲さなのだ。

 俺はそっと後ろを振り返る。
 列車はまだ、見えない。
 闇に沈んだその先にあるのは、ただただ痛みと後悔の残骸だ。
 たとえ行く先がクリアでなくても、このレールの上を走っていくのか。
 もしかしたら。
 そうもしかしたら、いつかこのレールから外れて、歩き出すことが必要になるかもしれない。
 俺の道は、誰でもない俺だけが決めること。
 そこが肥溜めだろうが、ガラクタの山だろうが、道のない場所だろうが、行きたいと望む場所に行くことこそが正解なのだ。
 俺は煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。
 吐き出す紫煙が、細く棚引いていく。
 月はいつでも、無言で俺を見守っている。
 俺は月を見上げて、ただ吼え続ける。
 一人ぼっちで。
 鉄錆の香り。俺はまた歩き出す。昨日とは違う足取りで。ほんの少し、鋭くなった眼差しで。
 この、日常という名の線路の上を。