「戯言の部屋」

セピアス、戯言を語るの間

帰る場所(ショートショトショート)

2006-11-02 23:40:23 | ショートショートショート

 石畳の上で、ふと足を留めた。
 奇麗に舗装された道の両脇の、背の高い街灯に明かりが灯る。
 吐く息すら、きらきらと凍りつきそうな寒い夜。
 見上げる空はすっかりと闇に沈んで、淡い小ぬか雨が降り注ぐ。
 傘をさしてさえ、私の肩も胸も背中もひっそりと濡れそぼってゆく。

 小高い丘から、眼下に広がる町並みの情景が好きだった。
 晴れた日は、遠い地平線を蒼く染める海が見えた。
 夜は、宝石箱をひっくり返したような光の洪水。
 それは幼い頃に見たおもちゃ屋の、美しく着飾ったショーウィンドウを連想させる。
 甘い香りと音楽に彩られ、沢山のおもちゃが笑いさざめく店内は、きっと沢山の幸福が眠っているのだと信じていたあの頃。
 街の明かりの一つ一つに、そんな幸福な夢が息づいているのだろうか。
 まるで天使が住んでいるような、美しい街。
 私はいつも、この場所に来ると足をとめて街を一望する。
 この光のどこかに、きっと私が住んでいる場所がある。
 私が住むべき居場所がある。
 赤いテールランプが私を誘い、暖炉の炎のように暖かく、居心地のいい街灯に守られた私の家がどこかにあるのではないか。
 そんな幻想に、しばしの間囚われる。
 でも、見つかることはない。
 私の帰り道は、ただただ闇の中へと飲み込まれているのだ。
 こんなに美しい街なのに、私は飛び込むことが出来ない。
 私の吐息だけが、白々と煌きながら霧散する。

 雨に濡れながら、私は佇んでいる。
 背中から這い上がる寒さに震えながら。
 見上げる空。垂直に落ちゆく雫。
 きっと。
 きっと今泣いても、雨のせいだと思えるかもしれない。
 舌先に残る苦味。
 これは別れの痛み。
 私の背後に立つ影法師の、最後の声を待っている。
 背筋を伸ばし、彼の瞳を見据えて放った決別の言葉。
 風も空気も雨も、息を潜めて私達を見守っていた。
 さよなら。
 ただひとこと。
 さよなら。
 それで、十分だった。
 瞬き一つ、言葉一つ、何もかもが完璧な別れだった。
 
 ゆっくりと、足を踏み出す。
 石畳に反響する、私の乾いた靴音。
 街明かりは、だんだんと霞んで滲んでいく。
 ひんやりとした頬は、青白く濡れていく。
 私の背中が、彼の声を待っている。
 呼び止めてくれる彼の声を待っている。
 でも、私は振り返らない。
 もう少し。あと少し。
 あの角を越えたら、私は新しい自分になれる。
 後悔も哀しみも苦しみも、すべて過去のことだと笑って暮らせる自分になれる。
 もう少し。あと少し。
 彼の息遣いを感じる。
 全身が耳になって、彼の鼓動を感じる。
 でも、私は振り返らない。
 今度はきっと、あの町並みの中に私の家を見つけられるだろう。
 明るく笑って「ただいま」と言える、幸福が見つけられるだろう。
 だから、振り返らない。

 靴音が響く。
 曲がり角は、もうすぐそこだ。