石畳の上で、ふと足を留めた。
奇麗に舗装された道の両脇の、背の高い街灯に明かりが灯る。
吐く息すら、きらきらと凍りつきそうな寒い夜。
見上げる空はすっかりと闇に沈んで、淡い小ぬか雨が降り注ぐ。
傘をさしてさえ、私の肩も胸も背中もひっそりと濡れそぼってゆく。
小高い丘から、眼下に広がる町並みの情景が好きだった。
晴れた日は、遠い地平線を蒼く染める海が見えた。
夜は、宝石箱をひっくり返したような光の洪水。
それは幼い頃に見たおもちゃ屋の、美しく着飾ったショーウィンドウを連想させる。
甘い香りと音楽に彩られ、沢山のおもちゃが笑いさざめく店内は、きっと沢山の幸福が眠っているのだと信じていたあの頃。
街の明かりの一つ一つに、そんな幸福な夢が息づいているのだろうか。
まるで天使が住んでいるような、美しい街。
私はいつも、この場所に来ると足をとめて街を一望する。
この光のどこかに、きっと私が住んでいる場所がある。
私が住むべき居場所がある。
赤いテールランプが私を誘い、暖炉の炎のように暖かく、居心地のいい街灯に守られた私の家がどこかにあるのではないか。
そんな幻想に、しばしの間囚われる。
でも、見つかることはない。
私の帰り道は、ただただ闇の中へと飲み込まれているのだ。
こんなに美しい街なのに、私は飛び込むことが出来ない。
私の吐息だけが、白々と煌きながら霧散する。
雨に濡れながら、私は佇んでいる。
背中から這い上がる寒さに震えながら。
見上げる空。垂直に落ちゆく雫。
きっと。
きっと今泣いても、雨のせいだと思えるかもしれない。
舌先に残る苦味。
これは別れの痛み。
私の背後に立つ影法師の、最後の声を待っている。
背筋を伸ばし、彼の瞳を見据えて放った決別の言葉。
風も空気も雨も、息を潜めて私達を見守っていた。
さよなら。
ただひとこと。
さよなら。
それで、十分だった。
瞬き一つ、言葉一つ、何もかもが完璧な別れだった。
ゆっくりと、足を踏み出す。
石畳に反響する、私の乾いた靴音。
街明かりは、だんだんと霞んで滲んでいく。
ひんやりとした頬は、青白く濡れていく。
私の背中が、彼の声を待っている。
呼び止めてくれる彼の声を待っている。
でも、私は振り返らない。
もう少し。あと少し。
あの角を越えたら、私は新しい自分になれる。
後悔も哀しみも苦しみも、すべて過去のことだと笑って暮らせる自分になれる。
もう少し。あと少し。
彼の息遣いを感じる。
全身が耳になって、彼の鼓動を感じる。
でも、私は振り返らない。
今度はきっと、あの町並みの中に私の家を見つけられるだろう。
明るく笑って「ただいま」と言える、幸福が見つけられるだろう。
だから、振り返らない。
靴音が響く。
曲がり角は、もうすぐそこだ。