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「戯言の部屋」

セピアス、戯言を語るの間

カウントダウン(ショートショートショート)

2007-01-07 23:49:52 | ショートショートショート

 年末のカウントダウンを一緒に過ごそうと、彼女は両手一杯に食材を買い込んで現れた。
 真っ赤なマフラーが、寒さのせいで透き通るような白い頬にとてもよく似合っている。
 僕は十分に温めた部屋の中に、彼女を招き入れる。
 仄かなフレグランスの香り。
 それは、僕にとって幸せな時間の始まりの合図だった。

 世界に自分と似ている人は3人いるという。
 しかしそれは見た目だけではないのかもしれない。
 僕と彼女は出会った時から、確かな絆を感じていた。
 想うことも、感じることも、ふとした仕草さえ、僕達は似通っていた。
 まるで二つの鐘が響きあうように。
 僕達の心はぴったりと寄り添い、重なりあっている。
 例えば彼女の手に触れただけで、その時彼女の心に思い浮かんだものが僕の瞼にありありと浮かべることが出来る。
 そんな風すら、思うのだ。

 栄養士の彼女は、実はパティシエの僕より料理が上手い。
 お互い創意工夫という点では負けないが、彼女の方が数段緻密に考えられた料理を作る。
 シンプルだけど、濃厚な味わい。
 料理は掛け算だ。
 食材とスパイスを掛け合わせ、一つの芸術を作り上げる。
 この日も彼女は張り切って、僕の部屋のキッチンを占領している。
 ひらひらと動くエプロンのリボンを目で追いかけながら、僕はゆっくりとワインのコルクを抜いた。

 彼女と知り合って、ほぼ1年近く経とうとしている。
 僕等はいつも穏やかに日々を過ごしてきた。
 目が合えば微笑みあい、触れ合えば手を繋ぎ、会話の端々でキスを交わす。
 たおやかな春。小麦色に輝く夏。しっとりと夜に沈んだ秋。
 そして僕達の冬は、氷で出来た食卓を思い起こさせる。
 ミルクも、コーヒーを注ぐポットも、降りそそぐ日差しさえ。
 完璧に凍りついた、幸福な食卓。
 口の端をあげたまま凍りついた笑顔は、どんなに日差しが降りそそいでも形が崩れることはない。
 しんと冷えた、幸福な食卓。

「乾杯をしましょう。」
 出来上がった料理の前で、僕達は密やかにグラスを鳴らす。
 灯る蝋燭の炎。
 壁に揺れる二人の影。
 暖かいオレンジ色の光の中で。
 彼女は麗しく微笑む。
 丹精な料理はやはり緻密な味付けがされていて、僕は喉に詰まりそうになって水を飲む。

 彼女と僕は、昔・・・そう前世で双子だったのかもしれない。
 時折そんな風に考える。
 こんな風に価値観や物の見方が同じ人間を、僕は見たことはなかったから。
 まるで鏡を見るように。
 彼女と一緒にいると、彼女を通して僕自身を見つけることがある。
 蹲り、ぼんやりと虚空を見つけている小さな僕。
 その一瞬僕と彼女の境界線を見失い、僕ははっとする。
 目の前にいる彼女に触れて、そこにいるのが確かに僕ではないと確かめずにはいられなくなる。

 美味しい夕食の後。
 おもむろに彼女は、小さな箱を取り出した。
「プレゼント。」
 少し、はにかんだ笑顔で僕に差し出す。
 時計は、午後11時45分を指していた。
「プレゼント?何で?」
「いいから!」
 彼女はにこにこと笑って頬杖をつく。
 僕も笑いながら、真っ赤なリボンを解いた。
 真っ白い箱の中に眠っていたもの。
 それは黒く鈍い油脂的な光を放つもの。
 その凶暴なフォルムに、僕の笑顔が凍りつく。
 彼女の変わらない笑顔があんまり幸福そうなので、僕は悪い夢を見ているような気持ちになった。
「これは・・・。」
 ごくりと、喉を鳴らず。
 震える指先に、冷たい感触が這い上がってくる。
「トカレフ。」
 愛らしい唇が、無邪気に言葉を奏でた。
「そのトカレフで、死んでくれない?」

 どうして・・・・。
 僕の胸の中で、疑問符がくるくると円を描いている。
 それは暗い闇に、はらはらと降り積もってゆく。
 足跡のない、どこまでも続く純白の雪原。
 驚きが潮が引くように消え去った後に残されたのは、そんなしんと冷えた時間だった。
「分かっているでしょう。」
 彼女は、ゆっくりとワインを煽った。
 紅い唇から、ほうっと重い溜息が零れる。
「貴方のことはとても好きよ。こんなに分かり合える人は、きっと誰もいない。心からそう思うの。」
 潤んだ瞳が、優しく僕と包んでいく。
「でも私達はあんまりに似すぎている・・・だから、一緒にいることは出来ないの。」
「どうして。」
 からからに渇いた喉から、低い声が漏れるのをまるで他人事のように聞いた。
 彼女は、まるで見たこともない程の慈悲深い顔をして、僕の顔を覗き込む。
「だって・・・私達はまるで鏡のように、醜いところを露にしてしまうのよ。貴方と一緒にいると、まるでずっと自分が責められているような気になるの。自分への醜さに、吐き気がしてくるの。」
 彼女の、形のよい眉が小さく歪む。
「私達の愛は、まるで憎しみ合うような愛なの。」
「君は僕に・・・。」
「だからもう、どちらかが死ぬしかないのよ。」
「死んでと望むのか・・・。」
「そうして、幸せなカタストロフを迎えられるのよ。」
「それが君の望みなのか・・・。」
 カタストロフ・・・。
 僕は俯き、手の中にあるトカレフを見つめた。
 きちんと装填されたトカレフはつやつやと輝いて、終焉を語るにこれ以上ない美しさだった。

 僕と彼女は出会った時から、確かな絆を感じていた。
 想うことも、感じることも、ふとした仕草さえ、僕達は似通っていた。
 まるで二つの鐘が響きあうように。
 僕等はいつも穏やかに日々を過ごしてきた。
 目が合えば微笑みあい、触れ合えば手を繋ぎ、会話の端々でキスを交わす。
 彼女と僕は、昔・・・そう前世で双子だったのかもしれない。
 時折そんな風に考える。
 こんな風に価値観や物の見方が同じ人間を、僕は見たことはなかったから。
 まるで鏡を見るように。
 彼女と一緒にいると、彼女を通して僕自身を見つけることがある。
 それは、汚わいを含み穢れるままに穢れた醜い姿。
 彼女の中に飼う僕は、すなわち僕自身の本質でもあった。
 僕は彼女を愛し、同時に彼女の中の僕を憎んだ。
 愛する為に一緒にいるのか、憎しみ合う為に一緒にいるのか。
 その境界はいつしか曖昧な陽炎になり、輪郭を失った想いは深く深く交じり合い、僕らを狂気へと導いていく。
「君を、愛している。」
 僕は顔を上げて、彼女にそう告げた。
 彼女は、分かっているというように小さく頷いた。
「愛していることは間違いないのに。」
 僕の背後のTVで、カウントダウンが始まる。
「それでも・・・お互いに出した結論は、同じだったんだな。」
 僕の目から、涙が零れ落ちた。
 その軌跡を目でなぞりながら、彼女ははっと自分の喉に手を当てる。
 驚く口の形のまま、彼女は僕を見た。
 僕はありったけの慈悲深い顔をして、彼女に微笑みかける。
 大丈夫。
 すぐに、楽になる。
 そういう薬を選んだから。
 愛しい君が、せめて苦しまずに逝けるように。
 彼女の形のよい繊細な指先が、ぶるぶると震えながらワイングラスを掴む。
 それは空しく手の中で砕け、彼女は大きく息を吸うようにのけぞった。
 胸をかきむしり、見開いた瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
 何かを言わんとしているのか、ぱくぱくと口を動かしながら、僕に向かって手を差し伸べる。
 僕は泣きながら、彼女の額に黒い銃口を押し付けた。

 夜を振動させる銃声。
 しんしんと冷えつく無音。
 ゆっくりと棚引く硝煙。
 彼女の体をかき抱き、僕は淋しく絶叫する。

 除夜の鐘が、遠く聞こえる。
 それは始まりの音なのか。
 それとも終わりの音なのか。
 僕が殺したのは、確かに彼女だったのか。
 それとも、僕は僕自身を殺したのか。
 何もかもが混沌とした時間の中で、僕は浪々とした鐘の響きに耳を澄ませていた。
 その美しさだけは、胸に刻みつけようと瞳を閉じながら―――――。

慟哭(ショートショートショート)

2006-12-24 23:49:48 | ショートショートショート


 街灯が燈る頃には、寒さが一段と増していた。
 物売り達の掛け声と、ベルの音。
 露天は暖かそうな蒸気をあげて、蒸しパンやらトウモロコシやら栗やらを売っている。
 とりどりのイルミネーションを施された町並みが、今日という日を祝う華々しい夜。

 足先から這い上がるようなこの寒さの中では、溜息も吐息も同じに見える。

 足早に過ぎていく雑踏。手を繋ぐカップル。数人の女子高生が、零れるような笑顔を浮かべている。
 軽やかに響く聖歌の音。
 例え信仰なぞなくとも、その美しさは目を楽しませてくれる。
 道端でサンタの格好をした人が、遠慮がちに煙草を吸う姿すら微笑ましく見える夜。

 振り仰ぐ空。くすんだ闇を見上げながら、そっと瞳を閉じた。

 今日という日だけは、きっと人は優しい気持ちになれるのかもしれない。
 暖かい火に包まれて、ささやかに贅沢なディナーをつつきながら。
 目が合えば微笑あい、触れれば指を絡める。
 そして、優しく軽いキスを交わす夜。

 悴んだ指は、どんなに息を吹きかけても、赤く痛むばかり。

 おもちゃ箱をひっくり返したような灯と光の洪水は、きっと不幸などどこにも見当たらないような美しさなのだろう。
 部屋の明かりの数だけドラマがあるように。
 沢山の喜びが息を潜めているように見えるのだろう。
 どのショウィンドウの中にも雪景色があり、どの店の中にも黄金色の星が光る夜。

 立ち止まる。どうして、と呟く。それは誰かに。そして私に。

 雪が降れば、きっとこの街はさらに美しく映えるのだろう。
 精妙な雪に抱かれた街は、その輪郭を真っ白くぼかしてゆく。
 無垢な白銀は全ての音を吸い込んで、淑やかに世界を浄化してゆく。
 そして沈黙の深さだけ身を寄せ合い、抱きあって心を温めあう夜。

 私の目から零れ落ちた雫が、頬で躊躇いがちに氷になった。

 どうして。
 どうしてこんなにも独りなのだろう。
 私を大切に想ってくれる人もいるし、私が大切に想う人もいるのに。
 いつも寂しさは、ひたひたと忍び寄って背中から覆いかぶさってくる。
 どんなにどんなに声高に叫んでも誰にも気付いてもらえないような、そんな絶望的な孤独に冒されてしまう。
 いっそこの命を絶ってしまおうかと、乱暴なことすら考える。
 救われたいのに。
 助けを求めることは、まるで他力本願に思えて萎縮する。
 救われたいのに。
 助けてくれる人はどこにもいない。
 助けて欲しい人がいるのに。
 彼は私の不幸に気付かない。

 駅へと向かう人々の群れの中で、密やかにギターを掻き鳴らす少年を見つける。
 祝福の灯を燈す今日という夜に、彼が歌うのは失われた愛の詩。
 彷徨う人もいるのだ。
 幸せを見失って、ただ痛みのままに慟哭するしかないそんな夜。

 後ろ手を振った彼の、奇麗な後姿が瞼に浮かんで、佇みながら私は泣き続けた。
 この夜の帳があまりに濃密なので、ほんの少し窒息しそうになりながら。
 いつまでもいつまでも泣き続けていた。


暮れゆく街(ショートショートショート)

2006-12-17 01:30:28 | ショートショートショート


 唐突に、私は愛を失ってしまったことを感じた。
 それは夕暮れのカフェテラス。
 彼といつものように早めの夕食をとっている時だった。
 数日続いた雨が止み、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
 テーブルのパエリアはまだ十分に暖かく、夕日を浴びたサフランライスは艶々と黄金色に輝いていた。 降り始めた夕闇にランタンが淡く滲み、食事をとる人々の談笑する声がたおやかな時間を醸している黄昏時。
 どこからどう見ても、完璧な夕食だった。
 なのに。
 一陣の風が砂の城を崩壊させるように、私の心の中から愛が消えてしまった。
 私は混乱し、戸惑い、心を落ち着けように深く深呼吸した。
 テーブルの上のワインを飲み、注意深く心の闇をまさぐってみる。
 暗闇の中で手の伸ばし、どこかにあるだろう暖かな血脈を探してみる。
 二人の出会い、幸福なランチ、密やかな眼差し、果たされなかった約束、果たされた約束の喜び、初めてキスを交わした時に肩越しに見えた、瑞々しい空の色―――――。
 記憶は何一つ、色褪せることなくそこにある。想いや光や匂いまで。
 手に触れてその輪郭をなぞったり、抱きしめて確かな重みを感じられそうな程、鮮明に思い描くことが出来そうな程に。
 けれど。
 それらの思い出を包んでいた筈の、優しい感情だけがすっきりと抜け落ちていた。
 たまたまかもしれない。
 私は口の中で呟く。
 これは、ただの錯覚かもしれない。少し疲れていたとか。他に気がかりなことがあるせいだとか。
 そんな、一時のものかもしれない。
 胸の中にみるみる広がる暗雲を押し隠し、私は彼に明日の予定を聞こうとした。
 が。
「別れましょう。」
 実際に口をついて出たのは、自分でもぞっとするほど冷酷な響きを持つ言葉だった。
 彼はパエリアをほおばったまま硬直した。
 次に自分の皿に目を落とし、そうして上目遣いに私を見た。
「・・・・何を突然。」
「別れましょう。」
 私は、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返した。
 雑踏が、少しだけ遠くなる。
 鼓動が、少しだけ早くなる。
 体温が、少しだけ上昇する。
 私達の間には、たっぷりとした沈黙があった。
 私達はただ見詰め合っていた。
 彼は、まるで難しい数学の問題を出されたように眉根を寄せていた。
 パエリアだけが、幸せそうに湯気を立てていた。
「つまり――――。」
 彼は落ち着こうとしてか、ゆっくりとナプキンで口元を拭った。
「この関係が嫌になったってことか。」
「そうじゃないの。」
 私は少し息を乱しながら、首を振った。
 私は、私が彼と同じくらい混乱しているということを、どうにか彼に伝えようと必死になった。
「自分でも、どうしてだか分からないの。貴方に不満があるとか、他に好きな人が出来たとか、そんな風に確かな理由があればいいのだけれど――――ただ、これ以上貴方と一緒に居られない。それだけは確かなの。」
「分からない。」
「そうよね。ごめんなさい。」
 私は小さく俯いた。
 夕空に煌く一番星のように、彼の薬指の指輪が、きらりと光っているのが見えた。
 それは、初めから決められた約束のようなもの。
 でも、別に構わなかったのだ。
 ずっと好きだったから。
 私を抱きよせ彼の腕に包まれる時、私は確かに幸福だった。
 でも――――。
 彼と私が出会った時から、一緒にいられる時間は決められていてたのだろうか。
 自分達では手が届かないような圧倒的な力で、私達の幕引き定められていたことなのか。
 分からない。
 まるで事故のように、唐突に飛来した別れ。
 それがどれだけ彼を苦しめるか分かっているのに、私の心は恐ろしい程しんと冷えていた。
「さよなら。」
 立ち上がって、彼に最後の言葉をかける。
 彼は、ぼんやりとした眼差しでただ私を見つめていた。

 天上は、すっかりと夕闇に包まれていた。
 私は足早に町並みを歩いていく。
 途中、一度だけ振り返った。
 雑踏の中から、彼の姿が小さく見えた。
 薬指の、黄金色の煌きが見えた。
 それがあまりに美しくて、私は切なさで一杯になる。
 さよなら。
 もう一度呟いて、彼の手の届かない場所へと私は足を踏み出した―――――。


芙蓉の華(ショートショートショート)

2006-12-14 00:29:38 | ショートショートショート

 いきなりインスピレーションが湧いて出来上がった物語。
 こういう雰囲気の小説をUPすることがあまりなかったので、たまにはどうかな~~~と思いまして。
 ただ、これは「ショートショートショート」の長さぢゃねえ
 明らかに原稿用紙10枚~15枚はあんだろー、という感じ。
 でも、自分的に結構好きな色合いの世界なので、全文をそのままでなくリンクを張る形でUPすることに決めました。
 ↑の写真をクリックすると表示されます。 
 
 ではでは。
 妖しい芙蓉の世界へで~~~~すwww

祝福された午後(ショートショトショート)

2006-12-02 21:26:19 | ショートショートショート


 僕の部屋には、幽霊が住み着いている。
 ずっと前から彼女がいたのか、それともたまたまこの部屋に流れ着いたかよく分からない。
 気が付いたら彼女はこの部屋にいて、僕と一緒に暮らしていた。
 腰まで届く長い髪。抜けるような白い肌。笑う仕草も、くしゃみをするところも、全てが生きている人間と殆ど変わらない。
 彼女の姿が僅かに半透明な点を除けば。
 この奇妙な同棲をするようになってから、僕は部屋の明かりを消すことを止めた。
 皓々と灯る暖かい6畳間に、彼女はいつも僕の帰りを待っていてくれる。

「どうしたの。」
 食事をとろうとしない僕の顔を、彼女は覗き込んだ。
「別に。」
「嘘。」
「嘘じゃないよ。」
「また、もう。何があったの?」
 しょうがないなあ、という顔をして彼女は僕の向かいに腰を下ろす。
 素晴らしく晴れた休日の朝。
「仕事?女?お金?それから・・・えーっと・・・あ!親関係?」
「どれも問題はないよ。」
「えー?他に悩みの対象になるものって何かあるかなあ。」
 自分は痴情のもつれで自殺したくせに、彼女は真剣に指折りこの世の憂鬱を考えている。
「幽霊に心配されたくないよ。」
「幽霊に心配されるような、くだらない人生送ってるんじゃないわよ。」
 僕がからかうと、彼女は唇を尖らして膨れながら、本気になってやりかえす。
「ちょっと昔の夢を見たんだよ。」
「うん。」
「バンドの仲間達とスタジオで笑いながら演奏してた。ミュージシャンになりたいって夢中でギターを弾いていた。夢は追うんじゃなく、叶われるものだって・・・自分の未来に夢が叶うのを待っているんだって信じて疑わなかった。」
「うん。」
「でも今は、毎日毎日同じ仕事。同じヤツラとつるんで、淡々と時間を過ごしている。待っていてくれているはずだった夢が、どこにも見当たらない。」
「・・・・。」
「ギターさえ、今の俺の手元にはないんだ。そう思うと、ちょっと憂鬱になってきたんだよ。」
 真剣に僕の話を聴いている時の彼女は、黒く濡れたような瞳をしている。
 漆黒の宝石の中には、いつも小さな星が瞬いている。どんな闇夜の中でさえ、まるで導くように光る一等星のように、彼女の星は凛と輝いている。
「ね、ベランダに出よう。」
「は?」
「ベランダに出て、歌でもうたおう。」
「話聞いてたのかよ?何でベランダ?しかも歌?」
「いいじゃない。ほら!」
 彼女は立ち上がって、僕を手招く。
 真っ白いカーテンを跳ね上げ、彼女はベランダへと走りでていく。仕方なくそれに続いて出てみると、外は目も開けられないくらい眩しかった。
 気が滅入るような底抜けの上天気に、何もかも暴こうかというような強烈な光がそこら中に溢れている。遠く公園で遊ぶ子供達の歓声さえ、耳障りに感じる。何もかもが吐き気がするくらい平和な午後。
 隣で彼女は、暢気に伸びをしている。
 空へ届けよとばかりに広げられた手の平。その少し下、か細い手首に刻まれた紫紺の刻印が、彼女が紛れも無い幽霊であることを表している。でもこんな風に笑う彼女は、どこからどう見ても幽霊なぞには見えない。
 青い空の元で、彼女は歌い出す。
 高く澄んだ声が、光の中に淡く溶けていく。
 彼女が歌いだすと、途端に景色がその表情を変えた。
 梢を揺らしていた風が息を潜め、染めたような緑がくっきりと浮き上がってくる。
 空中を漂うイオンの一粒一粒が、きらきらと煌きながら空へと登っていく。
 見えるはずもなく、感じるはずもない自然の息吹が、はっきりと僕の耳の中でこだまし始める。
 その美しさに、僕は吃驚して声を失った。
 何処かで聞いたような、あるいは初めて聞いたような。淡々としているようで、心の扉を不思議に叩くそのメロディー。小さな鈴の音を、目を閉じて聞いているような。弾ける音の一つ一つが、僕の感受性を瑞々しく揺さぶっていくのを感じていた。
 光のオーケストラの中で、彼女は無邪気に笑っている。
 心の底から沸き起こる、混じり気のない蜂蜜のような笑顔。
 幻でも、偽りでも、ニセモノでも、幽霊でも。
 その笑顔を、奇麗だと思った。
 笑う彼女が、ただただ奇麗だと思った。
 憂鬱を優しく包み込み昇華していく彼女の美しさが、僕は嬉しかった。
 ガブリエルのラッパが聞こえる。
 それは完璧に祝福された午後だった。

 そうして、僕の中で眠っていた音が目覚め始める。
 失ってしまったんじゃない。
 ただ、忘れていただけだと気付く。
 傍らでは、相変わらずお気楽な幽霊が薔薇色の微笑みを浮かべている。
 僕も相変わらず彼女をからかいながら。
 その半透明な背中に、そっと純白の翼を探していた―――――。
 


Andante(ショートショトショート)

2006-11-26 02:29:00 | ショートショートショート

 アルビーナ。
 彼女に会った者は、必ず彼女に恋をした。
 恐らく本名ではない。
 でも、そんなことは関係ない。
 アルビーナ。
 特に美人というわけではない。金持ちというわけでもないし、話上手というわけでもない。
 でも、皆彼女に惹かれてしまう。
 それは彼女がいつも、自分だけの法則で自分だけの世界に生きているからだ。
 自分だけのスタイルで、自分だけの音楽の中に生きている。
 誰もがはっとして、まじまじと見つめてしまう程生き生きと輝いている。
 アルビーナ。
 憧れてやまない・・・自由を生きる女性。

 アルビーナがやって来るのは、大概夜も更けた頃。そろそろ日付が変わるかどうかという時だった。
 いつも変わった服装をして、何処で買ったのやら分からない靴を履いている。
 トレードマークともいえる真っ白な髪を靡かせて、彼女は颯爽と現れる。
 アルビーナはいつもテキーラをショットで一杯煽ると、ステップを踏みながらジュークボックスにやってきて、適当に曲を選別する。大概激しいロックだが、時折北欧のワールドミュージックをかけることもある。
 多分、なんだっていいのだろう。
 そこに音楽があれば。そして、ステップを踏むことが出来るのであれば。
 アルビーナが踊り出すと、皆おしゃべりをやめて彼女に注目する。
 彼女の踊りは独特だ。
 ハイビスカスが香る島国の踊りのようでもあり、炎を囲んで祈る種族の踊りのようでもある。
 クラシックでもモダンでもなく、ヒップホップでもロックでもない。
 と同時に、それら全てでもある。
 彼女はただ心に思うまま、体が求めるままに伸び伸びと踊る。
 だから誰も、彼女と一緒に踊ることは出来ない。
 汗がきらきらとライトに反射して、それが堪らなく彼女を美しく魅せる。

 アルビーナはひとしきり踊ると、額の汗を拭ってこちらへとやってきた。
「やあ。」
 僕は声をかける。アルビーナは片眉を上げてそれに応える。
「今日はまたえらくハイだね。」
 違う男が声をかけるが、彼女は肩を竦めただけだった。
 確かにアルビーナはいつも笑っている。声をたてて、心の底から陽気に。
 何がそんなに可笑しいのか。どこでも彼女はトリップしているし、ハイになっている。もしかしてマズい薬でもキめているんじゃないかと疑ってしまうが、伸びやかに動く彼女の細い腕には痛々しい注射針の後はない。
 アルビーナがカウンターに近づくと、バーテンも慣れたもので、何も言わずにズブロッカをショットで出す。その隣に、寄り添うように塩とライムを置く。アルビーナは手の甲に塩を少量のせ、それをペロリと舐めるとライムに齧りつき、ズブロッカをちびりちびりとやりだす。
 激しく動いたせいで、彼女の頬は薔薇色だ。
「アルビーナ。」
 僕は声をかける。
 アルビーナはこちらを見た。
 不思議な紅い瞳。その眼差しは、一点の曇りもなく純真な光に満ちている。
 そんな彼女の目の中に、小さな僕が佇んでいる。あまりにちっぽけな僕が、とても情けなく思えて言葉が続いて出てこない。
「肩。」
 アルビーナが不意に言った。
「肩?」
 意味が分からず、僕は鸚鵡返しに繰りかえした。
 アルビーナは自分の肩をポンポンと叩いてみせる。
 いや、肩が何処なのかはよく分かっている。なんで肩という単語がこの場に出てきたのか、それが分からないくて聞いたのだ。
「肩が、何?」
 アルビーナは悪戯っぽく笑う。
「もっと、柔らかく。」
「柔らかく?」
「硬くなってる。」
「??」
「力抜いて。ゆっくり歩く、そんなんで大丈夫。」
「何のこと?」
「貴方の心配事のこと。」
 ずしん、と心が啼いた。
 真摯な眼差しが、僕を見透かす。
 何も言ってない。何も知らない。
 でも彼女には、人の心の核が見えてしまう。
 そうしてただ一言だけ、置き土産を残す。
 その人が、その時、一番求めている言葉を。
 心の秘孔を突く、ただ一言を。
 アルビーナは驚く僕の姿に弾けるように笑って、ズブロッカを例の如く飲み干した。
 バーテンに目で合図すると、再びジュークボックスへと歩いていく。
 その後ろ姿を見送りながら、僕はそっと自分の肩に触れる。
 日々の仕事のストレスと、プライベートの痛みの中で、僕の肩はすっかりと強張ってしまっていた。僕自身すら気付かなかった、見えない重みに絶えかねて。
 曲が流れ出す。
 アルビーナは派手にターンをしながら踊り始める。
「Andante」
 それが彼女が選曲した曲の名前だった。

 アルビーナ。
 彼女に会った者は、必ず彼女に恋をした。
 恐らく本名ではない。
 でも、そんなことは関係ない。
 特に美人というわけではない。金持ちというわけでもないし、話上手というわけでもない。
 でも、皆彼女に惹かれてしまう。
 それは彼女が、いつも誰かの人生に絶妙なタイミングで訪れるからかもしれない。
 何をするわけでもなく。何を求めるわけでもないのに。
 それでも人は彼女から、言葉にならない大切なものを与えられる。
 優しく暖かい何か。
 それは生きる鼓動のようなもの。
 アルビーナ。
 真っ白な髪を靡かせて、彼女は今日も誰かの心のドアをノックする。

月に吼える野犬のように(ショートショトショート)

2006-11-19 23:15:51 | ショートショートショート

 数ヶ月前から、不思議な無気力感に苛まれている。
 仕事をし、食べ、眠り、遊ぶ。
 何も問題のない、どこからどうみても完璧なルーティンワーク。
 微かにくすぶるようなこの不安と、それを覆いつくすような虚脱感はなぜなんだろうか。
 問題がないことを喜ぶべきなのか。問題がないことに焦るべきなのか。
 体はどこも傷ついてないのに、深い傷を抱えているように、俺はじっと横たわっている。

「それはきっと、あんた自身の年齢的なもんなんじゃないの?」
 ミーナは、俺のベッドで煙草に火をつけながらそう言った。
「年齢?」
「そう。」
 彼女は首をこちらに向けて、俺の胸に頭を寄せた。彼女の香水の匂いが、微かに俺の鼻腔を擽る。
 小さな火種が、体の奥底でぞろりとさざめく。
「夢は必ず叶うと信じられる程子供じゃない。かといって夢を諦め捨て去る程大人になりきれない。そんな中途半端さが、あんたの中で消化不良を起こさせているんじゃないの。」
 ミーナはふうっと紫煙を吐き出した。
 崩れた彼女の口紅が、フィルターを紅く染める。
 それがやけに官能的に見えた。
 ミーナと知り合ったのは数年前。知り合い当初は映画を見に行くこともあったかもしれない。今では一緒に食事に行くこともまれになってきた。
 彼女とは何度か寝ているが、付き合っているわけではない。
 彼女がそれを望んでいるのか。よく分からない。少なくとも、彼女から付き合いたいと望んでいるそぶりを感じたことはない。
 いや。それは違う。
 彼女は感受性の鋭い子だ。付き合いたいと望んでない相手にそれを求めることは、賢明ではないと思っているのかもしれない。
 ミーナは手を伸ばして、灰皿に煙草を押し付ける。
 細く白いミーナの手首。そこにつけられた紫色の傷跡。
 俺はまだ、その理由を聞けないでいる。理由を聞けないから、ミーナは俺に何も求めない。
 つまりは、そういうことなのだ。

 夢にも賞味期限があるのだろうか。
 いつまでもいつまでも鮮やかに胸の中に燃え続けるには、根気と体力と忍耐が必要なのかもしれない。サバイバルに立ち向かう勇気がないといけないのだ。
 夢だけじゃない。
 いつも誰かを、強く強く愛したいと思う。
 でも俺は、小さな炎を前にして互いの肌で温めあうような、そんな恋愛しか出来ない。
 今のこの生活に不満があるわけではない。
 でも、どうしても幸せになれなくて、どう足掻いていいのかも分からず、途方にくれてしまうだけなのだ。
 誰も導く者はいない。
 それは俺に、長く続く線路の上をたったひとりで闊歩する情景を彷彿とさせる。
 もしかしたらやってくるかもしれない、列車に怯えながら。
 もしかしたら振ってくるかもしれない、チャンスを求めて。
 空を見上げながら、ただ孤独に俺は歩いていく。
 線路の行き先は、いつだって霞に包まれている。
 どんなに目を凝らしても、何も誰も見えないのだ―――――。

 ミーナを送り出した後、俺はふと気が向いて街を散歩することにした。
 通りを歩くアベックや家族づれを、早足で追い越していく。
 石畳が微かに濡れているのは、昨夜の雨の名残か。でも今空は、星が透けて見えそうな程瑞々しく晴れ渡っていた。
 エスプレッソの芳ばしい香り。
 露天で売られるワッフルの甘い香り。
 どこかで誰かが罵倒する声を上げ、どこかで誰かが出会えた喜びを分かち合い、どこかで誰かが愛を交わしている。
 そう、街はこんなにも生きている、、、、、
 俺は小さく、深呼吸した。
 抜けるような空に浮かぶ、小さな半月を見た。
 白く清浄なその姿を目にした途端、俺の中にとてつもない情動が沸き起こる。
 ああ、そうだ。
 生きているということを、狂う程俺は実感したいんだ。
 たとえ傷だらけの野犬になっても、今自分は確かにこの場に立って生きていると、他の誰でもない俺自身が認めたいのだ。
 長く尾を引いて、闇を切り裂く咆哮。
 その物悲しい声に感じるものは、寂しさか?違う貪欲さだ。
 良識や常識など関係ない。
 地面を這いつくばって生きるものだけが持つ、醜く美しい貪欲さなのだ。

 俺はそっと後ろを振り返る。
 列車はまだ、見えない。
 闇に沈んだその先にあるのは、ただただ痛みと後悔の残骸だ。
 たとえ行く先がクリアでなくても、このレールの上を走っていくのか。
 もしかしたら。
 そうもしかしたら、いつかこのレールから外れて、歩き出すことが必要になるかもしれない。
 俺の道は、誰でもない俺だけが決めること。
 そこが肥溜めだろうが、ガラクタの山だろうが、道のない場所だろうが、行きたいと望む場所に行くことこそが正解なのだ。
 俺は煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。
 吐き出す紫煙が、細く棚引いていく。
 月はいつでも、無言で俺を見守っている。
 俺は月を見上げて、ただ吼え続ける。
 一人ぼっちで。
 鉄錆の香り。俺はまた歩き出す。昨日とは違う足取りで。ほんの少し、鋭くなった眼差しで。
 この、日常という名の線路の上を。

約10分間の物語(ショートショトショート)

2006-11-11 23:04:38 | ショートショートショート


 起きて時計を見たら、物凄い時間だった。
 さあ、どうしよう?
 力なく枕に顔をうずめる。
 まあ、とにかく落ち着こう。
 今日は何曜日だっけ?
 えーっと・・・・そうだ水曜日だ。
 そうそう、昨日誘われて飲みに行って・・・帰ったの遅かったんだっけ。
 駄目だなあ、やっぱり平日に飲むのは止めよう。絶対今顔がむくんでるわ。でもどうしても話したいことがあるって言われて仕方無く。いや、でも今後はそれでも週末まで待ってもらおう。金曜日の仕事の後とか。
 うん、そうしよう。

 会社行くの・・・面倒臭いなあ。
 今から欠勤連絡して休みにしちゃおうか。
 うわっ休みたい。
 休みにしちゃって、のんびり寝ちゃったりして。
 で、一日中ず~っとTVとか見ちゃうの。
 見たい映画とか溜まってるし。
 あー、どうせなら映画見にいっちゃおうかな。平日だから混んでないだろうし。最後に映画見たのっていつよ?もう大分経つよなあ・・・・ああ、前彼とか。確か映画見て食事して・・・しかもどっちも最悪だったんだよねえ。彼とか映画中に寝ちゃうし。眠いんだったらデートなんかするなっての。珍しく逢いたいって向こうから言ってきて、会って別れ話とかありえないから。何で男って、別れ話になると悪者になりたがるんだろう。「君は悪くない」とかさ。後で自分を責めないように?そういうのって絶対優しさじゃないと思う。
 ・・・ま、そんなことはいいんだ。問題は今日会社行くか行かないかだわ。
 いっそ、遅刻して行くか。
 でも遅刻だと何か白い目で見られるし。午後出勤した後が気詰まりなんだよねえ。
 それと、何で遅刻したかっていう言い訳がねえ・・・やっかい。
 病気って手もあるけど・・・午後一杯体調悪そうにしなきゃいけないわけで。面倒くさいなあ。
 絶対仕事しているうちに、遅刻したことなんて忘れちゃう。それで「あれ?今日体調悪いってことだったけど、元気そうだねえ」なんて言われたら!取り繕うの難しいじゃんねえ。
 やっぱ中途半端はよくない。行くなら行く、休むなら休むだわ。
 
 あー・・・まてよ、私昨日ブラウスにアイロン当ててないんじゃないの?
 げー、アイロン当ててないくしゃくしゃのシャツなんかで出勤出来るかっての!
 なんでウチの会社って制服なのよ~。面倒くさいなあ。私服だったらめっちゃ楽なのに。
 ロッカーに何枚か入れときゃ良かった。洗濯して乾かしたまではいいけど・・・全部アイロン当てようと思ってそのまま昨日寝ちゃったんだっけ。
 アイロン当てて会社行ってってなると・・・駄目完全に遅刻。無理。
 やっぱ休むかあ。
 そうすると、体調不良が無難だよねえ。生休とかって言ってみるとか。でも電話して出た人が男性社員だったら言えなーい!生休っておかしい。なんで事前に言って取ることになってんの?不順な人とか困るじゃん。気遣いは嬉しいけど、全然的外れなんだよねえ。ニーズに応えてないっていうか。
 まあ、風邪ひいたって言うか。
 二日酔いも体調不良と変わらないさ。まったく全部嘘ってわけじゃない。
 よーし、今日は休み休み。
 もう一眠りしようっと。

 待って。
 あたし後どれくらい有給残ってたっけ?
 3日か・・・2日だよね。
 3日だったらいいけど・・・2日だったらマズい。旅行行く約束してたじゃん。
 日給で割って・・・多分1万ちょいは給料から引かれるってことだよね。
 うわっ、それヤバい。先月ちょっと使いすぎちゃったんだよな。今月の給料で相殺しようと思ってたんだもん。ボーナス出るのってまだ先だし。
 どっちだったっけ~。
 3日?2日?
 聞きたいけど、それ不可能だし。あーどっちだっけ。何で手帳に書いておかなかったんだろう。失敗したなあ。今度絶対確認して聞いておこう。
 
 ・・・・・・。
 ・・・・・・。
 ・・・・・・。

 しょうがない。
 起きるか。
 化粧に手を抜けば、ギリギリ間に合うもんね。
 
 あーあ。


帰る場所(ショートショトショート)

2006-11-02 23:40:23 | ショートショートショート

 石畳の上で、ふと足を留めた。
 奇麗に舗装された道の両脇の、背の高い街灯に明かりが灯る。
 吐く息すら、きらきらと凍りつきそうな寒い夜。
 見上げる空はすっかりと闇に沈んで、淡い小ぬか雨が降り注ぐ。
 傘をさしてさえ、私の肩も胸も背中もひっそりと濡れそぼってゆく。

 小高い丘から、眼下に広がる町並みの情景が好きだった。
 晴れた日は、遠い地平線を蒼く染める海が見えた。
 夜は、宝石箱をひっくり返したような光の洪水。
 それは幼い頃に見たおもちゃ屋の、美しく着飾ったショーウィンドウを連想させる。
 甘い香りと音楽に彩られ、沢山のおもちゃが笑いさざめく店内は、きっと沢山の幸福が眠っているのだと信じていたあの頃。
 街の明かりの一つ一つに、そんな幸福な夢が息づいているのだろうか。
 まるで天使が住んでいるような、美しい街。
 私はいつも、この場所に来ると足をとめて街を一望する。
 この光のどこかに、きっと私が住んでいる場所がある。
 私が住むべき居場所がある。
 赤いテールランプが私を誘い、暖炉の炎のように暖かく、居心地のいい街灯に守られた私の家がどこかにあるのではないか。
 そんな幻想に、しばしの間囚われる。
 でも、見つかることはない。
 私の帰り道は、ただただ闇の中へと飲み込まれているのだ。
 こんなに美しい街なのに、私は飛び込むことが出来ない。
 私の吐息だけが、白々と煌きながら霧散する。

 雨に濡れながら、私は佇んでいる。
 背中から這い上がる寒さに震えながら。
 見上げる空。垂直に落ちゆく雫。
 きっと。
 きっと今泣いても、雨のせいだと思えるかもしれない。
 舌先に残る苦味。
 これは別れの痛み。
 私の背後に立つ影法師の、最後の声を待っている。
 背筋を伸ばし、彼の瞳を見据えて放った決別の言葉。
 風も空気も雨も、息を潜めて私達を見守っていた。
 さよなら。
 ただひとこと。
 さよなら。
 それで、十分だった。
 瞬き一つ、言葉一つ、何もかもが完璧な別れだった。
 
 ゆっくりと、足を踏み出す。
 石畳に反響する、私の乾いた靴音。
 街明かりは、だんだんと霞んで滲んでいく。
 ひんやりとした頬は、青白く濡れていく。
 私の背中が、彼の声を待っている。
 呼び止めてくれる彼の声を待っている。
 でも、私は振り返らない。
 もう少し。あと少し。
 あの角を越えたら、私は新しい自分になれる。
 後悔も哀しみも苦しみも、すべて過去のことだと笑って暮らせる自分になれる。
 もう少し。あと少し。
 彼の息遣いを感じる。
 全身が耳になって、彼の鼓動を感じる。
 でも、私は振り返らない。
 今度はきっと、あの町並みの中に私の家を見つけられるだろう。
 明るく笑って「ただいま」と言える、幸福が見つけられるだろう。
 だから、振り返らない。

 靴音が響く。
 曲がり角は、もうすぐそこだ。