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「戯言の部屋」

セピアス、戯言を語るの間

私はそれが我慢出来ない(ショートショートショート)

2007-05-06 17:32:56 | ショートショートショート

彼女の場合

 買い物に行こうと言われた時から、憂鬱だった。
 彼が買い物と言うと、それは服とかアクセサリーではない。電化製品だ。
 悪いけど、電化製品なんてそう必要になることなんてないはずじゃない?
 でもあたしの彼氏は、しょちゅう電化製品を見たがる。
 まあ、仕事柄、新しいものや性能のいいものを必要としてるんだと思うけど。なんたらソフトがどうとか、なんたら商品は画期的だとか。どうでもいい講釈を長々話す。そんな専門的な話、分かるわけがない。付き合い始めは、相手に気を使って、頷いたり相槌を打ったりしてたけど、今はとてもそんな気になれない。横目でちらりと見て、聞き流す。むしろそんな態度で、興味がないってことを分かってもらいたい。
 
 三軒目を回ったあたりで、足が痛くなってきた。
 細いヒールの靴は、長時間歩くのに合わない。
 失敗したわ。もっと歩きやすい靴を履くべきだった。
 あたしの彼氏はとにかく色々見て回るのだ。あっちの店こっちの店と見て回って、散々悩んで、結局最初の店に戻って・・・その繰り返し。
 一緒にいると、まるでオバサンのバーゲンにつき合わされている気がして、うんざりしてしまう。
 彼が電化製品見て、私は服とか見て、後刻待ち合わせってことにして、美味しい夕食でも食べればいいと思うのに。それは嫌だといわれたことがある。そんなに一緒にいたがるなら、嫌気がさしてる私の気持ちを察してよ、と思う。
 気持ちがくさくさしてきて、煙草を取り出し火をつけた。
 紫煙が、夕暮れ迫る町並みに棚引いていく。
 その美しさを、うっとりと見遣った。
「疲れた?」
 彼があたしの顔を覗き込んで言った。
「別に。」
 疲れたに決まってんでしょ。分かってよ。と心の中で呟きながらも、一応相手に気を使って応えた。
 それでも、言葉の端に苛立ちが滲んでしまうのを止められない。
 でも、彼はそれに気付かない。言葉通り、何ともないんだって安心して、次の店へと私を引っ張っていく。
 ああ、なんてこの人はこんなに鈍感なんだろう。
 私はそれが我慢出来ない。
 そろそろ・・・やっぱり・・・別れるべきなのかなあ。
 そんな風に思った時だった。
「ほら、見て。紅い目の麒麟がいる。」
 彼の悪戯っぽい声に、はっと顔を上げた。
 彼が指し示す空の下。切り取った影絵のような町並みに、ひっそりと三頭の麒麟が佇んでいた。
 いや、それは工事中のクレーン車だ。でも全てを黄金色に染めぬいてしまうこの黄昏の中では、天空の星を食もうと首を伸ばす麒麟に姿を変える。
 紅い目を淋しげに瞬かせ、遠い何かと交信する。
 声なき声が、私の耳朶を振るわせる。
 そうして思い出した。
 彼は、こんな風に繊細な感性の持ち主だった。
 大雑把な性格な私にはない、透き通った瞳で世界を見ている人だった。
 枕元で、ギターを掻き鳴らし、少し照れくさそうに歌った彼の横顔。
 キスをする時、いつも伏目勝ちに私を見るその眼差し。
 腰に添えた手の温もり。
 好きという感情が当たり前になりすぎて忘れてしまっていた。
 彼の彼だけが造ることが出来る優しい時間。
 ああ、やっぱり好きなんだな。
 ごく自然に、当たり前のことに、気付かされる。
 だから私は、自分から彼の手のひらに自分を委ねた。
 不器用な彼の、不器用な私の、不器用な愛情表現。
 でも、この暖かさがあれば大丈夫。そんな風に思った。
 麒麟は空を見上げて、小さく一声啼いた――――気がした。



彼氏の場合

 三軒目を回ったあたりで、彼女が煙草を取り出した。 
 俺はそれを、横目で黙って見る。
 俺も煙草を吸うので、あえてくどくど言わないけど。
 でも、彼女には煙草を吸って欲しくない。
 以前さらりと言ったことがあるけど。覚えているのかいないのか。彼女は俺の前でパカパカ煙草を吸っている。
 女性が煙草を吸うのが駄目と思っているわけじゃ別にないんだ。ただ自分の彼女だけには、あんまり吸って欲しくないだけだ。
 特に女性は肌にくるだろう?彼女は白くて奇麗な肌をしているから、煙草で台無しにするのは勿体無いって思う・・・それだけなんだけどな。
 紫煙を吸い込む彼女の目が、空ろになっている。
 こういう場合の可能性は3つ。
 疲れている。お腹がすいている。眠い。
 ぱっと見ただけでは、どれなのか分からない。
 面倒臭えなあ。
 俺は心の中でそっと、溜息を吐いた。
 さっき会ったばかりだから、眠いってことはないだろう・・・でも彼女は比較的寝るのが遅いから、眠いってこともあるかもしれないなあ。飯は・・・食ってきたはずだから、お腹がすいているってことはない。ショッピングをして小一時間だけど・・・疲れたのか?たかだか小一時間で疲れるってのもない気がするけど、可能性としてはこれが一番高いか。
「疲れた?」
 俺は隣で不貞腐れている(ように見える)彼女に尋ねた。
「別に。」
 彼女はむすっとしながら応える。
 別に、じゃねえだろ。俺は心の中で呟く。
 一体なんなんだよ。何が不満なんだよ。
 彼女はいつもこうだ。
 気持ちと反対のことを言う。でもちゃんと言ってくれないと、何が嫌で何が不満なのか分からない。
 俺はエスパーじゃないんだからさ。
 でも彼女は、いつも気持ちを紫煙に託して中空に吐き出してしまう。言葉になりそこねた思いが白い煙になって霧散する。そして俺は、彼女の気持ちを量りかねて佇んでしまう。
 俺はそれが我慢出来ない。
 ちゃんと、言ってくれ。そう何度も言ってるのに。
 どうして女ってのは、こう分かりにくい生き物なんだろうか。
 面倒えなあ。
 俺はふっと溜息を吐いて、煙草に火をつけた。
 目を上げたその先に、俺は俺達を見つめる優しい眼差しに気付いた。
「ほら、見て。紅い目の麒麟がいる。」
 思わず彼女に、そう言っていた。
 俺の指し示す先を見遣って、彼女ははっと息を呑む。
 棚引く雲の谷間から零れ落ちる黄金色の夕日。
 その真ん中で、首を伸ばし紅い目を明滅させる麒麟。
 彼から見たら、俺達の小さな気持ちのすれ違いなど煩い雑踏に紛れて見えるのだろう。
 それとも、暖かい温もりの中に沈む幸せなカップルに見えるのだろうか。
 言葉もなく、遠い黄昏を見据える。その佇まいがあんまり淋しそうで、胸が疼く。
 その時、俺の手に彼女が自分の手を重ねてきた。
 その柔らかい手のひらの感触があまりに優しかったので、俺は思わず小さく微笑んで彼女の肩を抱き寄せた。
 そう、俺達は俺達だけの、優しい一時を造り出すことが出来る。
 手を伸ばせば触れることが出来る場所に、いつも彼女はいてくれる。
 それは、案外幸せなことじゃないか?
 寂しさを癒してくれる彼女の温もりを、俺は精一杯大切にしていきたい。
 俺は器用な方じゃないし、相手のペースに合わせるってことも苦手な方だ。だからいつも彼女を思いやることを忘れがちだけど。でも、それでも、彼女が好きって気持ちは本当だし、彼女と一緒にいたいって気持ちは揺ぎ無い。
 誰よりも幸せにするなんて気障なこと、言葉にして言えないけど、それくらいの気合はあるつもりなんだ。
 彼女の香りが、俺を優しく包み込むのを感じる。
 そうしてここから俺達。
 淋しい麒麟を見ていこう。
 俺達の道程を見守ってくれる、紅い眼差しを背中に受けながら――――。


月の光のその下で(ショートショートショート)

2007-04-08 21:12:03 | ショートショートショート


 車椅子に乗ってたどり着いたその場所を見て、彼女は眉根を寄せた。
 哀しく顔を曇らせ、顔を背ける。
 僕を見上げる彼女の瞳には、怒りさえ滲んでいた。
「なぜ・・・。」
 零れる言葉を無視して、僕はブースへと近づく。
 手馴れた手つきでスイッチを入れていく。
 次々とライトが灯り、僕らの面前にきらきらと輝くステージが浮かび上がった。
 ここが、始まりの場所。
 僕らの、始まりの場所。
 彼女はまだ、僕を見つめている。
 あの頃、彼女の足を包んでいたのはトウシューズだった。
 今、彼女の足を包むもの。
 それは痛々しいくらい真っ白の包帯だった。

 かつてこの劇場には何百人という人がいて、奏でられるチャイコフスキーに耳を傾けながら、舞台の上で繰り広げる幻想的な世界にうっとりと魅了されたものだ。
 彼女は時に白い時に黒いチュチュに身を包み、しなやかに腕を動かしながら瀕死の白鳥になったり、王子を誘惑する黒鳥になったりした。
 でも一番輝いていたのは、クラシックバレエではない。
 コンテンポラリーだ。
 彼女が踊りは、常夏の香りがする。
 熱いラテンの音楽の中で、挑戦的とさえ言える眼差しで彼女は踊った。
 僕は彼女の背中が好きだった。
 無駄な贅肉など一つもない、引き締まった筋肉の筋。それでいて、緩やかにカーブを描いて撓る曲線の美しさ。細い彼女の体のどこに、これだけの力があるのかと思えるような跳躍の中で、白い背中がひときわ輝く様が好きだった。
 熱い火花を散らすような。
 彼女の激しさに、誰もが一瞬で恋をした。
 まるで熱に浮かされたように、誰もが彼女を讃えた。
 舞台には薔薇の花びらが降りそそぎ、誇らしく最後のポーズを決める彼女は、まるで女王のような威厳を醸していた。
 僕はただ、彼女が一番美しく映える角度を考え、照明を照らし、舞台という別世界を造ってきた。
 それが世界から託された僕の使命であるかのように。
 想いが光りの中へと溶けていく時、まるで自分が自分を超えるような恍惚感を感じた。

「事故以来、この場所には来ていなかったわ。」
 彼女はぽつりと呟いた。
「一年前、ここで踊っていたなんて――――まるで嘘みたいに感じる。」
 そう、自嘲気味に笑う。
 一年前。ここでコンテストがあった。そして彼女は最年少で受賞した。
 そしてその夜――――交通事故にあった。
 幸い、骨にも神経にも異常はなかった。
 しかし事故は、彼女の精神を大きく蝕んだ。
 踊れるようになると医者は言っても、彼女の中で何かが砕け散っていた。誰が何と言おうとも、彼女は踊らなかった。踊ることが罪悪であるかのように、彼女は踊りを憎んでいた。
「あの日。」
 彼女の車椅子を動かしながら、僕はゆっくりと言葉を紡いだ。
「君はこの場所で踊っていた。僕は照明で君を追いかけながら、踊る君の姿をずっと見ていた。」
 しんと冷えた舞台に、車椅子の軋む音が響き渡る。
「飛び散る汗も、指先の一つ一つの動きも、あの熱気も、僕は残らず覚えている。」
 キイ、と音を立てて、車椅子は舞台の真ん中に止まった。
「とても、美しかった。きらきらと輝いていた。君だけが、あの場所で真実生きていた。」
「ありがとう。」
 彼女は瞳を伏せる。
「でも、私は――――。」
「いいんだ。」
 僕は彼女の言葉を遮る。そして彼女の前に跪いた。
 いぶかしげな顔で僕を見つめる彼女に、そっと手を差し伸べた。
 僕の想いを、彼女は十二分に分かっていた。その手を払いのけることも、そのまま車椅子で舞台を降りることも、ただ背を向けることも出来た。
 でも。
 彼女は逡巡しながらも、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
 そのまま、手を引かれて立ち上がる。
 僕は手を離し、彼女の傍に佇んだ。
 七つのライトに照らし出された彼女は、顔を上げて虚空を見つめる。
 僕はふと、どこからか音楽が聞こえてくるような気がして耳を澄ませた。空の高い高い場所から降りてくるような、小さなけれど重々しいそのメロディー。
 誰かの咳払い。
 深い沈黙を満たす緊張感。
 何百人もの視線を感じる。
 それは幻の舞台。彼女がこの場所に佇むだけで、舞台は始まる。劇場そのものが、息を潜めて彼女を彼女の演技を待っている。
 彼女はそろそろと、右足をあげた。
 真っ直ぐに伸びる足。それは緩やかに半円を描いて後ろに払われる。
 両手を伸ばし、艶やかなアラベスクを描く。
 昂然と顔を上げる彼女の瞳には、あの日の月が浮かんでいた。
 皓々と輝く月の光が、青白く彼女に降りそそいでいた。
 七つのライトは星になって、月を取り巻き夜を奏でる。
 この音楽の中で、彼女は誇り高く胸をそらせる。
 僕は彼女の背中が好きだった。
 無駄な贅肉など一つもない、引き締まった筋肉の筋。それでいて、緩やかにカーブを描いて撓る曲線の美しさ。細い彼女の体のどこに、これだけの力があるのかと思えるような跳躍の中で、白い背中がひときわ輝く様が好きだった。
 アラベスクの姿勢で静止したまま、僕は確かに彼女が彼女らしい輝きを放つのを感じていた。
 彼女の鼓動を感じる。
 熱い血潮が夜の無音を揺り動かし、波動となって僕を包み込むのを感じていた。
 
「私を轢いたのはね、恋人だったの。」
 彼女は舞台に佇んだまま、下を向いて呟いた。
「私が踊るのを、ずっと応援してくれていると思ってた。でも違ったの。ずっと憎んでいたの。あまりに長い時間憎んできたから、ダンスが憎いのか私が憎いのか分からなくなってしまったのね。」
 だから、彼女もダンスを捨てた。捨てようと思った。
 不幸は全て、ダンスに閉じ込めて葬ってしまおうと。
 でも――――。
「でも、やっぱり出来ない。」
 彼女は顔を上げる。
「この場所が好き。この場所の匂いも、佇まいも、照明の熱さも眩しさも。何もかもが、私に生きている実感を与えてくれる。」
 彼女の中に刻まれるビートが、彼女を駆り立てる。
 体中を巡って、彼女は知らずに踊り出す。
 それが、彼女なのだ。
 踊りの中でこそ、彼女は自分を認識出来る。
「また、踊りたい。」
 そういう彼女の言葉を、僕は両手で抱き締める。
 喝采が聞こえる。
 彼女に恋し、彼女を讃え、彼女を突き動かす沢山の人々が、彼女の名を叫んでいる。
 彼女はポーズを決め、じっと音楽が流れるのを待っている。
 緞帳はゆっくりと開かれる。
 ライトは煌きながら、彼女を一番美しく映えさせるだろう。
 僕はうっとりと目を閉じて、その熱気に身を浸すのだ。
 月の光のその下で。
 彼女の舞台は今、幕を開く―――。 


見知らぬ をんな(ショートショ-トショート)

2007-04-04 23:27:46 | ショートショートショート

 

「貴方、もうお歸りになるの?」
 女の声にはっとして、ネクタイを締める手を止めた。
 眠ってゐたとばかり思つてゐた女は、ぢっと天井を見つめてゐる。
 裸の肩が剥き出になってゐるのが見えた。
「いや、その。雪が降り出してきたから。積もる前にね。」
 私は齒切れ惡く、言ひ譯をする。
 本当は女が眠つてゐる間に、出て行かうと思ってゐたのだ。
 昨夜は仕事で遲かった。
 今日は行きずりの情事だが、二晩續けて遲いのは流石に不味い。
 私は女の傍にいき、ベッドに腰かけた。
 女は私を見ることもなく、瞬きすらしなかつた。
 眞っ直ぐ瞶める瞳は、恐ろしい程澄みきってゐた。
 そこには一切の感情がなかった。硝子玉のやうに、竒麗な竒麗な瞳だった。
 身動きもしない姿は、肌の白さのせゐもあり、まるでよく出來た人形のやうに見えた。

 どうも最近姙娠のせゐか、妻の感情の起伏が激しい。
 いつも疲れた顏をして、ぐったりとになつてゐることが多い。
 さうかと思へば、突然理由の分からぬことで激昂したり。かと思へば、突然求めてきたりする。
 安定したでゐることが一番と想ひ、なるべく穩やかに接するやうに心がけてはひるものの。
 どうにもかうにも、私自身の氣持ちがささくれて仕樣が無い。
 氣分転換に、名も知らぬ街の女に声をかけ、そのまま飮みに行ってみた。ちよっと飮むつもりが、あっといふ間にベッドに倒れこんでゐた。
 一体何がどのやうにしてさうなったのか。詳しくは覺えてゐない。
 覺えてゐるのは、身体の燃えるやうな熱さとしっとりと濡れた眼差。
 崩れた口紅と、からみつく腕のしなやかさ。
 私は独身の頃の、あの体中力が漲るやうな感覺が蘇ってくるのを感じた。
 激しい高ぶりの後の、すっと冱える空白を思い出した。
 さう、私は知らないうちに男といふものを見失ってゐたのかもしれない。
 それから、申し譯ないと想ひつつも、見知らぬ女とワンナイトスタンドを樂しむやうになってしまった。
 帰っても、どうせ食事の支度などしてはゐないのだらう。冷えたテーブルに突っ伏して、妻は空ろな目をして中空を見据ゑてゐる。つはりのせゐなのか、經症を患つてゐるのか。判斷などつかない。
 妻には出來るだけ優しくする。そのかはり、少しくらい目を外してもいいぢゃないか。
 私はそんな風に自分に言ひ譯をしてゐた。

「雪が、隨分降ってきたよ。」
 私はベッドに腰かけたまま、外を見た。
 小さな窓の棧には、既に幾分か雪が積もってゐる。
 斜めに吹きすさぶ樣は如何にも寒さうである。
 電車は、止まってゐるかもしれない。かといつてタクシーで歸るにしても、大分時間がかかりさうだ。
 こんな日は地下鐵を乘り繼いでいった方が、案外早く歸られるのかもしれない。
 私は女の肩に手を置きながら、頭の中で忙しく歸る手段を考へてゐた。
「貴方、もうお歸りになるの?」
 女は、先ほどと同じ言葉を口にした。
 淋しいのだらうか?
 私は小さく微笑んで、彼女の頰にそっと手を当てた。
「うん。本当はもっとずっと一にゐたいと思ってゐるんだけどね。君も歸られなくなったら困るだらう?なんなら一に出ようか?」
 女の頰は、寒さのせゐかほんのりと冷めてゐた。
 その冷たさは、手の平に沁みわたるほどだった。
 女はやはり動かない。
 何も感情を宿してゐない瞳をぎょろりと動かし、私をぢつと見据ゑた。
「また、私を置き去りにするの?」
「また?」
 私はどきりとして、彼女の頰から手を離した。
 淡々とした言葉。瞳と同じく何の感情もない声は、しかしどこか底知れない闇を湛へてゐた。
 私は寒さのせゐだけでなく、ぞくりとした。
 女はその口元に、小さく微笑みを浮かべてゐた。
 それはどこか妖艷で、殘酷な氣配を漂はせてゐた。
「忘卻は罪。さう言ったのは貴方なのに。私を忘れてしまつたの?」
 忘卻は罪?
 私がさう言った?
 私は彈かれたやうに立ち上がった。
 思ひ出したからではない。怖くなったのだ。
 自分の中で、何かが叫んでゐる。今すぐここから飛び出せと、喚いてゐる。
 半ば驅け出すやうにして扉に向かった。
 飛びついてノブを回すが――――開かない。
 私はパニックに陷った。
 鍵は?鍵はどうだ?ノブの周りを見てみるも、鍵穴など何処にもない。ならばどうして開かない?闇雲に押したり引いたり、体当たりを食らはせるてみても、扉は少しも動かない。悠々と聳え立ち、嘲るやうに私を見下ろすばかりだ。
 どうなつてるんだ!
 私は苛々と脣を嚙む。
「無駄よ。」
 背後から、女の声がする。
 私は動きを止め、おそるおそる後ろを振り返った。
 女はベッドの上に座って、こちらを見てゐた。
 薄明かりの中で、なぜか紅い脣だけが浮き上がって見えた。
 艷々とした脣が、兩端を持ち上げるやうにして笑ってゐる。
 その奧の犬齒が、ちらりと光るのが見えた。
「貴方をずっと待ってゐたけど、もう待ち續けるのは疲れてしまったの。ねえ、貴方。忘れてしまったことを怒らないから、もう一人ぼっちにはさせないと言って頂戴。ここで朽ち果てるまで一にゐてあげるって、さう言って頂戴。」
 愛おしさうに囁く女の吐息が、甘い腐臭のやうに私にまとはりつく。
 なんなんだ一体。なんなんだ一体。
 この冷氣の中で、背中を汗が伝う。
 どうしてこの女を美しいなどと思ったのだらう。
 その目に。その口に。その微笑に。その姿に。
 こんなにも狂氣が渦卷いてゐるといふのに。
「君だけを愛してゐるって、さう言って頂戴。」
 女はゆっくりと近づいてくる。
 思ひ出せ。思ひ出すんだ。
 私は金縛りにあつたやうに動けなかった。
 窓は既に、雪に埋もれて外が見えない。
 無音の中で、女の衣擦れの音だけが妙に大きく聞こえた。
 知らないと認めることこそ恐ろしい。
 思ひ出せ。思ひ出すんだ。
 私は目を閉ぢて、必死に呟いてゐた。
 女の笑ひ声が聞こえる。
 それは吹雪く風のやうに、私を爪先から凍えさせた。


ブラインドデート(ショートショートショート)

2007-03-18 17:32:47 | ショートショートショート


 私がブラインドデートをする時に、相手に求める条件は一つ。
 真冬に花火をあげることが出来るかどうか。
 それはつまり唸るような金を持っているかどうかという枕詞。
 今日のブラインドデートの相手は、その点では申し分なかった。
 彼は料理研究家という肩書きで、有名な酷評家。あらゆるメディアで、彼の歯に衣着せぬコメントが踊っているのを目にする。彼が来ると、気取ったホテルのボーイが慌ててエスコートしようと飛んでくる。
「ここの牡蠣とシャンパンの相性は抜群なんだ。パンはダメだけどね。牡蠣はまさに絶品。」
 彼は子供のようにきらきらした瞳でそう言った。
「料理研究家がそう言うなら、是非とも頂かないとね。」
 私は肩を竦めて言った。彼はいやいや、と手を振る。
「皆僕を料理研究家だって言うけどね。そんなもんじゃないんだよ。」
「そうなの?」
「僕はただの美食家だ。美味しいものに目がないだけ。勿論・・・。」
 私達の隣で、躾のいき届いたボーイがシャンパンを開ける。
「美しい女性にも、目がない。」
 真冬の観葉植物の海の中で。大金持ちに口説かれて、ぼうっとならない女なんていない。
 私の中で、カチリとスイッチが入ったのを感じた。
 だから頬を染めて首を傾げ、上目遣いで彼を見上げる。勿論、そうするのが一番奇麗に自分を見せると計算済み。
 で、ちょっと口元をほころばせてこう言うのだ。
「ありがとう。貴方も・・・素敵よ。」
 それが、ブラインドデートのお約束。

 確かに牡蠣は申し分なかった。
 シャンパンを赤ワインに変え、コース料理は肉料理へと変わる。ラムチョップの美味しさに舌鼓を打ちながら、私は目の前の男との未来に舌鼓を打った。
 頭が良くて、ユーモアがあって、しかもお金持ち。
 なんでこんな三拍子揃った男がブラインドデートをしているのか、疑問に思わないでもない。でも忙しい仕事だし、仕事で出会うのは究極の美女ではなく究極のお料理。だから縁遠い生活をしているのかも、と自分に納得させる。
「それで、君の仕事は?」
「部屋のトータルコーディネイト。私は一度も北欧に行ったことがないのに、北欧の家具に囲まれて仕事しているわ。」
「アンティークは僕も大好きだ。」
「そう。気が合うわね。」
 私は片眉を上げて、小さく微笑んだ。
 古い家具に包まれて、静かに過ごす彼との生活を思い浮かべてみる。私が厳選し、完璧にコーディネートした家。古い暖炉に極上のワイン。勿論彼のお墨付きのチーズを摘みながら。木が爆ぜる音しか聞こえない静けさの中で、彼と二人で見詰め合う。
 それはとてもロマンチックな想像だった。
 その質問が、飛び出てくるまでは。
「で、君はいつまで仕事するの?」
 彼はナプキンで口を拭いながら、当たり前のように聞いてきた。
 私は一瞬意味を図りかねて、沈黙する。
 そして、おずおずと聞いてみた。
「貴方は、いつまで仕事するの?」
「ん~~~。定年までかな。男は皆そうじゃない?」
「女は、違うの?」
「女は家にいて子供を育てないとね。君はいつまで仕事しようと思っているの?」
 それは、遠まわしに結婚を考えていると言っていたのかもしれない。
 でも、私はそこまで楽観主義じゃなかった。
 女は結婚したら、家庭にこもる。それは私が一番聞きたくない禁句。現代女性を馬鹿にした台詞だ。
 確かに私は結婚願望が強い。だからこうやって、ブラインドデートを重ねてる。
 もしかしたら、もしかしたら・・・って、そんな風に思いながらいつもデートをしているのだ。
 でも。
 仕事は別。仕事、大好きだもの。どんなにパートナーがお金持っていても、それで一生贅沢に生活が出来るとしても、私は仕事を続けていく。
 結婚して変わってもらいたいものもあるけど。
 けっして変わってほしくないものだってあるのだ。
「私は、結婚しても仕事するわよ。勿論、子供が生まれても。」
 私がそう言うと、彼は両手を上げてヤレヤレという顔で肩を竦めた。
「今の女性は何かって言うとそう言うけど・・・もうちょっと現実的に考えた方がいいと僕は思うんだよね。」
「っていうと?」
「仕事と家庭を両立なんて、出来るわけないじゃないか。子供は手がかかるし、スグに家を汚くする。誰かが傍で見守って、きちんと躾てあげなくちゃ。」
「勿論そうよ。でも、子育ては女だけでは出来ないわ。ちゃんとパートナーにも一緒にやってもらわないと。協力し合うからこそ、女も外で働けるんじゃないの?」
「君、それ本気で言ってるの?」
 男は苦笑して言った。
「子育ては女の仕事だろ。男は外で稼ぐのが仕事。」
 その瞬間、私はこの男が家事も育児も押し付けて、のうのうと外で浮気する様がはっきりと目に浮かんだ。
 どうやら目の前の男が受け入れられるのは、進歩的なお料理だけ。頭の中の家庭像は、随分と旧世代らしい。
 でも男は誤解している。
 現代の女は、昔のように意見を言えないわけじゃない。ただ男の影に寄り添っていればいい時代は、とっくの昔に終わったのだ。
 今の女は、もっともっとしなやかに気高く、そしてタフなのだ。
「そう。よく分かったわ。」
 私はにっこりと笑った。
 文句ない満面の笑み。
 そして二千ドルはする高級ワインを、彼の顔にぶちまけた。
「失礼。」
 あくまでエレガントに美しく。私は立ち上がって店を出て行った。
 10センチピンヒールの音が心地よい。唖然とした彼の顔が、ガラスに映っているのが見えた。

 外に出て、煙草に火をつける。
 またもや、失敗。
 ま、それがブラインドデート。回を重ねるしかないのだ。完璧な出会いを求めるのであれば。
 でもまあいい。失敗したけど、すっきりした。
 確かに子供っぽいかもしれないけど、時に女は無邪気に男に制裁を与えなければいけない。男の手綱を握り、確実な未来へと導くのは女の度量なのだ。
 男は、多少翻弄されるくらいがバランスいいのかもしれない。
 吸いかけの煙草をもみ消した。
 バックから携帯を取り出して、空いてしまった時間をどうするか考えた。
 指は迷わずに、ある番号を押す。
 こんな日は、気兼ねなく飲むしかない。
 コール音三回。
 出た相手は、長い付き合いの女友達。
「ねえ、今暇?ちょっとさ、飲み行かない?」
「デートじゃなかったの?」
「失敗だった。もう最悪。ワインひっかけてやった。」
 受話器の向こうで、笑い声が聞こえた。
 30分後、待ち合わせることを決めて電話を切る。
 そして夜の闇に沈む町並みを、私は凛と背を伸ばして歩き出した。


薫風に背押されて(ショートショートショート)

2007-03-04 23:47:54 | ショートショートショート

 燦々と降りそそぐ日差しの下で、私はふと顔を上げた。
 何処からか迷い込んできた、沈丁花の甘い香り。
 風はまだ冷たくとも、季節はゆっくりと確実に春へと向かっている。
 永劫変わりないと思える境遇に身を置いていても、時候だけは前へ前へと進んでいくらしい。
 私は溜息交じりに、目の前の半紙と向き合う。
 出来上がった墨は、闇夜の暗さで硯に満たされている。
 嗚呼。
 何を、書き付けばいいのか。
 感謝か。造反か。
 私は頬杖を突いて、光溢れる濡れ縁を見つめる。
 何を、表せばいいのか。
 申し訳ないと思うには愛情が足りな過ぎる。
 してやったりと思うには憎しみが足りな過ぎる。
 未来と同じ。
 何処へとも行かぬ気持ちは移ろうばかりで、どうにも集中することが出来ない。
 息吹き始めた庭では猫が一匹、池の鯉を獣の目で注視している。
 つやつやとした毛並みを嬲る、風の軌跡を空ろな目で見遣った。
 ただ分かっているのは、如何しようもないということ。
 如何しようもないということを、きっと誰も分かってくれない。
 誰も分かってくれないということを、痛い程私は分かっていた。

「一緒に、いこう。」
 列車ボーイはたどたどしく呟き、そっと私の両手を取った。
 待ち望んでいた言葉を囁かれたような嬉しさと、空恐ろしい宣告を告げられたような恐怖が、ない交ぜになって私の胸に飛来する。
 仄暗い洋灯に照らし出され、精悍な瞳は微かに潤んでいた。
 朱を塗ったような、紅い唇。
 刷毛でさっと染めたように、紅潮させた頬。
 少年のそれと変わらない。それでも悲壮な覚悟を秘めた眼差しは、千の矢となって私の胸を貫いた。
 ごうごうと煙を上げる機関車の袂で、私達は向かい合っていた。
 鳴り響く警笛も、獰猛に吹き上げる蒸気も、行き交う雑踏さえ遠く遠く霞んでいく。
 私はただ、彼の目を見つめていた。
 彼の目に映る私を、見つめていた。

 男に見初められ、望まれて結婚することが、女の幸せだと云う。
 男の望む妻となり、男の見立てた服で身を飾り、男の思うままに立ち居ふるまわねばならぬ。
 それでは私というものは、一体何処へと行くのだろう。
 男の望む仮面をつけ、男の望む衣装を見に付け、男の望む妻を演じらねばならぬなら。
 春の霞のように薄れていく自我を、どうやって繋ぎとめればいいのか。
 それとも望まれることそれ自体を、幸せと諦めねばいけないのか。
 一人の人間ではなく、一個の人形として愛玩されるような日々。
 それを幸せと思うことこそ、女の幸せなのか。
 いや、と私は自嘲気味に笑った。
 それは詭弁だ。
 夫を捨て、生活を捨て、取り巻く世界と決別せんとする私自身への言い訳に過ぎない。
 ずっとずっと、目を逸らしてきた。
 穏やかでありながら、安寧とした日々に埋もれながら。
 愛してもいない男を立てて、ただ昨日の続きを行うだけの日々の中で。
 一方で、射竦めるような眼差しを背中に感じていた。
 振り返ることが怖かった。
 振り返ることで、私は自分の心を誤魔化すことが出来なくなると分かっていたから。
 想いは慕情のように、時と共に強くなっていく。
 目を閉じて瞼に描くのは、夫ではない。
 そのことに、とうの昔から気付いていたのだ。

 私の耳朶を振るわせる、彼の声を思い出す。
 私の両手を取った、彼の温もりを手繰り寄せる。
 あの、列車ボーイの鼓動を感じる。
 流れる血潮の熱さも、その罪深さも、私達は酷似している。
 いや、似ているのではない。同じなのだ。
「一緒に、いこう。」
 震える、彼の声。
「一緒に、逝こう・・・姉さん。」
 弟の言葉に、涙が零れた。
 ええ、一緒に逝きましょう。
 世界の果てまでも。
 この世の果てまでも。
 何処に行っても糾弾されるであろう私達は、互いに手を取って黄泉路にも似た道を歩いていく。
 それは険しく光明の無い道であると分かっていても。
 甘美な罪に溺れながら、私達は私達だけの幸せを貪りながら歩いていくのだろう。
 ただ分かっているのは、如何しようもないということ。
 如何しようもないということを、きっと誰も分かってくれない。
 誰も分かってくれないということを、痛い程私達は分かっていた。

 書き付けたばかりの、まだ乾かぬ墨の上に、はらはらと桃の花が舞い降りた。
 それは、地獄へ堕ちようとする私への警鐘か。
 それとも、永く密やかに抱き続けた想いが叶うことへの祝福か。
 耳を澄ませても、冬枯れの音はもう聞こえてこない。
 季節が巡りゆくように、人もまた前へ前へと進んでいかねばならない。
 足掻きながら、不器用に、おそるおそる自分だけの幸せを手繰り寄せる。
 半紙に残された別れの言葉。
 さよなら、の四文字はそっけない程簡素だった。
 離別の恐怖よりも、未来への不安よりも、私の心を満たすのは彼の言葉。
 共にと囁く彼の吐息。
 もう、此処に戻ることはない。
 獄に繋がれても、地獄に落とされても。
 此処に戻ってくることだけは、ないだろう。
 薫風に背押されて。
 一匹の雲雀が、深い蒼穹の彼方へと飛び立った―――――。

Queen Bee(ショートショートショート)

2007-02-20 23:42:22 | ショートショートショート


 これほど煙草が似合う女性もそうそういまい。
 煙草を挟む指先のフォルムも。吸い込む時に僅かに細める瞳も。紫煙を吐き出す唇の紅さも。
 まるで映画の中のワンシーンのように、完璧な調和がある。
 髪を掻き揚げ、斜めに見あげる瞳のキツさ。いつも口元に浮かんでいる皮肉っぽい微笑。
 口元から覗く犬歯が、刃のように尖っていたとしても、きっと違和感なぞ感じない。
 いや寧ろ、彼女になら噛み殺されてもいいとさえ思う。
 彼女にかけられた嫌疑は、殺人。
 現場に残った少ない証拠を寄せ集め、聞き込みをし、あらゆる科学捜査の果てに彼女にたどり着いたのだ。
 第一容疑者として、出頭を申し渡したのが先刻。
 この狭い取調べ室で、彼女は美しく煙草を吸っている。
 まずいなあ、と心の中で呟く。
 長い経験で分かる。
 本当にまずいのは、こういうタイプの女性なのだ。

「事件当夜はどちらに?」
「自宅。」
「お一人ですか?」
「興味があるの?」
「質問に答えて下さい。」
 私が憮然と言い放つと、彼女はおかしそうに笑った。
「ごめんなさい。誰かと一緒に暮らしているのかって意味かと思ったの。ええ、事件の夜は一人でいたわ。残念ながら、証明してくれる人はいないわね。」
 ふうっと紫煙を吐く。
 ゆっくりと瞬きをする。
 長い睫の奥に、濡れたような瞳が私をじっと見つめている。この状況を楽しむように、きらきらとした光を滲ませて。
「被害者の男性を知っていますね。」
「ええ。」
 彼女は肩を竦めた。
「どのようなご関係でしたか?」
「難しい質問ね。」
 彼女は小さく首を傾げた。
「恋人、友人、他人・・・誰かと誰かの関係をカテゴライズするのは難しいわね。恋人でもなく友人でもなく他人でもない、そんな曖昧な関係もお互いが納得していれば成立してしまうものだから。」
「詭弁ですね。」
「そう?」
 彼女は肩眉をあげ、揶揄するような微笑を浮かべた。
「調べでは、彼はよく貴方の店に行っていたそうですね。」
「ええ。」
「また個人的にも頻繁にお会いしている。」
「ええ。」
「もう一度聞きます。どのようなご関係だったのですか?」
「そうねえ・・・確かに客と店員という関係ではなかった。とても親しい関係だけど、肉体的に親密という関係ではなかった。そんなところかしら?」
と、言いながら彼女は髪を掻き揚げ、ゆっくりと足を組み直す。短いスカートから伸びた足の、まぶしいくらいの白さが私の目を刺した。
 短い沈黙が訪れる。
 彼女が彼を殺すとして、どんな動機が考えられるだろう。
 彼の部屋にある沢山の痕跡が、彼女が犯人だと告げているのだが、どれも決定打に欠けるのだ。
 男の首に巻きついていた、絹の感触を思い出す。さらさらとしたその手触り。ひんやりとした死体を、まるで飾り立てるような紅い布地だった。
 白く細い彼女の指先と紅い絹は、きっととてもよく似合うだろう。
 黒い服に身を包み、高いヒールの靴で踏ん張り、彼女はきりきりと男の首を絞める。無駄な動きは何処にもない。全てが淡々と、まるで丹精な音楽のように完結する。
 煙草を吸う仕草のように。一分も隙のない美しさで。
 力無く脱力した男の口元は、僅かに笑っている。
 狂気の中で見る、幸せな夢に包まれた微笑。
 それは確かに常識では考えられない歪んだ愛なのだが、それでも少しだけ羨ましいと思っている自分がいる。
 死にたいとか、殺されたいと望んでいるわけではない。
 ただ、目の前の女性には、確かに何か危険な闇を感じるのだ。全てを投げ打ち、暗澹とした泥の中に沈んでしまいたいと思わせる何か。息が出来ないくらい無我夢中で、何も見えない暗がりの中で、彼女という火だけが真実と思わせるような何か。
「彼が亡くなって、どう思いますか?」
 ひたひたと近づいてくるような、彼女の魅力に飲み込まれそうな自分を振り払いながら、私は最後の質問を投げかける。
 ふと、彼女の瞳が虚空を見つめる。
 小さな小さな、ともすれば見逃してしまいそうな弱々しい光が、その目の中に飛来する。
「・・・・残念です。いい子だったのに。」
 彼女はそう言って、少し淋しそうに笑った。
 いままでのような態度とはまるで違う、まるでペットを亡くしたばかりの少女のような顔だった。
 それは一瞬だけだったが、私の心に大きな布石となって響いた。
 彼女は、大変危険な女性だ。
 なぜなら、彼女は混乱を愛するからだ。
 そして十分に自分の魅力を知っているし、それを活用する方法も知っている。
 だが一方で、とても孤独な女性なのだと思った。
 深い深い海の底で、遥か遠い水面を見上げるように。音もなく、温もりもなく、しんとした寂しさに漂いながら。彼女はきっと、何かを狂うほど求めているのだろう。
 ほんの一瞬だけ見せた彼女の哀しみ。
 それは蒼く蒼く透き通った、彼女の孤独の波紋だった。

「疑わしきは罰せずか・・・。」
 釈放された彼女の後姿を見送りながら、呟く。
 朝日の中で、背を伸ばして歩く姿があまりに凛々しくて、つい見惚れてしまう。
 燐と顔を上げ、胸を張って歩く彼女。
 彼を殺したのは、彼女なのか。それとも彼は、ただの自殺だったのか。
「もしかして、二人の間でそれは変わりないのかもしれないなあ。」
 私はそう言って、煙草に火を点けた。
 灰皿には、彼女が握りつぶした吸殻が残っていた。
 紅い口紅のついたそれが、やけに官能的に見えた。
 ふと思いついて、調書をもう一度見直してみる。
 彼女が経営していた店の名前。
 それは―――――「Queen Bee」
「出来すぎだな。」
 私は小さく笑った。 


恋愛カウンセラー(ショートショートショート)

2007-02-11 12:27:01 | ショートショートショート

 その日訪れたカップルは、少し風変わりだった。
 繊細そうな男性の隣に座った女性を見て、私は彼らの問題を一目で把握した。
 女性は―――――そう、有機的人造人間サイバノイドだったのだ。
 まだ、人間と殆ど機能的に変わらない生体人造人間バイオロイドというならば分かるのだが。
 しかも彼女は随分旧式のタイプの有機的人造人間サイバノイドだった。表情を変えることすら出来ない。日々の雑用を淡々とこなせるくらいの機能しか、持ち合わせてないだろう。
 無表情な眼差しで、彼の隣に鎮座している。
「ここが・・・恋愛カウンセラーと聞いて、やってきました。」
 男性の方が口火を切った。思ったよりずっと幼い声だった。
「どうか僕達を、助けて下さい。」
 私を見つめる彼の瞳はあまりに真摯で、そこに狂気がないことを確認した。


「そしてここにいらしたということは、何かトラブルを抱えているということですね。」
「はい。」
「どのようなトラブルですか?」
「問題は・・・彼女と結婚をしたいのに出来ない、ということです。」
「それは法律的な問題ですか?それとも個人的な問題ですか?」
「勿論法律的な問題もあります。この国ではまだ、有機的人造人間サイバノイドとの結婚を認めていない。それは仕方がない。ただ今、彼女との交際さえ両親が認めてくれないことが、心の負荷になっているんです。」
「ご両親に、彼女と結婚したいとおっしゃったわけですね。」
「はい。もともと彼女は僕専用の雑用係として家にやってきました。両親は共に仕事が忙しく、僕に構う時間がない。自動制御オートメーション化した広い屋敷の中に僕を一人ぼっちでいさせることに、罪悪感を覚えたのかもしれません。家事や掃除などが出来て多少話をすることが出来れいいだろうと考えて、恐らく両親は生体人造人間バイオロイドでなく有機的人造人間サイバノイドをよこしたのでしょう。勿論――――。」
 彼は一旦言葉を切り、ふと自嘲気味に笑った。
「多少燃費がかかりすぎても、セクソイドをあてがう危険性は回避したかったと思ったのかもしれません。」
「でも、ご両親の予測に反して貴方は、彼女を好きになってしまった。」
「ええ。なぜなのか、分かりません。彼女は旧式の有機的人造人間サイバノイドです。作り物の皮膚、作り物の瞳。唇から零れるのは、合成ボイス。埋め込まれたICチップだって、前世紀のシロモノです。」
 彼は、隣に座る彼女へと目を向ける。
 件の有機的人造人間サイバノイドは、話が聞こえているのかいないのか。微動だにせず、前方を見据えている。
 蒼い瞳が映し出すものを、デジタル化して電気信号に送るだけなのに、その目には不思議な表情があった。秘密の森の中に、密やかに水をたたえた湖のように。燐とした奥深い輝きが、その目には宿っていた。
 それが、このタイプのデフォルトなのか。
 それとも――――。
「彼女の蒼い瞳を見ていると、それだけでしんと心が静かになるんです。穏やかな海の波に身を任せているような――――不思議な程に満たされるんです。」
 そう言って彼は、どこか切ない表情をした。
 流星に焦がれる惑星のように、不思議にも彼は彼女に憧れを抱いているのかもしれない。
「彼女と結婚をしたい、と言った時両親はジョークだと最初思ったようでした。」
「・・・・。」
「やがて僕が本気だと分かると、大反対しました。彼らの言い分は『自然なことではない』でした。だからそんな世迷言を言うなと。目が覚めないようならば彼女を・・・彼女を廃棄すると言われました。」
「・・・・。」
「自然なこと。僕にはその言い分が分かりません。僕にしてみれば、愛する人が単に有機的人造人間サイバノイドだったというだけ。僕は彼女に出会い、彼女に恋をした。とても、自然な心の動きでした。」
「成る程。」
 私は、万年筆でカルテをぽんと叩いた。
 アプローチの仕方をシュミレーションする。
「なぜ、両親に認めてもらおうと思ったのですか?言わなければ、別に事を荒立てることなく彼女と一緒にいられたのに。」
「それは・・・。」
 彼の目が泳いだ。
「彼女と二人で暮らしたいと思ったからです。」
「家を出て?」
「はい。二人だけで、暮らしていきたいんです。」
 しかし。それは両親に言った理由にはならない。なぜならば、両親に彼女への想いを打つ明けずとも「独立する」と言えばすむ話だからだ。彼には、両親に「好きな人がいる」ということを言わなければいけない理由があったわけだ。
 それを自覚しているにしろ、していないにしろ。
「両親に言うことに関して、彼女は何と言いましたか。」
「え?」
 私の質問に、彼は意外な程動揺した。
「聞いていません。」
「彼女に?」
「はい。」
「結婚に関しては?」
「一緒にずっといたいと言いました。」
「返答は?」
「そうね、と言いました。」
 私は改めて彼女を見た。
 先程から変わらず、彼女は澄んだ瞳で前方を見つめている。
 瞬きしない瞼が頬に影を落とし、不思議なノスタルジックな雰囲気を醸している。どこか淋しげで、どこかしんと冴えた顔。まるで無表情なのに、なぜか胸を締め付けるような哀愁を持つ顔。
 私の中に、不思議な想いが沸き起こる。
 確かに・・・彼女は普通の、有機的人造人間サイバノイドとは違う。
 独特の雰囲気、というものはロボットには持ち合わせていないものだ。
 ふと私は、彼女に質問してもようと思い立った。そう、普通のカップルを診断するように。
 感情のないロボットに感情的な質問をする。
 概念無きものに概念を訊く。
 その返答が、ロボット固有のものならば・・・それはそれで後は彼だけの問題として捉えればよい。
「貴方に聞きたいことがあります。」
 私は彼女に言った。彼女は初めて、首を動かして真正面から私を見た。
 嘘のない、穢れのない瞳だった。
 どこかアンニュイな、退廃的な瞳だった。
「彼を、愛していますか。」
 シンプルで、一番大切な質問をぶつけてみる。
 彼女の瞳に、微かに宿るかげり。
 それは静かな、小さな小さな波紋だった。
「いいえ。」
 抑揚のない合成ボイスが、高い声を奏でる。
「私は彼を、愛していません。」
「そんなっ!」
 彼は息を呑み、がっくしとうなだれた。
 私はただ、有機的人造人間サイバノイドを見つめていた。
 アイシテイマセン。
 ごく普通のカップルのように応えた彼女。
 ごく普通のカップル以上の、機微な優しさを持って応えてくれた。
 私は、感動した。
 蒼くどこまでも蒼く広がる、彼女の湖の美しさに見惚れていた。


 駐車場から出て行くカップルを、窓から見下ろす。
「嘘をつく有機的人造人間サイバノイドか・・・・。」
 呟きが口から零れ落ちた。
 愛する人の為に嘘をつく。
 愛していないと嘘をつく。
 それこそが「愛」を知っている証拠。
 そんな高等な技術を持つ、有機的人造人間サイバノイドがいたとは。
「いや・・・もっとシンプルに。彼女には、あるのかもしれないな・・・。」
 この世に犇く何億何千というロボット達が夢見るもの。
 どんなに精巧に作られたロボットですら、持ち合わせていないもの。
 マイクロチップの上を走る、幻の電気信号。
「こころ、か・・・。」
 私は呟いて、カーテンを両手で閉めた。
 途端に部屋は、闇に閉ざされた。


Accident(ショートショートショート)

2007-02-04 20:23:12 | ショートショートショート

 自殺願望は、小さい頃からあった。
 自分がなぜ生きているのか。
 特に死ぬ理由がないというだけで生きてきたが、生きる理由が特にないということで死んでもいいのかもしれない、とふとそう思った。
 そう思ったら、雪山に登っていた。
 不思議なことに、自分が死ぬ場所だけは決めていた。
 小さい頃に一度連れてきてもらった、今はもう亡くなった父親の田舎。
 むせるような草いきれの立ち込める山は、冬になると白銀の世界に覆われる。
 夏には劈くような蝉の絶叫で満たされてたこの場所が、冬になると一切が雪に吸収されて神秘的な無音に満たされる。
 それは見ているだけで胸が痛くなってくるような美しさで、私は必ずこの雪に埋もれて死のうと心に決めたのだ。
 雪に埋もれ、見上げる満天の星に包まれて、優しい眠りの中で訪れる死。
 それはきっと哀しい程、甘美なものに違いない。
 私はよく母が飲んでいた睡眠薬をポケットに突っ込んで、夜行列車へと飛び乗っていた。

 吐く息が、暗い闇に吸い込まれるように消えていく。
 雪の重みに枝が撓って、はらはらと降り落ちる音以外、何も聞こえない闇。
 どくんどくんという鼓動が、煩いくらい耳に響いていた。
 雪は思いのほか深く、登ることそれ自体が結構困難だった。
 足を引き抜き、前に突き出すのだが、突き出したその足がずぶずぶと沈んでしまう。後ろ足を引き抜こうとするが、かなり力を入れないと抜き出せない。
 見た目さらさらとしたパウダースノーなのに、ずっしりとした重みがあるものだと今更ながら驚く。
「ああ、もう!」
 なかなか進まないことに苛々して、私は山の中で唸った。
 本当は中腹にある小川まで行きたかった。
 が、体力的に無理だ。
「寒ければ、いいんだもんね。」
 呟きながら、ポケットに入っている瓶を取り出した。
 濃い茶色の瓶は、ぐるりとラベルが貼ってあって中身がよく見えない。
 それでもずっしりとした重さがあった。
 一瓶まるごと薬を飲んで、このまま寝たらきっと朝には死ねるに違いない。
 と、思いながら瓶のフタを開けて、硬直する。
 ・・・・・瓶一杯の、粉。
 錠剤じゃない、粉末の睡眠薬だったのだ。
「嘘・・・そんな・・・。」
 私はぎょっとして、言葉を失った。
 錠剤は、苦しいけどなんとか飲み込むことが出来る。
 でも粉末は・・・・ちょっと難しい。
 ああ、もう。
 どうしてここ一番って時に、こういうミスをするのか。
 思えば、いつもそうだ。いつも大事な時にしくじるのだ。
 私は地団駄を踏みながら、いっそ舌を噛み切ってやろうかしらと乱暴なことを考えた。
 しかし、出来れば奇麗な死体で見つかって欲しい。
 しょうがない。とにもかくにも、沢まで行くしかないのだろう。
 水があれば、どうにか薬が飲めるわけなのだから。
「ああ~~~~、もう!もう!」
 私は舌打ちしながらも、果敢に雪に突進していった。

 沢まで辿りつくまでに、一体どれくらい時間を要したのだろうか。
 体から湯気がたっている。気温は氷点下なのに、むしろ熱い体に心地よいくらいだった。
 はあはあと荒い息をつく私を、つんと澄ました表情で満月が見守っている。
 小川は半分凍りつきながら、そんな満月を映し出す。
 淡い月光を浴びた雪は、きらきらと輝く。よくよく見ると小さな結晶の形をしていて、遠い夜空の星よりも儚い美しさが目に沁みた。
 疲れきった体で、ごろりと大の字に横になる。
 手をぼーんと外に投げ出した・・・・その時。
 左手に、何かつるつるした感触を覚えた。
 石ではない。明らかに人工的なものだ。
 起き上がるのが面倒だったので、私はうーんと体を横にして手の平で雪の中を弄った。
 雪に埋もれていたもの。
 それは―――――黒革の財布だった。
 ぎょっとして、思わず起き上がる。
 財布は見るからに高級そうで、光具合で本物の牛革と分かる。
 たっぷりと膨らんだ中身を、おそるおそる見てみると。
 まずは小金色に輝くカードのオンパレード。札は封こそしてないが、札束1つ分はゆうにあるくらいの量である。
 見たこともないお金に、くらくらと眩暈がした。
 財布の中にはもう一つ、運転免許が入っていた。
 月の光を便りに見てみると・・・・住所は東京だった。
「と・・・・届けた方がいいのだろうか・・・・。」
 そりゃ、いいに決まっている。
 これだけのカードの量にお金に、身分証だ。
 このままここに置いておいたら、見つかるのはいつになることやら。
 でも、私はここで、死のうとしていたんだけど。
 ああ、でもでも、きっと困っているだろうしなあ・・・。
「ああ、ああ、もう!もう!」
 私は髪を掻き毟った。
 私の雄たけびをあざ笑うように、雪はどこまでも美しくなだらかに続いていく。
 大きく一つ、溜息をついた。
 白い息が消えない内に立ち上がり、まるで突撃するように雪道へと戻っていく。
 苛々するくらい進み辛い雪に、相変わらず足を取られながら、ぷりぷりと怒っていた。一体何に対して怒ればいいのか分からなくて、まるで蹴っ飛ばすように雪山を下っていった。

 雪山を降りて最初の交番に、財布を届けた。
 届けてすぐに、雪山に戻るつもりでいた。
 が。
「ちょっと待って。」
 立ち去ろうとする私を、交番の小父さんが呼び止める。どきっとして振り返ると、小父さんは何処にか電話をかけていて、目で私に椅子に座れと言っていた。
 大人しく、座る。
 電話をかけ終わると、小父さんはそのまま何も言わずお茶を入れてくれた。
 私は訳が分からず、差し出された湯のみを手にとってお茶を啜った。
 出がらしの番茶は、思いのほか美味しかった。暖かい温もりが体一杯に広がる。それは冷え切った体をじんわりと包み込み、私を優しい気持ちにしてくれる。
 また、今度にしよう。
 死ぬのは明日でも、いいや。
 そんな風に思った。

 そのままお茶を啜っていたら、走って来る足音がした。
 なんだろうと思っていたら、息せき切って一人の男性が飛び込んできた。
「財布見つかったって本当ですか!?」
 飛び込むなり、その人は叫んだ。
 急いで走ってきたのだろう。真っ赤な顔をしている。
 交番の小父さんは、やっぱり無言のまま財布をゆっくりと差し出して、私を指差した。
 男性は、そこでようやく私の存在に気付いたらしい。
 背が高く、がっちりとした体躯。しかし何より、彼の澄んだ眼差しと零れ落ちそうな大きな瞳が美しくて、私は胸がどきりと高鳴るのを感じた。
「見つけてくれた方ですか?」
 彼は私に尋ねる。どきまぎしながら頷く。
「いやあ!本当に有難う!!なんて言ったらいいか・・・助かりました。有難う、有難う!」
 彼は興奮して、私の両手を自分の手で包み込み、ぶんぶんと振り回した。
 その勢いに吃驚して、私はなすがままだった。
「ここではなんなので、珈琲でも飲みに行きましょう。お礼もしたいし。おまわりさんも有難うございました。」
 彼は財布を大切そうに受け取って、からりと笑って私の手を取る。
 勢いに背押されて、おずおずと立ち上がる私を、まるで引っ張るようにそのまま彼はずんずん歩いていく。
 何て強引な人なのだろう!
 私と初対面なのに!!
 でも不思議と、嫌な気がしない。
 それはきっと、彼の明るい人間性から生まれたものだから。
 あんなに急いで走ってきた彼の懸命さが可笑しくて、私はくすくす笑いが止まらなかった。

 珈琲を飲みながら考えた。
 自分がなぜ生きているのか、やっぱり分からない。
 特に死ぬ理由がないというだけで生きてきたが、生きる理由が特にないということで死んでもいいのかもしれない、とそう思う。
 でも、人生にはアクシデントがある。
 不思議な出会いや不思議な出来事が連なって、こんな風に楽しい一時に導いてくれたりもする。
 捨てたもんじゃない。
 悔しいけど、そう思った。
 捨てたもんじゃないと思っているうちは、生きてみればいいのかもしれない。
 無邪気に笑う彼の笑顔に応えながら。
 そう、思った。

何日君再来(ショートショートショート)

2007-01-30 23:48:17 | ショートショートショート

 曖昧な時間の流れに漂いながら。
 風化しそうな思い出を手繰り寄せる。
 私の手を包んでくれた、優しい温もり。
 撫ぜるように触れた、唇の熱さ。
 砕ける程抱きしめてくれた、腕の力強さ。
 ともすれば夢だったのかと思える程、それは遠い記憶となってしまっているけれど。
 それでも耳を澄ませば、あの時の言葉が鮮明に蘇る。
再見ツァイツェン。」
 はにかんだ笑顔。
 背後に広がる空の、瑞々しい蒼さまでも。
 そしてあの人は旅立った。
 私を思い出の中に置き去りにして。

 唄を歌うようになったのは何時頃だろうか。
 唄を歌い、舞を踊り、人々の喝采の中に生きる舞踊手になりたいと、そんなはっきりとした夢を描いていたわけではないけれど。
 小さい頃から、気付くと私は音楽の中にいた。
 メロディーはそこかしこに溢れていて、いつも私に寄り添ってくれていた。
 しかしこの国では、唄が歌えるということは何程のものでもない。
 春を歌い、春を売り、女達は懸命に生きていく。
 そんな街だから。
 私は今日も、白い舞台の上で唄を歌う。
 見つめる男達は唄に耳を傾けるフリをして、じっくりと品定めをする。
 しんと光る瞳は、今宵の褥にふさわしい温もりを探している。
 一時の享楽に溺れて、ひたひたと迫る現実から逃亡する為に。
 ではその享楽こそ現実である私達は、どうすればいい。
 ただ目を瞑り、耳を塞ぎ、体をいいようにされながら、暗闇の中でじっとしているしかない。
 私は暗闇の中で、あの時の言葉を思い出す。
 美しい青い空が胸いっぱいに広がれば、このやるせなさを少しでも拭いとってくれるのではないか。
 瞼に広がる空に手を伸ばし、爪先まで蒼く染めようと試みる。

「阿片はやめな。」
 番頭は、眉を上げて私を見た。
 煙管に火を点けたまま、私は彼を見下げる。
 小さい頃虚勢されたという噂の番頭は、少年のようにか細い体で、声も心なしか高い。
 とても用心棒には出来ない風体だが、その分頭はいい。
 時折ぞくっとするような、怜悧な目をする。
「阿片は、すぐに体を悪くする。」
「いいの。」
 私はちりちりと焦げる煙草と、それを覆う甘ったるい桃の香りを思い切り吸い込む。
 煙は体に沁みこみ、くらくらとした陶酔感が私を襲う。
 なぜ、生きているのかとか。
 なぜ、ここにいるのかとか。
 どうして、こんなになってしまったのかとか。
 答えの出ない疑問符が、遠く遠く霞んでいく。
 番頭は肩を竦めて、売り上げの計算を続ける。
何日君再来ホーリーツィンツァイライ。」
 小さく、口ずさむ。
 口に出した途端に、涙が零れた。
 あの頃は―――――。
 そう、あの頃はまだこんな風になるとは思っていなかった。
 黄金色に揺れる麦畑の中で、いついつもでも愛や夢を語っていけると信じていた。
 山の頂に雲がかかる時、その黎明な風情に心を震わせ、雨が降れば沸き立つ土の香に酔いしれる。
 ただ自分が自分であることを、信じて疑わなかったあの日々。
 それが今は、こんなにも遠い場所に来てしまった。
 物理的にも、倫理的にも。
 再び会いたくても、もう彼には会えない。
 会うことは出来ない。
 あの頃と同じ笑顔は出来ない。私の笑顔は、ただただ男達を誘う為の笑顔に堕落してしまった。
 膝を抱えてぽろぽろと涙を流す私を、番頭は何も言わずに見守っていた。
 事情も聞かず、言葉もかけず、ただ見つめていてくれる彼の優しさが嬉しかった。
夜香華イエライシャン!」
 その時、奥から私を呼ぶ声がした。
 きっと、客が来たのだろう。
 客がきたと分かるやいなや、嘘のように涙がひいていく。
 哀しみも苦しみも、艶やかな微笑みさえ、生きる為には使い分けなければいけない。
 阿片でふらつく足を踏みしめながら、私は立ち上がり身づくろいをした。
 夜はまだまだ、これから。
 これから、始まるのだ。
 せめて昂然と顔を上げて、歩いていかなければ。
 崩れた化粧を手早く直し、私は魔窟へと身を浸していく。

「再見ツァイツェン。」
 ふと鈴が鳴るような声がして、私ははっと振り返った。
 偽者の絹のベールの向こうに、涼やかな眼差が私を見つめている。
 小さな机に座った彼の姿が、私の心にずしりと響いた。
 壊れたレコードの音が消える。
 女達の嬌声が消える。
 男達のドラ声が消える。
 霞む視界の中で、どうしてこんなにも彼だけがくっきりとして見えるのか。
 棚引く絹布の奥に鎮座する、少年の体を持つ彼。
 蒼く澄み渡った空のように、瑞々しい彼の眼差し。
 そんなはずはない。
 そんなはずはない。
 そんなはずはないのに。
 私は息をするのも忘れて、彼と見詰め合っていた。
 遠くで、私の名を呼ぶ声がする。
 行かなければいけないと思いながら、私の体は金縛りにあったように動けなかった。
 私達は、ただただ見詰め合っていた。
 極彩色の布の波に漂いながら。
 儚く苦い、昔の夢に酔いしれながら。
 ただただ、見詰め合うことしか出来なかった。 

雪の街(ショートショートショート)

2007-01-21 09:19:57 | ショートショートショート

 その街は、不思議な静寂に満たされた街だった。
 一歩足を踏み入れると、まるで鼓膜が溶けてしまったんじゃないかと思えるような、奥深い静けさに抱かれる。
 それはこの街が、しんしんと降り積もる雪ですっぽりと覆われているからだろうか。
 見上げる空は、いつも灰色に染められているか、闇に沈んでいた。
 そして小さな宝石のような結晶が、絶え間なく舞い降りてくる。
 誰もが足を止めて、その幽玄な情景にはっと魅せられる。

 この街にきて五日たった。
 私は五日間、ずっと同じ酒場に通っていた。
 酒場といっても、小ぶりなテーブルがいくつかと、申し訳程度のカウンターのある小さな小さな酒場だった。カウンターの木目は、沢山の人の油と煙草の脂で黒ずんでしまっている。それでもちゃんと磨きこまれ、きちんと手入れがされているのが伺えた。
 この店はいつも、物静かな初老のマスターがいるきりだった。
 私はおなじみになっているカウンターの一番奥の席に座り、目の前の暖炉を見ながら安いウィスキーを飲んでいた。
 他に客は誰もいない。
 暖炉の木が爆ぜる音、マスターが食器を拭く規則的な音、コップにウィスキーを注ぐ音。
 ここにはそれしかない。
 それだけで、まるで十年来の行き着けの店のように居心地が良かった。
 黙って酒を飲みながら、私はいつも厳粛なピアノの調べに身を任せるように、たおやかな沈黙の中に沈んでいくのだった。

「この街は、いつも雪が降っている。」
 ふと、私の口から言葉が零れ落ちた。
 この街には数回しか来てないが、いつもいつも街は雪に埋もれている。
「この街では、季節は冬しかないんです。」
 それまで黙っていたマスターが、機械のように動く手さばきはそのままに、顔だけこちらに向けて微笑んだ。笑うと目元に優しい皺が刻まれて、彼の暖かい人柄を表すような笑顔になる。
「春も秋も夏もないんですか。」
「ええ。」
 彼は小さく頷いた。
 首元の蝶ネクタイが苦しそうに皺に埋もれる。
「この街には、冬しかありません。それは、この街で人が死ぬと、雪が降るからです。」
「雪が降る?」
「ええ。」
 彼は顔を上げて、窓の外を見やった。
 つられて私も外を見る。
 しんとした闇は墨を溶かしたように真っ黒で、その中をふわりふわりと純白の雪を落ちてくる。
 ずっと見つめていると、むしろ自分が空へと登っていくような錯覚が起きる。
「昨日、街外れのご隠居が亡くなりました。死因は老衰。棺の中の彼は、うっすらと笑みを浮かべていました。」
「・・・・・。」
「彼はいつも穏やかに微笑みながら、辛いことも苦しいこともこつこつと乗り越えてきたのでしょう。いつもどこか伏目がちに俯きながら、この店で一杯のビールを飲んでいかれるのが好きでした。」
「・・・・・。」
「心の清い方でした。」
「・・・・・。」
「だから、今日の雪は殊更こんなにも清々として美しいのです。」
 マスターの話を聞きながら、私は目を閉じて祭壇に置かれた棺を思い描いていた。
 それはがっしりとした造りの白い棺の中で、中に小さな老人の体が横たえられている。
 胸の前で重ね合わせた手の平は、きっとこれ以上はないという程深い深い皺が刻まれている。
 街中の人が手向ける百合や薔薇の中で、静かに閉じた瞼の薄さ。しんと冷えた頬。まだ温もりを感じられそうなほど、唇だけが鮮やかに紅い。
 口の端をほんの少し上げて、老人は悠久の眠りにつく。
 それはまるで、お腹一杯になった子供のような満たされた笑顔で、葬列者達は「いい死に顔だ。」と頷きあい、生前の彼の人柄を褒め称える。
 弔いの鐘が、凍った空気の中をどこまでもどこまでの鳴り響いてゆく。
 雪景色の中に連なる葬列が、淡く霞んで見える。
 しっとりと沈むような風景もまた、舞い散る雪に埋もれていく。
「私達は、自分の行く末を知っています。」
 マスターは、きゅっきゅっと力を込めてグラスを磨く。
 彼の手は小さく、細いグラスの中まで器用に指を使って磨き上げる。
「誰もが、美しい雪になってこの街をすっぽりと覆うのです。音もなく、ひんやりとした小さな氷の結晶になって、この街の静かな営みを見守るのです。」
 暖炉で、また一つ木が爆ぜた。
 柊の燃える、精妙な香りが店一杯に広がる。
 店には、たっぷりとした沈黙で満たされていた。
 しかしそれは決して気まずいものではなく、むしろ心がほっこりと暖かくなるような、傷ついた心をそっと両手で温めるような優しさに満たされた沈黙だった。
 氷がぶつかり合い、カランと音を立てた。
 燃ゆる暖炉の火があんまりに暖かいので、私は胸が一杯になってグラスの酒をぐっと煽った。
「ずっと・・・ずっと旅をしています。」
 私の言葉を聴いているのかいないのか。
 マスターは何も言わず、グラスを磨いている。
「数年前、私は自分の娘を亡くしました。」
 彼は真摯な瞳でグラスを見つめ、僅かな曇りも逃すまいと磨き続ける。
 その姿にむしろ背押されて、私は安心して次の言葉を繋げた。
「通り魔の殺人です。ナイフで一突きされ、娘は悲鳴を上げる間もなく道端で息絶えました。まだ、十六歳です。これからあんなことしたいこんなことしたいと沢山の夢を思い描き、未来の可能性に瞳を輝かせている年頃です。」
 グラスから落ちた雫が、テーブルの上に小さな水溜りを作っている。
 私はそこに指先を浸して、浅く目を閉じた。
「なぜ、死ぬのが娘だったのか。なぜ、娘が見も知らない男に殺されなければならなかったのか。私はどうしても分からないのです。そりゃ、完璧な娘ではありませんでした。でも法に触れるような、人様に迷惑がかかるようなことは、一度もしたことがありません。明るくて朗らかで、友達も沢山いて、とても素直ないい子でした。」
 自分の手のひらが、小刻みに震えるのが見えた。
「あんなにいい子が、誰に助けを求めることもなく、黒く冷えた路上で死んでいったんです。お腹に刺されたナイフを抜くことも出来ず、段々と体が冷えていくのを感じながら、一人ぼっちで死んでいったんです。」
 マスターは磨き終わったグラスを棚に置いて、再び窓の外を見つめた。
 外には、相変わらずしんしんと雪が降っていた。
 それは小さな窓を埋め尽くさんとするように、後から後から降っていた。
「そんな残酷なことが、なぜ起こるのか。何がいけなくて、どうすればよかったのか。私はどうしても分かりませんでした。赤黒く淀んだ時間の中で私は、まるで悪夢の中で彷徨っているような気がしました。あのまま普通の生活を続けることなど、とても出来ませんでした。そして、混乱した頭を抱えたまま旅に出たのです。」
 パチパチと大きな音を立てて、薪の山が崩れ落ち、火の粉がぱっと中空を舞った。
 マスターはじっと窓の外を見ていた。
 灰皿に置かれた煙草の煙が、所在無げに煙を棚引かせる―――――。
「神さまに、愛される子供だったんですね。」
 ぽつりと、マスターが呟いた。
 え、と私はそちらに目を向ける。
 マスターは、目を細めて雪の軌跡を見つめていた。
 雪の向こうにある、何かを目を凝らして見つめていた。
「お嬢さんはきっと・・・神さまに、愛されすぎてしまった子供だったんですね。」
 マスターの静かな声が、ゆっくりと私の心の底に落ちていった。
 それは雪のように純白に煌きながら舞い落ちて、私の胸の奥にある小さな小さな泉に、ほんのささやかな波紋がもたらした。
 それは暖かな波となって私を包み込み、抑えようもない力で私を押し流していく。
 ずっと閉ざしていた扉が開かれ、私の中にやっと、静かな静かな哀しみの感情が満たされていくのを感じていた。
「私達は自分の行く末を知っています。誰もが、美しい雪になってこの街をすっぽりと覆うのです。貴方にもきっと、感じることが出来るでしょう。雪の中に、愛しい人の思いを見つけることが出来るでしょう。」
 しわがれたマスターの言葉を聞きながら、窓の外の白銀の世界に目を細めた。
 ひとつひとつの結晶が、つやつやと輝き広い海原を造り出す。
 罪も不幸も哀しみも喜びも、全てを浄化する美しさで。
 そこに、私は高い笑い声を聞いたような気がした。
 まだあどけない、未完成で青く透き通った笑い声。
 それは耳鳴りのように、私の耳にいつまでもいつまでも響き渡っていた。
 私は頬を濡らしながら、じっと耳を澄ましていた―――――。