
たまには真面目に語ってみやうかと(-∀-)ニヘラ
最近愛好家(マニア)なネタか、食い物ネタしか書いてなかったので。
私は基本的に「誰かのため」という言葉を信じません。
例えば恋人が別れの時に
「このままだと君を苦しめるだけだから、君を苦しめたくないから君のために別れたい。」
みたいなことを言うこのセリフ。
ちっとも「君のため」じゃないと思いますね~。
努力しきれない自分が相手を不幸にするのを見たくない「自分のため」でしょ?と思います。
そう。他者との関わりにおいて、「自己満足」というのは常に深く根付いていて。
「誰かのため」というのは往々にして「御為転(おためごか)し」ではないかと考えます。
多分、マザーテレサレベルまでいかないと、「誰かのため」なんてないと思います(・ω・)
私は、人は基本的に「心理的利己主義」であろうと思うのです。
「心理的利己主義」とは、「人間の行為は自分自身の利害に常に動機付けられている」というもの。
複雑な経路を保っていようが、そこに「利害」があるから人は動いていくのだと。
そんな風に考えます。
だからこそ、一見自分の利益より他人の利益を優先させるような「利他主義」ちっくなものを見ても。
いやー、んなことないっしょ ( ̄д ̄)けっ!
という非常に冷たい視線を向けてしまうんですね
先も言ったような「御為転し」はダイキライなんで。
しかも「御為転し」のくせに「相手のためにしょうがない」などと自己満足に浸っているような人は、悪いけど虫唾が走るくらい嫌いなんで。
いちいち訂正したくなります。
アータの行為は、所詮は利己主義なんだよと(←迷惑)
さて。話がすっ飛ぶようですが。
人は無意識下で感情や欲望や衝動を生み出しますが。
そういう無意識下で生み出す機能を「エス」と呼びます。
対して表意識(←自分が自覚できる意識)で現実に適用させる機能を「自我」と呼びます。
この「エス」と「自我」の中間にあって、「エス」からの指令を「良識・常識・道徳・倫理感」で抑制・規制する機能を「超自我」と呼びます。
エスがまんま表に出ちゃったら、とんでもないことになるので(´∀`)
ちゃんと理性のフィルターで濾してあげないといけない。
このフィルターの役割をするのが「超自我」ですね。
ま、なんでこんな話をするかというと。
「エス」から伝達されたものが、「超自我」を通って「自我」に伝達された時。
そこに「勝手な理由ずけ」がなされる時がある。
それがつまり、「気付いてない利己主義」になっているんじゃないかなって思ったのです。
じゃあ、そもそもなんでこんなことを語ったのかというと。
最近知り合った人の、「生き方」について疑問を持ったからなんですね。
その人は、とても素直でちょっと天然の優しい人です。
ただ過去の恋愛で非常に傷ついたことから、
「大切な人を絶対的に守り抜く存在になる」
と心に決めて、それを実践しようとしているところのようでした。
この「絶対的に守り抜く」っつーのが、例えば「浪費癖があるからそれを辞める」だとか。
「人の話の途中に割り込まずに、きちんと最後まで話を聞いて共感してあげる」だとかなら。
私も大賛成なんですけどね。
彼の選んだ道ってのは「感情をシャットアウトして、物事に動じない人物になって大切な人を守る」だったんですよ。
・・・・(;´-ω-)
感情をシャットアウトなんて出来るかいな
いや、自分それに近い状況になったことありますが・・・。
正直本当にシンドイです。人って感情をシャットアウトすると、とんでもなく「心が乾く」んです。
「心が乾く」と、何をしても何を見ても心が感じなくなる。
マイナスに反応しないと同じ、プラスにも反応しなくなる。
愛しいという感情や、優しくしたいと思う感情すら、なくなるんです。
その時に思いました。
鈍色の心では、鈍色の幸せしかつかめない。
それは自分の「本意」とは違う、ってね。
彼も、同じ間違いをしているように思う・・・。
「大切な人を守るため」という「利他主義」にみせかけて。
彼が求めているのは「自分らしさ」を自分の力ではなく他人に「委託」することで、確実に「幸せ」にしてもらいたいと願う「利己主義な願望」が故なんじゃないかと。
情緒をなくした自分が、情緒豊かな相手と付き合い。
その相手を傷つけないように、感情をなくして守り続け。
相手が「幸せ」であることを見届けたいっていうのは。
つまりは自分の「肉」を相手に食わせ、食わせるからこそ相手には「幸せ」になって。
自分を「養分としたこと」を、美しく「昇華してほしい」って願っているに過ぎないと思うんです。
それって誰のため?
結局は、「自分のため」でしかないのではないか。
そう、思ったんですね。
心理的利己主義に彩られた、歪んだ愛情表現は結局歪んだ関係を導き出してしまう。
そうじゃなくて、奇麗に「エゴ」-「超自我」-「自我」の連結が取れた。
あくまで「ありのままの素直な自分」として生きるのが、一番の「幸い」なのではないかと思うんです。
哀しみは哀しみのまま。
苦しみは苦しみのまま。
喜びは喜びのまま。
愛しさは愛しさのまま。
ただありのまま、心に抱き表現していけばいい。
そして「大切にしたい人」と、お互いに想いを享受しあい昇華しあっていけばよい。
そういう深く築かれる「絆」が、「希望」を生み出す。
「こんな風に幸せを感じさせる人がいるのだ」という「希望」が、人の心に「強さ」を生み出す。
その「強さ」が、結局はその人を「守って」くれるんだと思うのです。
人は支えあって生きていくものだけど。
結局自分を最後に守るのは、自分自身の「強さ」だと思う。
だから、「なんちゃって利他主義」で強さを生み出す方法を模索するんではなく。
「利己主義」全開で、いかに「強く」なるかを模索すべきなんじゃなかろーか。
それが結果的に相手にも「幸せ」を齎すならOKじゃん。
・・・と、そう思うんですけどね(;´Д`A ```