南町の独り言

様々な旅人たちが、日ごと行きかふ南町。
月日は百代の過客、今日もまた旅人が…。

電気と民主主義

2012-07-09 17:35:49 | Weblog
エネルギー政策PTで勉強をはじめてから、電気のことがいつもどこかで気にかかります。
こうして何不自由なく電気の恩恵を受けていていいものだろうか?
もっと何か深く考えなければならないのだろうに…ここは別天地です。
そんな折、作家「曽野綾子」氏の一文が目に留まりました。

「 …私は人生の後半になって、アフリカなどの途上国を125ヵ国も歩くことになった。
私は満月の夜のサハラの中心部で眠り、カメルーンの奥地では、ホタルの光を波のようにかき分けて入る原生林の奥のピグミーの村を訪ねた。
それらの広大な地域の特徴は、すべて電気がないということだった。
かつてソニーの盛田昭夫氏が、「ソニーにとっては存在しないのも同然の土地」と明晰に言われた広大なアフリカの大地である。
当然だろう。
電気のない地域では電気器具が売れないのだから、ソニーは一店の支店を置く必要もなかったのだ。
そうした場所には際立った文化的特徴があった。
たとえ人の住む村があったとしても、電気のない土地には、民主主義は全く存在しない。
その気配すらないのである。
そうした原始の地域は、今でも族長支配の社会形態の元にあり人々は昔ながらの仕組みで暮らしている。
電気と民主主義とは、完全に不可分の関係にあるということを日本人は知らない。
たとえ村に学校があったとしても、午後になって子供たちは家に帰ると、臼に米を入れて何時間もかかって杵で搗く。
兄弟姉妹が代り合ってその作業をするが、それが終わって日が沈む頃、人々は家の前の竈に火を起こして米を炊きおかずを煮る。
貴重な薪の香ばしい煙が村の道にたなびき、やがて竈の火が夕暮れの村に赤々と浮き立つ。
人々は太古からそうして暮らしてきた。
近年、総選挙が初めて行われた国もあるが、人々は族長の命じる党に一票入れて来ただけだ。
多くの人は字が書けないから、絵や色で投票する。
電気のない土地はその土地なりの眠たげな平穏に包まれているが、それは私たちが目指すような個性の尊重される社会ではない。
個人を生かしているのは電気の力だけなのである」

さすがは作家のペンの力です。
子供時代、暖をとったのは炭であり、朝の焚火でした。
暑い夜は家中の窓を開け放ち、蚊帳をつって寝る毎日でした。
学校から帰れば誰もが川に一目散で飛び込みました。
まさに眠たげな平穏な光景でしたが、今そこに帰ることは難しいですね。
電気と文化的な生活と民主主義は一体なんですね。