南町の独り言

様々な旅人たちが、日ごと行きかふ南町。
月日は百代の過客、今日もまた旅人が…。

私にとって価値あるものは?

2010-05-09 19:36:33 | Weblog
(恥ずかしながら)最近になってようやく自分の心の中を少しだけのぞくことが出来るような感じがします。
朝起き掛けに布団の中で、あるいはただただ歩いている時間に、それらは“ふっ”と浮かび上がってきたりします。
のぞこうとしている中身は他愛のないことかもしれませんが、こういった時間がたまらなく豊かで尊いものに思えてきました。
(なんて私は薄っぺらな人間だったのだろう・・・反省しきりです)

こういう心境にさせてくれた恩人たちが私の周りには大勢できました。
その人たちには例外なくある種のパワーがあります。
決して宗教人でもないし、俗に言うお金持ちや偉い人たちでもありません。
会話しているとひとつひとつの言葉が実に綺麗なんです。
言葉遣いが綺麗というのではなく、“言葉”そのものから力があふれでています。

先日のことです。
その方には100歳を超えるお婆ちゃんがいるそうですが、そのお婆ちゃんの口癖は「もう死にたいよ、なんの役にもたたないし」。
そうすると息子さんは「そんなことないよお婆ちゃん、生きているのがお婆ちゃんの大切な仕事なんだからね」。
お婆ちゃんはすかさず「その仕事が大変なんだよ、生きるだけでもものすごいストレスなんだよ」。
簡単な会話ですが、深い深い会話ですね。
その深さがこれまでの私にはわかりませんでした。
自分の心の中をのぞけるということは、人の心の中をのぞけることに繋がるんですね。

今日は親父とお袋の手伝いで、おそらく最後のお茶摘みを手伝いました。
来年からは近所の人に茶畑をまかせるからです。
親父にとっては若い頃から丹精こめて育てた茶園です。
一緒に茶摘をしながら親父の心が伝ってきました。

人は誰しもいつかは死を迎えます。
死には“納得できる死”とそうでない“死”があります。
100歳のお婆ちゃんが待ち望んでいるのは天寿を全うした“納得できる死”です。
生き物の中で自ら命を絶つ“死”を選ぶのは人間だけです、
なぜでしょうか?それは人間が心で感ずる存在だからです。

人はなぜ生きていられるのでしょうか?
マザー・テレサの言葉です。
「この世の最大の不幸は、貧困や病ではありません。
だれからも自分は必要とされていないと感ずることです」。

人はどんなとき自ら死を選ぶのでしょうか?
その人にとって“価値あるもの”をすべて失ったときです。
親父にとっての茶園はひとつの大切な“価値あるもの”でした。
私にとっての“価値あるもの”はなんでしょうか。
あなたにとって“価値あるもの”はなんですか?

来週はしばらくブログをお休みします。
川勝知事を団長とする訪中団に参加するためです。
ゆっくりと私にとって“価値あるもの”がなにかを考えてきます。