南町の独り言

様々な旅人たちが、日ごと行きかふ南町。
月日は百代の過客、今日もまた旅人が…。

58年間の検証

2010-05-04 17:11:10 | 読書

昭和26年は私が産まれた年ですが、この年の9月8日に対日講和条約の調印式がサンフランシスコで行なわれました。
そして講和条約は翌27年4月28日に発効されます。
敗戦から6年を経て、ようやく国家としての主権を回復した記念すべき日です。

昭和20年9月1日から講和条約が発効されるまでの長い物語“児島襄著「講和条約全3巻」”をやっと読み終えました。
テレビではGWに似つかわしくない「普天間基地」問題で、鳩山首相が沖縄へ出向いて謝罪したというニュースで持ちきりです。
お騒がせな首相ではありますが、日米同盟や国防について日本国民に考えさせることが出来たという点では高く評価します。
こんなことでもない限り、この本を大枚はたいて買ってまでして、読むことはなかったと思います。

この本の最後の章は、“終わらない「戦後」”で閉じられます。
サンフランシスコ講和条約の調印日寸前まで、ソ連代表は占領軍の撤退とその撤退後も外国軍(米軍)が日本駐留を続けることに反対していました。
そして日本が最低限の軍備を持つことを認める発言もしておりました。
米軍が仮想敵国としてソ連を念頭に、沖縄駐留を進めていることに不快感を持っていたからでしょう。
調印時間わずか1時間前にソ連代表グロムイコは300人を超える記者団を前にして次のような声明文を読み上げました。
・日本は米国の軍事基地に転換されつつある。
・講和条約の目的は米軍を日本に駐留させることにある。
結局、ソ連は講和条約への調印に参加しませんでした。
(今現在、戦争決着がついていない国はソ連(ロシア)と北朝鮮の2カ国です)

歴史に“もしも”“たら・れば”はありませんが、あの時ソ連の主張が通っていれば、日本はまったく違った国家になっていたでしょう。
講和条約成立後の日本について、当の日本人はどう向き合ってきたでしょうか。
大きく分けてふたつの考え方があるように思います。
ひとつは自主・独立国家として、なんでも自分で考え、自分で決定し、自分で行動することのできないジレンマを感ずる日本人。
もうひとつは吉田茂が描いた日本人的な従属関係、すなわち封建時代に慣れ親しんできた「家来」であり「臣民」として、権威の下で安住したいとする日本人。
どちらも日本人であることは間違いありません。
1億人の選択を時代は求めているのかもしれません。