城郭探訪

yamaziro

天神山砦 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 
 
  
 
 
現地の縄張図
東郭の西側堀切・土橋

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町国安・天神前   map:http://yahoo.jp/jAjZwc

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:羽柴勝豊(大金藤八郎:山路将監正国、木下半右衛門利久)

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:210m 比高差:60m

目標地:草岡神社

訪城日:2015.5.24

東郭の虎口

お城の概要

天神山砦は北東へ張り出した丘陵の頂部に築かれており、先端に茶臼山砦がある。

天神山砦は東西二郭を中心とした砦で、西郭の方が高所にあり主郭と見られる。

西郭は南北に長い曲輪を土塁が巡り東側に虎口が開く。虎口は平入で主郭の周りを腰曲輪が巡り、北尾根と南尾根に堀切を設けて遮断する。南はさらに小郭があり、その先は深い自然の鞍部となっている。

東郭は一番良く整備されている曲輪で、土塁で囲まれた曲輪の北側に屈折した虎口が開く。南は深い空堀に土橋が架かり、更に小郭と堀切を経て西郭へ続く。東郭の周囲には腰曲輪が巡り、北に虎口があるが、薮が激しく形状は把握し辛い。

天神山砦の北端部は自然地形の緩斜面であるが、この側面に一部三重となった横堀が巡らされており、見所の一つである。

  中央の鞍部で東と西に分かれる。東西の頂部に土塁と腰郭が廻る郭が設けられ、尾根筋は堀切で防御を固めている。
東の主郭と腰郭の虎口は東側に開かれ外枡形を備えている。腰郭の東15m程の所に三日月状の身隠し(塹兵壕)、その10m先にも浅い横堀と低い土塁があり、これも身隠しと考えられる。さらに東に緩やかに傾斜する郭の先端が二重の身隠し。尾根先の南北に竪堀が設けら、その北東が鞍部を隔てて茶臼山砦となる。主郭の南に数段の段郭がある。
西の郭は西側に鞍部を利用した二ヶ所の堀切を穿ち、堀切間に塹壕状の小郭を設けている。北尾根にも一本堀切が入っている。主郭は繭玉状で土塁が廻る。腰郭にも要所に土塁を設けている。虎口は主郭の南、腰郭の南東に開くが平虎口である。
東西の郭を連絡する犬走りが南側に走っている。
この砦は、羽柴軍の最前線基地で北国街道の通る狭い谷筋から盆地へと地形が最初に変化する所で、柴田軍の南下を押さえる絶好の位置にあり、城域も370m×70mで羽柴軍の陣城中では田上山城に次ぐ大きさを持つ砦で、羽柴軍の戦略上重要な位置を占めた砦でることが分かる。

歴史

 天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際には、前年暮に羽柴秀吉軍に降った長浜城主・柴田勝豊の与力の大金藤八郎や山路将監正国、木下半右衛門利久らに砦を築かせ、丹羽長秀の兵らとともに守備させたが、目前の行市山から林谷山の尾根筋に柴田勝家軍が長期戦に備えた陣を布いたため、天神山砦は高所より圧迫され守備が困難となり、秀吉はこれを放棄し、堂木山・神明山へと最前線を後退させ、東野山砦とともに北国街道封鎖ラインとした。

 前線を下げた秀吉は、大金藤八郎・山路将監正国を神明山に移し木村隼人と同陣させたが、後に浮説により二人を堂木山に移したとされる。東主郭の土塁

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

草岡神社より、天神山砦へ
神社の鳥居そばに説明板
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 神社の背後が砦。神社の西へ獣害フェンスの扉から遊歩道(城道)を登る

道案内        map:http://yahoo.jp/jAjZwc

 木之本から北に国道365号を6.7km程行った片岡郵便局を過ぎた直ぐの信号で左折する。西に道なりに400m程進むと草岡神社に至る。その裏山が砦跡である。神社付近に駐車し、神殿に向かい左背後の山道を10分程登れば砦跡に着く。神社の鳥居そばに説明板がある。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

            本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


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