所在地:犬上軍甲良町在士
別 名:在士村屋敷
初城主:藤堂氏
区 分:居館
訪城日:2014.5.9
公園内に展示されている残念石
公園内に展示されている残念石大坂城築城時の残念石
ノミの跡が
藤紋入り石燈籠
在士館は藤堂高虎の出生の地とされ、現在では “高虎公園” として整備されている。
在士館跡は全くの平地で、周囲は田んぼ、また東隣にはスーパーが建ち、遺構らしきものは残されていない。
公園内には藤堂高虎の銅像や、大阪城築城の際に使われなかった藤堂家刻印入りの残念石などが展示されている。
歴 史
***「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。
――――「江州佐々木南北諸氏帳」に
在士住 佐々木旗頭 藤氏 藤堂豊後守 とあり
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在士館は別名を在士村屋敷といい、藤堂家の祖先の館であるとされる。
佐々木旗頭藤氏 藤堂豊後守(大洞弁天当国古城主名札)
藤堂高虎は父・虎高に従い、若くして浅井氏に仕えたが、浅井家滅亡後は秀吉の弟・秀長に仕えた。
秀長が死んだ後、関ヶ原の戦いでは家康に従軍し、軍功を認められ今治20万石の城主となった。
外様ながらも幕閣に加わり、後に伊勢津城4万石から伊賀上野城32万石の大大名となった。
在士八幡神社の藤堂家ゆかりの藤
神社門も藤
藤堂高虎が出生したとされる在士館がある。
藤堂虎高
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永正13年(1516年) |
死没 | 慶長4年10月18日(1599年12月5日) |
改名 | 源助(幼名)→虎高 |
別名 | 白雲斎(号) |
主君 | 武田信虎→京極高吉→浅井亮政→ 久政→長政 |
氏族 | 三井家→藤堂氏 |
父母 | 父:三井乗綱、養父:藤堂忠高 |
妻 | 正室:藤堂忠高の娘 側室:宮崎一郎左衛門の娘 |
子 | 娘(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎、 娘(山岡直則室、後に渡辺守室)、 高清、正高、娘(藤堂高経室) |
藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。愛智氏を称したこともある。
生涯
近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。
若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛され主君の武田信虎より「虎」の一字を賜るほどとなったが、(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬により)武田家を離れた。近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。
婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。長男高則は早くに戦没したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲び白雲斎と号した。慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去。享年84。
参考資料:『日本城郭大系』、「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 、大洞弁天当国古城主名札、淡海の城、『ウィキペディア(Wikipedia)』
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