城郭探訪

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探訪「近江水の宝」~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~

2012年10月16日 | 探訪「近江水の宝」

「近江水の宝」は、琵琶湖や水にかかわる文化遺産のうち、特に優れたものとして滋賀県教育委員会が64件を選定し、地域資源として魅力を発信して、その価値の定着化をはかっています。

上布とは麻を素材とした織物で、近江上布の生産は鎌倉時代に京都から職人が移り住んだことに起源するといわれています。室町時代にはすでに高島(高島市)や高宮(彦根市)の上布が名産品として知られ、江戸時代には彦根藩の奨励策もあって、豊かな湧水に恵まれた湖東地域一帯の村々でさかんに生産されました。そして、これらは中山道高宮宿に集められて旅人へ販売されるとともに、近江商人によって全国に持ち運ばれたことから、高宮布と呼ばれて名声を博し、彦根藩から将軍家への献上品としても用いられました。

現在も愛荘町では、宇曽川や愛知川の豊かな伏流水の恵みを受けて、高宮布から受け継いだ伝統の技で近江上布を作り続けています。また、豊郷町は、こうした高宮布を江戸時代に商った偉大なる近江商人のふるさとです。

今回の探訪では、県の文化財専門職員および、愛荘町や豊郷町の観光ボランティアガイドのみなさんが同行案内し、近江上布の織手と商人の里を、中山道に沿って詳しく訪ねます。

てんびん鞠資料館 http://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201210080001/

探訪「近江水の宝」~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~20121014

旧愛知川役場

近江の麻(近江上布伝統産業会館 見学)

 近江上布は、京都の職人が宇曽川沿いで農業をするかたわら教えたのが始まりと伝えられ、永禄元年(1558)には犬上、愛知、神崎、蒲生などで生産されたものが近江商人によって諸国に売りに出されたといわれています。江戸時代には彦根藩は、国産方により、彦根藩の副業対策として麻布の振興を計り、着尺地、蚊帳地を増産し、文明年間には板締や櫛押による絣模様が開発されました。天保2年(1831)には、近江麻布蚊帳改会所を設立し、良品の生産に努め、近代になると、羽根巻による型紙捺染法を工夫し、絵羽調の縮絣が人気を呼ぶようになります。昭和52年3月には伝統的工芸品として国の指定を受けるにいたります。

中山道愛知川宿~中仙道を東へ下る

むちんばし絵図

 

愛知川宿北入口の道標

更に、中山道を北へ・・・商人屋敷や神社仏閣が続きます。

 

歌詰橋…愛知川宿から、宇曽川を超える橋

愛知川ボランティアカイドさんの案内は、ここまで!

 

歌詰橋を渡れば、豊郷町!

橋をわたり豊郷へ

豊郷町ボランティアガイドさんに交代 

パンフレットより

 

江州音頭http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9E%E9%9F%B3%E9%A0%AD

      http://go-shu.biwako-visitors.jp/index.html

滋賀県には近江商人の町と呼ばれるところがいくつかあります。豊郷町もそのひとつです。

豊郷出身の豪商

又十・・・藤野家屋敷(天平の飢饉普請の屋敷)

北海道の松前で、「はごろも缶詰」創業、

 

 

現在の大手商社の伊藤忠・丸紅の創始者で近江商人の筆頭とあげられる伊藤忠兵衛は、1842年に繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれました。現在、伊藤忠兵衛の本家は記念館として開放されており、「見越しの松に黒い塀」と呼ばれた堂々とした造りで、中山道に面してひときわ目をひきます。

 

総合商社の伊藤忠、丸紅の創業者である伊藤忠兵衛の出身地も豊郷町です。伊藤忠兵衛に仕え、後に丸紅商店(現、丸紅)の専務となったのが古川鉄治郎という人です。古川鉄治郎の出身地も豊郷町。

 

 

近江商人を表わす言葉に「三方よし」というものがあります。商売においては、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方がよくなければならないとする経営理念です。三方よしの実践者であった伊藤忠兵衛の意思を忠実に受けついた古川鉄治朗は、世間よしとするための事業を行ないました。

それが旧豊郷小学校の建設。旧豊郷小学校を目の前にしたとき、近江商人の地域社会に貢献したいという、心意気に圧倒されるます。

 

アニメ殿堂【旧豊郷小学校】「聖地巡礼」としてファンが訪れているhttp://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201210160004/ 

旧豊郷小学校の校舎は、今からおよそ70年前に建設されました。当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのヴォーリス建築。                            写真でも分かるように、横に長い建物で、その趣のある様はとても小学校とは思えません。                                                          当時のお金で60万円の費用、古川鉄治郎は私財を費やして小学校を建設し、寄贈。                                                 故郷に充実した教育設備をもった小学校をつくりたいとする思いが、この事業を導いたのです。

しかし、建設から70年を経た現在、この校舎は使用されていません。                                                                     老朽化による、強度不足で、安全が確保できないとの理由がら、一時は解体の危機に遭遇しました。                                                     地域住民からの反対運動で何とか今現在は解体されずに残っています。                                                          新校舎も建設されました。

近江商人の三方よしのなかで、世間よし実践の証として記念碑的に残すのがいいのかどうか、保存のための費用など、まだまだ検討すべきことがらは多くあるように思います。

 

 

 那須城は旧中山道沿いにあって、豊郷町の八幡神社一帯とされ、八幡神社の境内に石碑が建てられている。
豊郷小学校の南に土塁が残されていたといい、その規模は一辺が50m~100mはあったことになる。
 また、付近には「門根」という一画があり、城門があったという伝承もある。


 八幡神社前には、昔は豊郷町役場前にあったとされる土饅頭型の一里塚が再現されており、このような一里塚もあったのかと認識を新たにした。

 那須城の隣に「弘誓山称名寺」

那須城は治承・寿永の乱(源平の争乱)において、元暦2年(1185年)の屋島の戦いで平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした那須与一宗高の次男・砂田民部大輔宗伝が城を築いたと伝えられるが、定かではない。

近江七弘誓寺:中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。              那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てた寺

・・・豊郷駅へ

~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~充実した、探訪ウォークでした

 

本日の歩数 18,336歩   2時間56分    12.8km

消費カロリー 791.9kcal    脂肪消費量 113.1g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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