城郭探訪

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中山陣屋 近江国(日野)

2016年03月30日 | 陣屋

お城のデータ 

所在地:蒲生郡日野町中山西谷 比定地 map:http://yahoo.jp/YkvebM

現 状:宅地

遺 構:

区 分:陣屋

築城期:江戸期

領 主:関氏

目標地:光明院・中山西会議所

駐車場:中山西会議所に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

比定地は、個人宅の前の畑地で中山西会議所の向かいである。

比定地の近くの光明院は、元金剛定寺一院の一つであったが文明年間(1469-1487)真宗に改宗・ 光明永正年間(1504-1521)に中興。

お城の歴史

蒲生氏郷は、・・・その後は清州会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、氏郷自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた

蒲生氏の家臣 関一政 (?~1625年)

 関盛信の子。天正十年末、蒲生氏郷は布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、関一政に嫁がせた。天正十一年、伊勢亀山城主。天正十二年、織田信雄と戦う。同年、蒲生氏郷から一万石を賜る。天正十八年、韮山城攻めに参加。同年十月、白河城四万八千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。慶長三年、蒲生家から独立し、信州川中島三万石。慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属し、竹中重門と共に東軍の犬山城を攻める。竹中重門が東軍に寝返る際、その説得を受けて共に寝返る。慶長十五年七月、伯耆黒坂五万石。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。

家臣同士の争いが起きた事から改易される甥氏盛が跡を継

関氏盛 (?~1674年)

  関盛吉の子。伯父一政の跡を継ぐ。安芸守。近江蒲生郡五千石。幕府寄合衆となる

 

中山西集落

光明院参道

蒲生氏の墓石

中山西会議所に駐車遺跡ウォーカーの比定地

旗本札

 ==== 近江国 ====
近江国における旗本札発行旗本の特徴としては、[交代寄合]または[旗本寄合席・寄合]といった大身旗本が発行元となっている点が挙げられる。

[高島郡 (滋賀県)朽木(現・滋賀県高島市朽木野尻)の[朽木氏](交代寄合表御礼衆)は[福知山藩]朽木家の本家筋で、足利将軍家が有事の際にしばしば頼った名家である。

[蒲生郡 大森(現・東近江市大森町)の[最上氏]は、[出羽国]の名族で山形城主であった最上氏が御家騒動により減知のうえ転封し、のち更に減知により国主格のままで交代寄合表御礼衆となった。

[神崎郡 (滋賀県)伊庭(現・東近江市伊庭町)の三枝氏は、甲斐国の名族で[武田氏]の重臣であった家である。

[蒲生郡]中山(現・蒲生郡日野町中山)の[関氏]は、[伊勢国]亀山城主や[伯耆国]黒坂城主を歴任した大名であったが、御家騒動により領地を没収され、養子が改めて旗本として取り立てられて成立した家である。

[蒲生郡 老蘇(現・近江八幡市安土町東老蘇)の[根来氏]は、[紀伊国]の[根来寺]に所属して[豊臣秀吉]の根来寺攻撃に抵抗し、のちに徳川家に属した成真院盛重の後裔である。

近江国の旗本札の特徴としては、銀建て、銭建ての札で、紙幣として使用されることが前提のものでありながら、朽木氏の炭切手、伊庭三枝氏の種切手、中山関氏の豆切手、老蘇根来氏の豆手形、大森最上氏の茶切手というように、いずれも商品切手[商品券]の名目をとっている点がある。近江国では、[彦根藩]、[膳所藩]、[水口藩]、[大溝藩]など、江戸期に発行された同国諸藩の藩札も同様の特徴を有している場合が多い。

 老蘇根来氏は、陣屋を構えていた老蘇のほかに、[大和国 [宇智郡]の知行地においても札面が類似した様式の紙幣を発行した。

参考資料:関氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、滋賀県中世城郭分布調査1、『日本城郭大系』11、蒲生の家臣団

    本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


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