主 催:米原城歩会主催
講 師:長谷川博美氏
訪城日:2016.11.23
男鬼入谷城(高取山城・男鬼城)見学会 2016.11.23
彦根市教育委員会hp「わたしの町の戦国」解説シート 18
■ 男鬼入谷城跡 ■
男鬼入谷城跡は、彦根市の男鬼と多賀町甲頭倉の間、標高 685 メートルの高所に位置しています。
周囲は見渡す限り山又山。山中に孤立したように存在していますが、規模は大きく、発達した城郭構造が注目されます。 男鬼入谷城は、尾根上の3つの頂部と尾根筋を利用して築かれています(下の縄張図参照)。
3つの頂部をⅠ郭 かく ・Ⅱ郭・Ⅲ郭と呼ぶことにしましょう。まず北東のⅠ郭を見ると、北東側に大規模な三重 の堀切 ほりきり を設けて高取山山頂へ伸びる尾根を切断し、竪掘りや土塁、そして石積みを加えています。一方、南東側に伸びる尾根にも曲輪群を配し、土塁や食い違い縦堀、畝状 うねじょう 竪堀群などを加えています。 中央のⅡ郭は規模が小さく、南東側に 小さな曲輪群を階段状に設けています。先端部の二重堀切は大規模なものです。Ⅱ郭から西側に伸びる尾根にも、竪堀につながる規模の大きな堀切を設けて尾根を完 全に断ち切っています。 西側のⅢ郭は南西側にのみ土塁が築かれています。Ⅲ郭から南に伸びる小さな尾根には堀切を伴う小曲輪群が設けられていますが、Ⅲ郭にもっとも近い小曲輪は土塁が巡り石積みで補強されています。
このように見てくると、男鬼入谷城が北東から南方面に対して防御を厚くしているのに対して、北から西側にはほとんどそうした
施設が確認できません。北東から南方面の敵に対する備えの城であったと いうことができるでしょう。また、男鬼入谷城の多くの
堀切は岩盤を掘削しており、要所に石積みを用いるなど、高い土木技術が施されていました。人の寄り付かない深山を選び、そこに高い土木技術を用 いて城を築いた人物は、いったい誰だったのでしょう。
■ 深山の築城者は誰? ■
一般に、近江の戦国時代は、南の六角氏と、北の京極氏・浅井氏との対立の時代として語られます。 浅井氏が京極氏の家 か 督 とく 争いに乗じて台頭し、やがて湖北を支配するようになるのが天文年間(1532~ 1553)の頃。しかし、この頃、浅井氏の湖北支配は盤石なものではなく、京極氏の勢力もあなどれな いものがありました。 天文19年から22年(1550~53)にかけて、京極高広は、六角氏と抗争を繰り広げます。注目 されるのは、この抗争で高広軍の南下が常に霊仙山系を越え芹川に沿って平野部を攻めるという、山越えルートである点です。浅井氏によって平地を追われた京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推定されており、抗争で立てこもる拠点として男鬼入谷城が築かれたのではないかと考えられています。